祭りの夜

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祭りの夜

 一年も半分以上が過ぎた頃、八の月の真ん中の日──十五日に行われる祭りがある。  とある、多くの山々に囲まれた村で行われる祭りはこの一つだけだ。たまに来る行商人たちによると、普通はもっと頻繁に祭りを行うらしい。もっと神に感謝を捧げる機会を増やしなさい、と村人たちはよく言われるが、決して祭りを増やすことはしなかった。  そして、この祭りに関しては多くの言い伝えが残っている。その年に成人する女子は必ず赤い着物を、男子は必ず濃紺の着物を着なければならないことや、その日は水と酒以外は口にしてはならない、など。  幾つかは眉唾ものだと認識されており、ひっそりと破ってることも多いが、この一つだけは必ず破ってはいけないと言われていた。破ると神様に連れ去られてしまう、と。  それは『祭りの夜は出歩いてはならない』ということだった。(かわや)へ用を足しに行くのも必ず日中に行い、家から一歩も出てはならないのだ。  そしてある年、一人の少女が家を出た。  白露(しらつゆ)はそっと草鞋(わらじ)を履き、外へと出た。村の住人は既に寝静まり、白露の戸を開ける音だけがやけに大きく響く。  白露が家を出たのは、母の病状が悪化したためだった。白露は父を知らず、母と二人暮らし。病弱な母を白露がそっと支えて、助け合って、細々と暮らしていた。  祭りの日の今日はいつもより母の体調が良く、母は積極的に働いていた。けれど祭りの日は水と酒以外を口にしてはいけない。それが原因でか、母はまるで(はか)ったかのように、日が暮れると同時に体調を崩してしまった。  日が暮れて一刻程度はまだ良かった。横になって水を飲むだけで少しは楽になったようだったが、それ以降はどんどん顔色が悪くなり、不安になった白露は言いつけを破って、村の中央にある共用の薬の倉へと向かうことにしたのだ。  この村では薬は貴重なため、皆で平等に使うために村が管理しており、各家庭には胃痛を若干和らげる効果の薬しか置けなかったのだ。  白露はそっと足音を殺して、薬の倉へと向かった。静かな村はいつもと違い、とても薄気味悪い。  しばらく歩くと、薬の倉が見えてきた。白露はほっとして、足早にそちらへと向かう。  ──チリン  小さな鈴の音が白露の耳に届く。立ち止まって辺りを見回すも、鈴がありそうなところなどない。しかもよくよく注意を払えば今夜は風が吹いてなかった。ということは人為的に鳴らしたはずだが、村人は皆寝静まっていて、人の気配はない。  空耳だと思い、白露はさらに一歩踏み出した。  ──チリン  再び鈴の音が響く。風はないし、人もいない。  薄気味悪さを感じながらも、白露は一歩、足を進める。  ──チリン  ふと、何かに引き寄せられるかのように、白露は空を見上げた。そこには黄金の満月が昇っているはずだった。しかし夜空に浮かんでいたのは、赤銅色に輝く満月。しかもそれがいくつも。大量に。  白露は思わず後ずさる。その時も鈴の音が鳴った。まるで白露の歩みに合わせているかのよう。  白露の中にはもう恐怖しかなかった。不気味な音におかしな月。分からない。怖い。逃げなきゃ。  衝動に突き動かされるままに白露は駆け出した。耳元で鈴の音が何回も、何十回も、まるで警報のように繰り返し鳴る。  ふと辺りを見ると、既に白露たちの家を過ぎ、山の麓まで来ていた。ここまで来れば大丈夫。母には申し訳ないけれど、もう今夜は薬を取りには行けそうにない。せめて一晩中寝ることなくそばにいて看病しよう。そう思って家の方へ引き返そうとした。  ──チリン  再び響いた鈴の音に、白露の足は止まった。恐怖で足がガクガクと震え出す。  さぁっと冷たい風が吹いた。赤銅色の月光が強くなり、どこもかしこもうっすらと紅を垂らしたように見える。白露の白い小袖も、赤錆色に染まっていた。  ──チリン、チリン  白露は歩いていないのに、一定の間隔で鈴の音が聞こえ始めた。あたかも他の誰かの足音の代わりのように。  そして、その音は少しずつ大きくなっていく。  ──チリン  突如、肩に手を置かれた。ビクッと肩が跳ねた。振り返りたいけれど、振り返るのが怖い。  ふっと耳元に息を感じ、体が震える。このまま食われるのか。 「──命が惜しいのなら、逆らわずについておいで」  緊張感を孕んだ、けれども優しい男の声に、白露は自然と体の震えが止まった。人だ。人の声。それを感じ取ってか、白露の手首を取り、男は歩き始める。  白露は何が何だか分からぬまま、男に連れて行かれる。男は前を向いているため顔は分からないが、髪は真っ白で、紫色の着物を着ていた。彼は、いったい誰なのだろう。 ──チリン、チリ……  次第に鈴の音が遠くなっていく。やがて山の中を何歩か進むと、その音は全く聞こえなくなった。木々の擦れる音だけが、辺りに響く。 「私の家に行こうか。そこで一晩過ごし、早朝になったら家に帰そう。その頃にはアレ(・・)も居なくなっているよ」  男が獣道を歩きながら言った。白露は訳が分からず、ただ頷くことしかできなかった。  あの鈴の音が何なのか、白露にな分からない。男は知っているようだが、追われている時に聞くのは憚られた。  やがて、一つの大きな穴が二人の前に現れた。男は躊躇いなく、黒々としたその穴へと入る。白露は、穴に入る前にちらりと空を見上げた。  そこにはいつも通りの、黄金の満月が輝いていた。  穴の中は、失礼だが、意外にも綺麗だった。奥の方に古めかしい火鉢が置かれており、ぱちぱちと火の爆ぜる音が耳に届く。当たり前のことだが囲炉裏などはなく、隅っこの方に藁が纏められており、それが茵の代わりだろうと思われた。  白露が穴の入口で立ち止まっていると、男が白露に手招きをする。白露は男の傍へと寄った。 「ここが私の家だよ。何もなくてごめんね」 「別に、大丈夫です」  地べたに座っても、小袖にはほとんど土がつかない。それだけで良かった。今着ている小袖は寝るときに毎晩着るもので、汚して洗うとなると、洗った時刻や天気によってはしっとりと湿っており、風邪を引いてしまうかもしれないからだ。  男は何やら唸っている。ここで白露は初めてはっきりと男の顔を見た。整った顔立ちをしており、瞳の色は金色。こんな色を持っている人は見たことがない。 「うん。ちょっと待っててね」  そう言って男は穴の奥へと行く。火鉢の光が届かないほど奥へ行き、白い髪が闇に溶ける。そんなにこの穴は広かったのか、と白露は驚いた。  やがて、男が戻って来た。その手には一つの器がある。 「はい、水だよ。これを飲んで、今日はもうおやすみ」 「はい」  白露は言われるがまま、水を飲む。走っていたことと緊張からか、存外に喉が渇いていたらしく、いつの間にやら器から水が消えていた。 「そこの藁の上に寝転がって寝るといい。朝になったら起こしてあげよう」  男が隅にある藁を指さした。 「はい。……あ、でも、お母さんが、家で………」  もともと、母に薬を飲ませるために家を抜け出したのだ。母は白露が家にいないことを知れば、更に体調が悪化するかもしれないし、もしかしたら、既に悪くなりすぎて意識が朦朧としているのかもしれない。戻りたい。母のいる家へ。戻らなくては。 「大丈夫だよ」  男がそう言って、白露の頭を撫でる。暖かい温もりは、まるで母のようだった。 「大丈夫。不安な顔をしなくても、ちゃんと君のお母さんは分かっているから」  男の言っていることは分からないが、白露は何故かひどく安心して、瞼がゆっくりと落ちていく。 「おやすみ、白露」  男のその言葉を皮切りに、白露の意識は途切れた。  夢を見た。いつの頃だったか、母が笑っている夢。  ──あなたのお父さんはね、とても綺麗な人なのよ  母は嬉しそうに父のことを話す。家は寝られればいいとか考えていてとても汚かったり、朝日が出ると共に起き、日が暮れると共に寝る生活を送っていたり、と。  ──白露の名前もね、あの人がつけたのよ。あの人が私に見せてくれた真っ白な露草の花畑。それを私が忘れないことを祈ってでしょうね  ──真っ白な露草なんてあるの?  幼い白露が訊く。  母は愛おしそうに微笑んだ。  ──ええ、そうよ。普通は青い大きな花弁が2枚と小さな白い花弁が1枚だけど、それは大きな花弁の色が白で、本当に綺麗なのよ。……本当に、可愛い人。私が忘れるわけないのに  母の語る父はとてもいい人そうだった。なのに、白露を身篭った母を一人にし、今もいない。矛盾している。  白露がそのことを非難すると、母は笑って言う。  ──仕方ないのよ。私たちは住む世界が違ったのだから  その時の母は笑っていたが、泣いているようでもあった。  すっと目が覚めた。こんなに目覚めのいい朝は久しぶりだと白露は思う。 「おはよう」  男が白露の隣に座ってそう言った。もしかしたら、彼はずっと起きていたのかもしれない。そう思うと申し訳なかった。 「おはようございます」  白露が言った。  男が安心したように笑って口を開く。 「じゃあ、行こうか。君の家に帰してあげよう。ああ、だけど、その前にちょっと寄りたいところがあるんだけどいいかい?」 「………はい」  本当は早く母に会いたかったが、恩人である男の望みなら受け入れるしかない。それに、不思議と男の傍からも離れ難かった。 「はい、水。なら早く出発しようか。君も早くお母さんに会いたいだろう?」 「はい」  白露は躊躇いなく頷き、水を飲む。 「その道中に、昨日の夜のことを話してあげる。君も知らないといけないことだろうから」  男の言葉に、白露は確かに昨夜のことはよく分かっていない、ということを思い出した。昨夜のうちに男に尋ねることに思い至らなかったのは、きっと白露も自覚しないままに動揺していたからだろう。  やがて白露が水を飲み終わると、男は立ち上がり、白露の方へ手を出した。 「行こうか」 「はい」  白露は男の手を握った。  穴を出ると、朝日が昇っている途中だった。半分ほど地平線から顔を出した太陽が二人を照らす。朝日とは反対側を見ると、まだ夜の色が残っていた。 「さてと、昨夜の話をしようか」  男が歩き出しながら言った。白露はこくりと頷く。 「君が追いかけられていたのは、一般的に神様と呼ばれるものだよ」  男の言葉に、白露は驚く。神とは、あんなにも恐ろしいものなのか。聞いているのと違う。 「昨夜は、年に一度神様が人の世界を見て回る夜なんだ。そして祭りを行うことによって村がある場所を伝え、一年の加護をもらうことになっている。他の日に行われる祭りはそんなことはないから、あの祭りは特別だね。だから君の住む村でもあの祭りだけは行われるんだ」  男は淀みなく言葉を紡ぐ。 「この山は特別でね、(あやかし)が多く住むんだ。妖は神様に嫌われた存在。老いることもないから人とは暮らせない。だから山に隠れ住む。……そんな山の麓近くにある君の住む村は、昔から妖と人間の距離が近く、自然と二つの種の血を引く子供が生まれるようになった」  男が言葉を区切る。白露は必死に話を理解しようとしていた。男は言わないが、この山で暮らしていて、その髪と目の色から、きっと男は妖なのだろう。何故、彼は──妖は神から嫌われるのだろうか。 「子供は神様の忌む、妖の血を半分引いている。だから神様はそんな子を嫌い、祭りの夜、出会ったら殺してしまうんだ。君は妖の血が濃いから、狙われてしまったんだね」  男の足が止まる。男が手を伸ばし、白露の頭を撫でた。  温かい手のひら。人と変わらない。 「まあ、そういうことさ。君の住む村では、妖の血が混ざってる人の数が優に半分は超える。だから祭りの夜は出たら行けない、という風習ができたんだ。………さあ、ここだよ」  そこはいたって普通の崖だった。白露は首を傾げる。 「もう少し、崖のそばに寄ろうか。そうしたら分かるよ」  白露は男に手を引かれて、崖のそばへ立った。そして見えた崖の下の光景に、おもわず感嘆の声を上げる。  そこには真っ白な露草の花畑があった。あたり一面が、見たことがない、真っ白な露草で埋まっていた。朝日を受け、花弁はほんのり赤く染まっており、とても幻想的な光景だ。 「これを見せたかったんだ。綺麗だろう?君のお母さんも、初めて見たときは似たような反応をしていた」  そう言って、男は笑った。昔を懐かしんでいるのかもしれない。  白露は無性に寂しくなった。もうすぐ別れがやって来る。そうしたら、きっと、もう出会うことはない。出会えない。母の言ったように、住む世界が違うのだから。今会えているのは、ただ一時、その道が交わっただけ。  男は白露の気持ちを分かってか、頭を撫でる。白露は思わず目を細めた。 「……そろそろ時間だ。君を家に帰さないと」  白露は離れたくなくて、男に抱きついた。頬に冷たいものが伝う。悲しい。離れたくない。胸の奥から、ぐちゃぐちゃになった感情が込み上げる。 「…………やだ」 「そう言ってはダメだよ。こういう決まりなんだ」  寂寥感の漂う男の声に、ぎゅっと胸が掴まれる。男だって、妖だって、悲しいものは悲しい。寂しいものは寂しい。こんなに違わないのに、人と妖は住む世界が違う。 「……行きなさい、白露。君のお母さんが心配してるよ」 「だったら、せめて、お母さんに会いに行って………」 「私たちはいいんだ。これで納得してる。今会ったら、きっとあの人は私を叱るだろうね」  男が笑う。それはとても満足そうで、白露は何も言えなくなった。 「普通なら出会うことはなかったのに、私たちは出会えた。それだけで満足してるんだ。………さぁ、白露、あちらへ行けばすぐに村につく」  男が白露を自らの体から引き離し、とある方向を指さした。白露は、泣きながら男の言われた方向へ歩く。  ふと思い出し、白露は振り返った。男は笑ってこちらを見ている。 「ありがとう、お父さん!」  白露がそう言うと、男は顔を歪めて笑った。その笑顔に押されて、白露は村の方へと駆け出した。 「白露!」 「お母さん!」  白露が言われた通りに歩くと、家の裏手に出た。母はそこから戻って来ることを分かっていたのか、そこで待ち構えていた。  葉っぱを頭に乗せて戻って来た白露を、母は力いっぱい抱きしめる。 「良かった…! 本当に、よく無事で……」  母は涙を流しながら、唇を震わせた。ぎゅうぎゅうに締め付けられて痛いが、それだけ心配させたのだ、と思うと目頭が熱くなる。 「ごめんなさい。お母さんに、薬をあげたくて……」  白露は喉の奥から言葉を絞り出す。 「こんなことは、もうしないでちょうだいね」 「うん」  そう言って母は白露から離れ、手を掴んで歩き出す。少し前までも、父にこのように手を引いてもらっていた思い出し、白露は泣きたくなった。 「あのね、お父さんが助けてくれたの!」  白露がそう母に伝えると、母は笑った。一点の曇りもない、心の底から嬉しそうな笑顔だった。 「そう、良かったわね」 「うん!」  朝日は既に昇りきっており、白露の着る白い小袖が、うっすらと赤く色づいていた。
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