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呪術師の最期
地下牢に残ったのは、私とアイラだけ。
彼女はスカートの裾をきゅっと摘まんで、隅に立ち尽くしていた。
彼女は、私のことをここで見張るように、そして逃がさないようにとも命じられていた。
忠実に、その命に従っているのだろう。
「……あの、アイラさん。無理を承知で言うだけ言ってみるんですが……この枷を外してもらうことって、できないですよね……?」
私がそう声をかけても、彼女は小さく首を振って、「ごめんなさい」とつぶやくだけだった。ですよね。
「いいんです。ただ……その、せめてこの外套の切れている部分を結んでいただくことだけでも、できたりしませんかね……?」
私の言葉に少し警戒心をにじませつつも、彼女はゆっくりと私に近づいて、裂け目を結んでなんとか塞いでくれた。
まだ寒いけれど、あけっぴろげよりは断然マシだ。
「ありがとうございます」
純粋な感謝だったのだけれど、彼女は悲し気に呟く。
「どうして、ですか」
「え?」
「どうしてこの状況で、感謝なんてできるのですか……? 私は、あなたをあんな風に罠に嵌めて、ここに捕えたのに」
どうやら彼女は、私を捕らえたことに罪悪感を覚えているらしい。……優しい人だ。
でも、その罪悪感は、無用のもの。だってこれはきっと、彼女の本意ではないから。
彼女が本当に、自らの意思で私のことを捕らえたかったなら、今こうして、私の頼みを聞き入れる道理などない。
「グラムル氏の指示だったんですよね? あなたは彼に、なんらかの呪いをかけられている。あなたは彼に逆らえない。きっと、そういう呪いをかけられているんですよね――?」
「――っ、でも――」
「そんなのただの言い訳にしかならない、なんて思っているなら、それこそ心外です。――少なくとも私は、そんなことは思いません。……誰にだって、優先すべきものは存在しますから」
呪術師は、『彼女には、未来永劫私の従順な使用人でいることを約束頂いている』と言っていた。そしてそれは、ただの約束などではない。そういった呪いをかけられることにより、彼女は今こうして、呪術師に仕えている。
彼女は私を罠に嵌めたとき、『ごめんなさい』と言っていた。そして今も、自らの意思でこの役割を担っているようには見えない。
「そう、ですね。……ありがとうございます」
彼女は、少し笑ってくれた。……そうだ、彼女は悪くない。しかしそれが逆に、私の行動を縛ってもいる。〈血縁の加護〉の魔法を使えばこの枷を壊す――ことは叶わなくとも、枷が取り付けられている壁を壊すことはできるかもしれない。そうすれば、私はここから抜け出して、狼男と呪術師を追うことができる。
だが、王女の呪いを解かなければならない以上、私には呪術師を殺すことはできない。そうなれば、アイラはいずれ、呪術師から、私を逃がした責任を問われることになる。それは、出来るならば避けたい。それに、私がここから逃げるということは、彼女が呪術師の『決して逃すな』という命を全うできなくなるということだ。その結果、彼女にかけられた呪いによって、彼女の命が脅かされる可能性だってある。だから少なくとも私は、この場にもう一度呪術師が現れるのをまって、その場で壁を壊して脱出しなければならない。そのタイミングであれば、責任は呪術師本人にあることになる。
……逆に言えば、それまで私は、ここでじっと、その時を待たなければならない。
であれば、アイラと二人きり、ずっと黙っているというのもおかしな話だ。
「もしよければ、アイラさんがあの呪術師にどんな呪いをかけられたのか、聞かせてもらえませんか」
もしそれを、彼から禁じられていないのならば。
「……私は……」
彼女は逡巡し、ふうと息を吐いて、私の隣に腰を下ろして続けた。
「……私はかつて、奴隷でした」
彼女はそうして、自身の過去を、私に明かしてくれた。
彼女はかつて、奴隷だった。
彼女には母も、父もいない。
気付いた時にはもう、どこかの誰かの身の回りの世話をするために調教される、奴隷だったらしい。
毎日がただ、自分のためではなく誰かのために過ぎて行く。奴隷商の機嫌を損ねれば、魔法による拷問。彼女はひたすら、奴隷商の機嫌を損ねないことだけに必死にだった。
そんな生活に、希望などなかった。
しかしある時、彼女に転機が訪れる。
彼女がまだ、十歳くらいの頃だったそうだ。
彼女を調教する奴隷商のもとには他にも同じような境遇の子供が二人いて、彼女たちは調教の時間を除いて、隣り合う牢に、一人ずつ囚われていた。
ある日、一人の奴隷の少女が、調教の途中、拷問に耐えかねて息絶えた。
その翌日、いつもアイラの前に調教が行われる少年が、いつまでたっても戻ってこなかった。
いつもなら、とっくにアイラの番が来ているのに。
彼も死んでしまったのだろうか……。そんなことを考えていると、いつもよりもずいぶん遅れて、少年が戻ってきた。
虚ろな目をした彼は、手に、牢の錠を持っていた。
――理由は、きかなかったそうだ。
たぶん、彼が奴隷商から奪ったのだろうけど、奴隷商がどうなったのかは知らないらしい。
奴隷に腕輪がつけられるのは、十歳を迎えて、ある程度手首の太さが安定してからになる。そうしなければ、腕輪の大きさが測れないからだ。
アイラにはすでに腕輪はつけられていたが、少年はまだだった。
もしかするとその日は、彼に腕輪をつける日だったのかもしれない。
だとすると、彼が彼の力で奴隷商をどうにかできるのは、その日までだった。腕輪をつけられてしまえば、利き手はほぼ使い物にならなくなる。そうなればもうほとんど、自らの力では逆らうことはできない。
だから彼はその日、最後の機会に、奴隷商を殺そうとしたのかもしれない。前日の少女の死が、彼にその勇気を与えたのかもしれない。そしてそれは運良く、果たされたのかもしれない。
理由はどうあれ、彼女はその日、自由の身になった。
そう思った。
だが、違った。外に出ても彼女は、腕につけられた腕輪のせいで、どこへ行っても嫌煙される。果てには、彼女を捕らえようとする者までいた。
彼女は、その腕輪がある以上、本当の意味で自由になることも、ましてや普通の生活を送ることも叶わないのだと知った。
(どうしてこの世界は、こんなにも残酷で理不尽なんだろう……)
そんな時、絶望に涙する彼女に声をかけたのが、呪術師グラムルだった。
彼はアイラに、こう声をかけたらしい。
『その呪いを解きたくはないか?』
『……あなたは?』
『私は、呪術師だよ』
『じゃああなたが、この呪いを……?』
『いいや、違う。だが私は――』
――その呪いを解く方法を知っている。
彼女にとってそれは、救いだった。
彼女は、その誘いに乗った。
『私が君の呪いを解いたら、何があっても、契約者の命に従う。――これでいいかな?』
呪いが解けるなら、なんだってよかった。だから、彼女はその日、
『――はい』
契約を交わした――。
薄暗い路地の奥。彼は、さらにその奥へと彼女を案内した。
二人がたどり着いたのは、路地の最奥にある、掘立小屋。風雨に曝されボロボロになったその小屋には、一人の老人が住んでいた。
そこで、グラムルはアイラに短剣を手渡して言ったという。
『その老人を、殺しなさい。それが、君が呪いを解く方法だ』
アイラは拒んだが、それが呪いを解く方法だという。
老人は二人を認めると、何かを呟き始めたらしい。
だが、グラムルが『呪言か。――旧世代の呪術師は、やり方まで古くて見ていられないな』と手をかざした途端、その老人の首には赤黒い薔薇の紋様が浮かび上がり、声を出せなくなってしまった。
そればかりか、身体の自由さえきかない様子だったという。
『ここまで強力な呪いを使ってしまうと、相手が金を払うこともできなくなるからね。こういった場面でもないと、なかなか使う機会が無くて持て余していたんだ』
老人はそれでも、地面を這い蹲って、その場から逃げようとしていた。
『……さあ、彼はもう抵抗できない。今の君にも、簡単に殺すことができるだろう』
それでもグラムルはアイラに、その老人を殺すように迫った。アイラは老人から目を背け、『あなたが殺して!』と頼んだ。だが、『それでは意味が無い。それでは、呪いは解けないのだよ』と首を振ったという。そして、
『なに。気に病むことは無い。その男が何をしたか知っているか? 彼は呪術師だ。お前のその腕輪も、お前と共に飼われていた二人の奴隷につけられるはずだった腕輪も、全て彼が呪いをかけたものだ』
その瞬間、アイラはこれまでに味わってきた苦しみを思い出した。
どうして自分があんな目に遭わなければならなかったのか。
拷問の中死んだ彼女は、何故あんな仕打ちの末死ななければならなかったのか。
あの少年は、死んだ少女を想っていたのではないか――。
気づけばアイラは叫び声をあげて走っていて、老人の背中に短剣を突き立てていた。
痩せぎすで肉のほとんどない老人の背中には、アイラの力でも短剣は刺さった。浅くはない。だが決して、深くもない。
老人はしばらく苦しみに悶え、息絶えた。
老人の動きが止まり、荒い息が収まった。その瞬間、重い金属が地面に落ちる音が、路地に響き渡った。
――腕に嵌められていた束縛の腕輪が、外れたのだという。
『契約、成立だ』
同時に、アイラの胸元に、黒薔薇の紋様が浮かび上がった。
『君は私に、大きな借りができた。これからその借りを、ゆっくり返してもらうとしよう』
グラムルの表情が、醜い笑みに歪む。そこで、アイラは思い出した。
グラムルは契約に、期限を設けなかった。
……呪術師は契約を尊ぶ。呪術師は、怪力乱神を語らない。その上で、相手を陥れる。そういう生き物だ。
その日からアイラは、呪術師グラムルにその日の借りを清算し続けている。
どれくらい、彼女の話をきいていたのだろう。
そしてその話を聞き終えてから、どれくらいの間黙っていたのだろう。
……彼女は、呪術師を殺した。その結果、彼女の呪いは解けた。
だが、それはおかしい。呪術師を殺しても、呪いは解けないはずではなかったのか?
いや、そのはずだ。私が出会ったあの事件でも、呪いを受けた息子の母親の手によって、確かに呪術師が殺された。そして確かに、呪いは解けなかった。
だが、だったらどうして、アイラの呪いは解けたのか。
両者の違いとは、なんだったのか――。
だが、その答えを待たず、私はその思考を一時放棄せざるをえなくなった。
地下牢に、誰かが駆け下りてくる。
「……匂いを辿ってみれば、こんなところにいたのか」
階段から姿を現したのは、グーダルク辺境伯だった。
「ここは、ご主人様のお許しが無ければ立ち入りは禁じられています!」
恐らく辺境伯の身を案じてのことだろう、アイラが顔面を蒼白にしてそう叫ぶが、
「その許しも、もう必要なくなったさ」
そう言って、壁にかかった鍵束を使って、牢の鍵を外し、私の枷も外していく。
「ど、どういうことですか?」
アイラが訊ね、辺境伯が答える。
「この宿で、殺人が起きた」
その言葉に、私はひどく不吉な予感を覚えた。
「――誰が、殺されたんですか」
もちろん誰が殺されてもいいわけはない。だが、彼だけは……。
私の問いに、グーダルク辺境伯は枷を外す手を止めて、私の目を見て言った。
「わかっているだろう?」
私が地下の階段を駆け上がり、二階へと向かう途中、正面玄関からは丁度、陽光が差し始めていた。夜が、明けはじめていた。私たちは気づけば、地下室で夜を明かしてしまっていたのだ。
エントランスの階段を駆け上がる。長い廊下を走り抜けて、二階で最も広い部屋の前――。私はその扉を、勢いよく開け放った。呪術師の部屋へと入る。
そこには、呪術師グラムルがいた。彼は、椅子に腰かけ、こちらを向いていた。だが、その目は大きく見開かれ、口は何かを叫ぶように大きくあけられている。その額には、私たちが食事に使ったあのナイフが、深々と突き立てられていた。
「そんな……」
膝から力が抜ける。
雪と氷の町、クランブルク。窓のない、呪術師の宿。
部屋の中なら昨夜は寒さなど感じなかったのに、今朝はひどく寒い。口からは白い吐息が漏れ、視界を曇らせる。
その日の朝――
呪術師は、殺されていた。
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