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クランブルク
「旦那、旦那ってば、起きてくだせぇ。そろそろ着きますぜ」
「んあ」
野太いおっさんの声で目が覚める。素敵な目覚めだ。起き抜けで霞む目を擦り、世界の輪郭を獲得する。
ごとごとと揺れる馬車の中。流れる景色は穏やかな平原。魔法の蹄鉄を嵌めた馬がヒヒンと小さく嘶いたのは、寝覚めの私への挨拶だったのかもしれない。
私は王女と別れた後、クランブルクに向かうという商人のおっさんを捕まえて、運賃を払ってその馬車に同乗させてもらった。王都を発って、もう3日になる。
「すみません、寝てしまっていましたか」
「そりゃもう気持ちよさそうに、涎まで垂らして」
「うぇ」
思わず声が漏れる。
もちろん寝ながらも警戒は怠っていないし、何かあればすぐに腰に差した短剣を引き抜くことができるように鍛錬を積んできている。
だが、花も恥じらう乙女としては、仮にも男性の前で寝顔を晒すのは些か無防備が過ぎたのでは……。そこは素直に反省だ。
まあ、とはいえ、
「いやしかし、普段は目つきが鋭くて恐ろ——凛々しい顔も、眠っちまうとまるで女の人みたいに整ってる。いや、美男子ってのは羨ましいもんですなぁ」
このおっさんは私のことを男だと思っているようなので、私の心配は杞憂ではありそうだが。
昨日も『この辺りで一緒に水浴みでもどうです?』なんて誘われて、いっそ脱いで気づかせてやろうかとも思ったのだが、すんでのところで理性が働いた。
「目つきが鋭いのは、目に映るものをただ見るのではなくつぶさに観察しているからです」
ふんと鼻を鳴らして憤慨を示すが、おっさんは「あーなるほどぉ」とどこ吹く風だ。
動きやすいようにと肩ほどまでで切り揃えた短めの髪。女にしては——というか男だとしても——高めの身長。薄い胸。今言った理由から鋭い目つき。そして低めの声が相まって、私はよく男と間違えられる。
ご多分に漏れず一向に女だと気づく様子がないおっさんに「はぁ」とため息をついて、馬車の荷台の中を移動し御者台に近づく。
「それで、あとどのくらいですか?」
「あの森を抜ければすぐですぜ。近道なんです」
商人が指さす先には確かに小さな森があって、その先の景色を覆っている。
後ろを見れば確かにもう一本森を迂回する道もあったが、それは少し遠回りになる道なのだろう。
規模からして、一時間もかからずに抜けられるだろう。だが、ここまで眠るがままにしておいた私をわざわざ起こすタイミングにしては、少々早いような。
「起こすにはちょっと早い気もしますが、何か用件でも?」
「あぁいや、そういうわけでもなかったんですが……」
おっさんは頬をかいて続けた。
「旦那はあの街に、何をしに行くんです?」
「まぁ、ちょっとした調べものですよ」
「するってぇとやっぱり、あの街にいるっていう呪術師に関係したことですかね?」
「えっ」
呪術師。その言葉がおっさんの口から出てくるとは思わなかった私は、少し驚いた。
馬車は森の中に入る。林立する木々に陽光が遮られ、辺りの景色が徐々に薄暗くなっていく。
「……どこでそれを?」
王女は各地に潜伏させた王女派の支持者を使った独自の情報網を確立していて、それによって呪術師の場所を知り得たはずだ。
遠く離れた北の街の状況を。それも呪術師の存在なんて、ちょっと前まで王都にいた人間がそうそう手に入れられるものではない。
「いや、商人ってのは次に稼ぎに行く街の『今』の情報を手に入れないと気が済まない生き物でしてね。といっても遠い街なんで、王都ではそれとなく、どこで何が高く売れるのかさえ分かればいいと思って情報を集めてたんですが」
言いながら、彼は顎に手をやった。そこには、王都を出た時には無かった無精髭がまばらに生えていた。
「ちょうど王都に、クランブルクから商売に来た商人がいたんですよ。そいつが、呪術師のことを喋ってたんです」
「商人が?」
商人と呪術師。その二つの記号に特に繋がりは見えないが、その疑問の答えはすぐに齎された。
「なんでもそいつは、奴隷商もやってやがるらしくて」
「……なるほど」
「最近は奴隷制の復活も実しやかに囁かれてるんで、みんな興味深々で」
奴隷商。戦場で鹵獲された敵国の民や兵士。あるいは自国の戦争孤児などを主な対象として、最低限の生活を保障する代わりに、そんな人々を奴隷として売り物にする者たち。
隣国との戦争が英雄の活躍によって停戦となり、奴隷の供給が少なくなったことをきっかけにして先々代の国王の時代に廃止されたその制度は今、現国王を傀儡とする宰相の手により復活の機運が高まっている。
王女派はなんとかそれを阻止しようとしているが、先日の王女派ばかりが犠牲となった王族殺しが大きな打撃となり、状況は芳しくない。
国王の名のもとに行われた狼男の処刑が冤罪だったことが広まりつつある今、国王——いや、宰相派の力も多少なりとも削がれているとはいえ、まだまだ予断を許さない状況が続いている。
そんな情勢を読み、その商人は宰相派の勝利に賭けたのだろう。奴隷制の復活に先駆けて、奴隷を使った商売を始めていたのだ。そんな商人はここ十年ほどで増え、私も幾度かその身柄を確保したことがある。
そして。かつてこの国の奴隷には決まって、ある腕輪が嵌められることになっていた。
「〈束縛の腕輪〉ですか」
「さすが、ご存知でしたか」
呪術師が作り出し、一度嵌めると術者の解呪かそれを嵌めた者の口づけがなされなければ決して外すことも壊すこともできなくなる、呪いの腕輪……。
それが、この国における奴隷の象徴だった。
「クランブルクで奴隷を使った商売を始めようと思っていたところに、丁度呪術師が現れたそうで。その呪術師に〈束縛の腕輪〉を作ってもらったんだと、しきりに自慢してやがりました」
もちろん、現時点では奴隷を使った商売は禁じられている。そんな中で堂々と奴隷商を自称するとは相当に浮かれていたか酔いが回っていたと見えるが、まさかその場に奴隷を実際に連れていたわけでもないだろうし、ただ奴隷商を自称しているというだけで捕らえることはできない。
それに、王都の市街を見回る衛兵たちの中にも当然宰相派が少なくない数いる。
そのため街で奴隷商が奴隷について大っぴらに話していても、それを耳にしたのが宰相派の兵士だったなら見逃される可能性が高い。
流石に現行犯であれば見逃がすことはできないだろうが、口の端に乗せる程度であれわざわざ自身の属する派閥に不利になるようなことはしないだろう。
……しかしそうなると、また一つ小さな疑問が浮かんでくる。
「貴方はどうしてわざわざそんな街に商売に?」
呪術師のいる街なんて、何が起きるか分かったものではない。大抵の商人であれば、リスクを嫌ってその街での商売は避けそうなものだが。
(もしかして、この人も奴隷を……?)
そんな疑念すら抱いてしまう。が、彼は事も無げに言った。
「ええ。あの街には今呪術師がいて、逃げるときにわざわざ顔を見せて逃げていくのに絶対に捕まらない盗人までいるって話です」
「だったらなおさら……」
「旦那はあっしが奴隷に手を出そうとしていると思ったかもしれませんが、そういうわけじゃあない。女神様に誓ったっていい。そもそも、奴隷だって飯を食わせなきゃ死んじまう。自分一人を生かしていくのに精いっぱいなあっしなんかが手を出せる商売じゃあねぇですよ」
自嘲気味に笑うおっさん。
「じゃあ、何のために?」
私が再度問うと、彼はその人好きのする笑みをゆっくりと消して、真っすぐに前を見て言った。
「呪術師と盗人。その二人のせいで、あの街には商人が寄り付かなくなってる。そうなると、あの街には必然的に、モノが足りなくなるってことです」
「……あぁ、なるほど」
ようやく得心がいった。つまり彼は、今商人の出入りが少なくなっているあの街へ行けばどんなものでも飛ぶように売れると踏んで、多少のリスクを承知の上で次の稼ぎ場として目を付けた。そういうことなのだろう。
彼ら商人はいつも、損得勘定で物事を判断する。相手を値踏みし、価値を付ける。商人とは、そういう生き物だ。
分かってはいたつもりだったが、この人好きのする笑顔が気に入ったおっさんもまた、根っからの商人だったというだけのことだ。私が勝手に、彼は他の商人とは違うと期待していただけ。勝手に抱いていた幻想と実像がかけ離れていたからといって勝手に失望するのは、ただの自業自得でしかない。
おっさんは少し後ろを振り向いて、片方の口の橋を上げて言った。
「もうすぐ抜けますぜ」
その言葉通り、林立する木々がまばらになってゆき、徐々に陽光が差し込み始める。
「さっきは近道だって言いましたがね、薄暗くて速度を落とさざるを得ないし、地面がぬかるんでることもあって、実は街までの到着にかかる時間はたいして変わらない道なんです」
「えっ……」
じゃあ、何のために?
数分前と同じ問いを口に乗せようとしたところで、馬車は森を抜けた。
視界が、開ける。
「わっ――」
思わず、声が漏れた。戸惑いではない、純粋な感嘆。
森を抜けた先——。そこはちょっとした丘になっていて、決して高くはないがしっかりとした石造りの外壁に囲まれた小さな街の様子が一望できた。
「道を作ったはいいものの結局近道にはならないってんで、あまり使われない道なんですがね。あっしはこの景色が好きで、クランブルクに来るときはいつもこの道を通るんです」
かの英雄グーダルクの治る辺境伯領に属する街、クランブルク。
クリスタ王国の中でも北方に位置するだけあり既に少し積雪があって、町はうっすら白化粧。森から続く小川が、ゆったりとその身を蛇行させつつ街へと流れている。積雪の様子を見るに今朝は雪が降ったらしいが、今は天を仰げば雲一つない晴天。昼夜月さえも出ていないので、まさに蒼穹。
青一色の空。白く染まった町。そして陽光を反射する川のせせらぎ――。そのコントラストは、まさに絶景と呼んで差し支えないだろう。
今ならここに至るまでの陰鬱な林道も、この絶景を際立たせるための前奏だったようにさえ感じられる。そんな叙情的に過ぎる感想を思わず思い浮かべてしまうほど、視界に映る景観は圧倒的だった。
しかしそう考えると、彼が私を森の前で起こしたのも頷ける。彼はこの絶景を私に万全の状態で提供するために、森に入る前に私を起こしたのかもしれない。
「どうです? ちっとはあっしの評価、上げてもらえそうですかね?」
彼は先ほどのやり取りの末、自身が私からどう見られているのか、気づいていたのだろう。
「確かに、私は貴方への評価を、今一度改めなければならないようです」
彼は確かに商人だ。とうぜん商人らしい計算高い一面を覗かせることもあるが、決して損得勘定だけが彼の行動原理ではない。
もしかするとこの街に来たのも、稼ぎのためだけというわけではないのかもしれない。
もっと純粋に、物資の不足するこの街に、少しでも何かを届けたいと思ってのことだったのかもしれない。
私には彼の真意を知る術はないが――、少しくらいは、彼への評価を上げる必要がありそうだ。そう思ったのだが、
「ですよねぇ! いやぁ、旦那が話の分かる人で助かりましたよ!」
わっはっはと豪快に笑うおっさん。それを聞いて、私は表情を努めて平坦にして言った。
「いえ、やっぱりやめておきます。お金のかからない方法で信用を得ようなんて、いかにも計算高い商人が使いそうな手ですからね」
ぷいっとそっぽを向いてやる。
勿論、彼がそういった意図をもってこの景色を見せてくれたわけではないことはもう十分に伝わっている。だが、
「ええ!? そりゃねぇですよ旦那ぁ!?」
……彼がこの旦那呼びを改めない限り、私がこのおっさんへの表向きの態度を軟化させることはないだろう。
しかし。とはいえ、だ。彼の粋な計らいに対し礼を述べないのも、それはそれで非礼に当たる。
私は背けた顔を少しだけ戻して、小さな声で言った。
「嘘です。綺麗なプレゼントを、ありがとうございました」
のだが――。
丁度そのタイミングで、ぬかるむ地面に車輪を取られ、馬車がぐらりと揺れた。
「おっと……って、ん? 旦那、今何か言いませんでしたか? ありがとうとかなんとか聞こえたような?」
私の感謝の言葉は、どうやらきちんと届かなかったらしい。
そしてもう一度同じ言葉を口にできるほど、私はできた人間ではない。
「いえ、空耳でしょう」
「おっかしいなぁ……確かに聞こえた気がしたんですがねぇ……」
そんな少し気恥ずかしくも心地のいい空気と暖かな日差しの中、私たちはその街の門を潜った。
かつて、英雄譚の舞台となった街。
そして、この国の呪いに対する価値観を根底から覆す殺人事件の舞台にもなる街。
雪と氷の街・クランブルクの門を。
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