空蝉

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空蝉

 蝉になりたい。どうせ貴方に伝えられない思いなら、同じ言葉なんて話せるようにはなりたくなかった。蝉になって、人には分からない言葉で叫びたい。「本当は貴方が好きだったのだ」と。  二学期が始まって二週間。残暑はまだまだ厳しい。電車を降りて、改札を通り抜ける。あじさいが見ごろの時期や夏休みには、多くの人が訪れるこの駅も、シーズンが過ぎれば混雑で酷く頭を悩ませる、なんてことも無くなる。そもそもこの改札だって、改札というか……頑張っちゃえばばれずに通り抜けられるんじゃないか、というほど簡素なつくりをしている。これでシーズンには観光客がごった返すっていうんだから、そのアンバランスさが地元住民的には何とも言えない。スクールバッグを抱えなおしながら流れ出る汗に顔をしかめる。早く帰ろ。制服のYシャツを早く脱ぎたい。風が髪の毛や竹藪を揺らす様は涼しげに見えるのに、その風は温くて、実際は全然涼しくなんか無い。  日陰を探して周囲を見渡すと、見覚えのある後姿が目に飛び込んできた。ここは家にはまだほど遠い駅だ。彼がこんな時間に歩いているはずがないのに。見つかりたくない。今日だけは見つかるわけにはいかない。日陰も汗も気にせずに私はスカートを翻して家路を走った。 「……はぁっ、っは…っ……」  家の近くまで走りきって背後を振り返る。当然といえば当然だけど彼の姿は見えずほっと息をついた。さっきのは見間違えだったかも。見間違えだったら良いな。息を整えながら家の門扉を開ける。玄関の鍵を探しながらふっとため息をついた。似たような人の後姿を見るだけで彼かもしれない、と思ってしまう私はやっぱり未練がましい。もういい加減に諦めなきゃいけないのにな。スクールバッグの中から時間をかけて鍵を見つけ、ようやく家の玄関が開く。 「ただいま」  帰ってくる声は無かった。母さんはパートで、弟は多分友達と学校帰りに寄り道でもしているんだろう。父さんは単身赴任で元から家には居ない。とりあえず着替えようと思い、二階にある自室へと向かおうとしたら食卓に置かれた書き置きに目が止まった。 「今日は遅くなります。夕飯は各自でどうにかしてね」  そうか。今日の夕飯は自分で作らなきゃいけないのか。面倒くさいけど私が作らなければ、料理が出来ない弟は夕飯を食べ損ねてしまうだろう。それに、恐らく中学二年生の弟にとってはコンビニ弁当を買うのも相当痛い出費だ。制服から着替えて、その後で冷蔵庫の中身を確認しよう。  階段を上りながらスカートのポケットの中でスマートフォンが震えた。ちらりとポケットの中を覗き見ると、スマートフォンは緑色に点滅している。どうせLINEだろう……確認しなくてもいいかな。そう思ってスマートフォンを自分のベッドの上に軽く放り投げる。放り投げてもなお振動し続けるそれを見て軽くため息をついた。 「面倒くさ……はぁ」  低い振動音を聞き流しながら制服のネクタイを解いてボタンを外していく。中に着ていたキャミソールの色が汗によって色濃く変わっていた。背中に張り付く気持ち悪さを勢いよく脱いでタオルで汗をぬぐい、汗拭きシートで体を拭く。ふぅ、さっぱりした。どうせ料理をするときにはまた汗をかくのだけれど、やっぱり汗をかいたまま服を着替えるというのは生理的にイヤだった。  部屋着に着替え終わって、ベッドの上にほったらかしにしていたスマートフォンを手に取る。LINEの通知はクラスの女子からだった。 「透子、今暇?」 「無視しないでよー、透子ー」 「もしかして何か取り込み中だった?」 「だったらごめん! また後で出直します!」  四、五分放置しておいただけで取り込み中か。女子高校生というものは数秒もスマートフォンを手放せないんじゃないだろうか。 「ごめん。買い物中だから後でまた送るね」 と嘘の言葉を送ってやんわりと彼女からのLINEを拒絶する。罪悪感は多少なりとも湧くが、今は他人とお喋りなんかしたくはないのだ。 「……ごめんね」  スマートフォンに向かって呟いたって誰にも届かないのは分かっているけれど、やっぱり彼女への罪悪感は消化させてしまいたかった。明日学校で「昨日はごめん」と平然と嘘がつけるように。  その時、自室の入り口がコンコンとノックされた。そちらに目を向けると、先ほどまで居なかったはずの弟がひょっこりと顔を出す。 「透子姉ちゃん、おかえり」 「結城、あんたいつ帰ってきてたの?」 「今さっきだよ。それよりもさ、透子姉ちゃん」 「何?」 「あのさ……」  普段から落ち着きの無い弟ではあるが、今日は特に酷い。丸い黒目をあちらこちらへキョロキョロと動かしていて、見ていて忙しい気持ちになる。一体どんな用だというのか。 「何かあったの?」 「いや、そういうことじゃなくて……えっと、夕飯、どうするんですか?」  その眉尻が下がった顔を見て思わず苦笑する。 「私が作るから、代わりに食器洗いよろしくね」 「透子姉ちゃん、夕飯作ってくれるの!? ありがとう!」  ニコニコと笑顔の弟は嬉しそうに自室へと帰っていった。全く。それだけであんなに喜んじゃって。三歳年下の弟である結城は、私に似ずよく笑う子だ。可愛い弟ではあるけど、中学三年生にもなって姉である私に懐きっぱなしというのもどうなんだろうか。思春期というものは、もっと年上に反抗するものだと思っていた。でもまぁ、兄弟仲は良いに越したことは無い。結城の部屋の方を見てふっと笑うと机の上に置いてあったシュシュを手に取る。  適当に髪をくくりながら一階に降りる。台所で時計を見上げると長針と短針は仲良く重なり合いながら六時半を指していた。今から作れば夕飯時には丁度良い具合に出来上がるだろう。さて、何を作ろうか。そんなことを考えながら冷蔵庫をのぞけばカレールーが入っていた。野菜室にはじゃがいもに人参に玉ねぎ。チルド室にはカレーにぴったり! というシールが貼られた豚肉のパックが入っていた。 「母さん、最初からカレー作らせるつもりだったな……」  これで明日の朝ごはんもカレーだ。 「透子姉ちゃん、今日の夕飯何?」 「カレー。たぶん明日の朝もカレー」 「俺も何か手伝おうか?」 「結城。あんた何か手伝えることあるの?」 「俺ジャガイモの皮むき出来るようになったんだよ!」 「じゃあ、皮むきお願い」 「了解!」  台所に二人で並んで野菜の皮むきをしていく。皮むきが出来るようになったと言っていた結城の皮むきはやはりピーラーを使用していた。それを見た瞬間、今までピーラーすら使えなかったのかと頭が痛くなる。けれど、せっかく何かを手伝おうとしてくれているのだ。今日はお小言も控えめにしておこう。そう思って結城の顔を見ると何だかいつもより浮かない顔をしているように見えた。 「今日、やっぱり学校で何かあったの?」 「あ、いや、何も無いよ?」  今少し返答に詰まった。 「本当は?」 「……さっき、明人君の所に行ってきたんだ」 「そう」  さっきの挙動不審はこれが原因か。私のことを気にかけてくれるのは嬉しい。けど。このことに関して私は態度を軟化させるつもりはない。 「透子姉ちゃん。しばらく明人君と会って無いんじゃないの?」 「最近時間無いから」 「そのわりには今日は早く帰ってきたんだね」 「今日は、たまたまだよ」 「そっか」  明人君とのことはあまり深く掘り下げられたくはない。言外にもうそのことには触れられたくないことを表すと、結城は寂しそうな顔であっさり引き下がった。ごめん。けどこの時はだけは察しの良い弟で助かった。眼の前にあった玉ねぎを切ったら涙が出た。私の目は赤くない。 「お代わりしても良い?」 「良いよ。でも、明日の分もちゃんと残しておいてね」 「大丈夫、大丈夫」 「私もう食べ終わったからごちそうさま。皿洗い、よろしくね」  シンクにカレー用の大皿を置くと、結城は眉を下げながらこちらを見てきた。 「一人で食べるの、何かいやなんだけど」 「あんた将来一人暮らしするときにどうするのよ」 「透子姉ちゃんに電話しながら食べる」  本当に甘えたで困る。寂しげな結城を置いて私は二階の自室に上がる。少し、一人で考えたいことがあった。 「はぁ……」  ため息をつきながらベッドに寝そべると硬いものが頭に当たった。むすっとしながらそれを見ると夕飯前にベッドに放り投げたスマートフォンだった。青いランプが点滅しているのを確認して疑問を覚える。 「メール?」  いまどき皆LINEを使うのに。珍しい人も居たものだ。そう思ってメールを開くと表示された名前に息が止まった。 「何で、明人君から」  画面の上で人差し指を行ったりきたりさせる。見たくない、見たくない。けど見ずにはいられない。まぶたを閉じて画面に触れる。薄目を開けるてちらりと画面を確認すると予想よりも白い画面が目に飛び込む。明人君からのメールは簡潔だった。 『明日遠いけど大丈夫そう? 気を付けてきてね』  その二文に心が押しつぶされそうになって、またため息をついた。  明人君は私の好きな人だ。今となっては好きだった人となるのかもしれないが。私が四歳になったばかりの夏に、お隣に引っ越してきた男の子。背が高くて、ちょっぴり栗色の髪の毛。優しそうにたれた目が印象的な七歳年上の男の子が明人君だった。 「お隣に引っ越してきました。日野明人といいます。よろしくね」  彼はしゃがみこんで私に目線を合わせながらそう言った。そういって差し出された右手を握ると、彼は泣きそうな顔で笑う。 「よろしく……」  当時は活発な子だった私はそのとき明人君から目を逸らしてしまった。恥ずかしかったのだ。あぁ、今思い返せばあれが恋の始まりだったのかもしれない。  十一歳の明人君と四歳の私では、話も、好きな遊びも、体力だって違うのに、明人君が引っ越してきた初めての夏休みにはずっと三人で蝉取りやら川遊びばかりしていた。私はおままごとより外で遊ぶのがことが好きな子だったから、川のきらめきや空の抜けるような青がやけに思い出に残っている。  あの頃、明人君が何を考えて私の面倒を見てくれていたかは分からない。けど、後から聞いた話で明人君には七歳年下の妹が居たと聞いた。そして、その妹を失ったショックを癒すために、都会から自然溢れるここに引っ越してきたのだと。その話を聞いて明人君は私とその妹を重ね合わせているんじゃないかと思ったのが、今考えれば自分の首を絞めることになったのだ。  仲の良いご近所さん。そんな関係を続けて六年ほどたつと私も小学校高学年の仲間入りをし、明人君は高校生になった。小学生と高校生という、ちぐはぐな組み合わせながらも私は明人君に夏祭りやらショッピングに連れて行ってもらったし、明人君も私といることに羞恥や面倒くささは感じていなかったと思っている。明人君の家に行けばいつだってニコニコの笑顔で迎えてくれたし、少し硬い手のひらで私の頭を撫でて「いらっしゃい」と言ってくれるときの優しい声を私は今でも鮮明に思い出すことが出来る。  幼い頃から変わらない関係は私にとって居心地の良いものだったし、これからもこの関係が一生続いていくものだと思っていた。  まだ小学生だった私には一生がどれだけ長くて重いものかも知らずに平然とそんなことを思えていたのだ。今思うと、何て軽い覚悟だったのかと思う。  私にとって、結城以外の一番身近な異性は明人君だった。けれど、明人君にとってはそうじゃなかった。それを知ったのは小学校五年生の冬だ。  学校の帰り明人君を見かけて声をかけようとした瞬間にその見慣れたシルエットの傍に別のシルエットを見つけた。明人君と同じ学校の制服を身に着けた女の子髪の毛は柔らかそうにウェーブしていてスカートは少し短めだった。その女の子が明人君の腕に自分の腕を絡ませた瞬間、明人君が少し優しく笑ってその子の頭を撫でた。そんな顔、私は見たことが無かった。そんな優しい顔を。じゃあ、そこにいるのは誰? 「分かんない、分かんないよ……」  その光景を私がどれだけ頭の中で否定しても、そこにいるのは何処からどう見ても明人君で、けれど私が知っている彼はそこにいなかった。今思えばこのときの感情は執着だったかもしれない。でも、その執着は私の中の何かを目覚めさせるには十分だった。明人君は別にとても格好いいとかとても頭が良いとかそういうわけじゃない。なのに、明人君の優しい性格は私の幼い心をじわじわと侵食し離れられないようにしてしまった。 そこまで考えて、自嘲の笑みを浮かべる。何が、あれは執着だったのかもしれない、だ。あんな感情、立派な執着に決まっている。と、数分前の自分の独白を自分でなじる。本当は否定していたかったのだ。幼い自分の暗い心を。高校生と小学生。私達の間にある年齢差は七歳差。それも、私にとっては関係なかった。 どうすればあの女の子に近づけるのだろう。そう必死に考えた。短かった髪の毛を伸ばした。ズボンじゃなくてスカートをはくようにした。リップクリームを塗るようにした。自分のことを「透子」じゃなくて「私」と呼ぶようになった。スカートのポケットのなかにはいつもコームを入れていた。大好きだった蝉取りも川遊びもしないようにした。そんな私を見て、明人君は「そういう年になったんだなぁ」とやっぱり泣きそうな笑顔を見せながらそう言った。少しずつ近づけているんだろうか、あの時の女の子に。そう思ったって私の背中にはまだランドセル。年齢差を突き付けるランドセルが、私は嫌いになった。ランドセルを下ろせば、あの女の子にもっと近づけるのに。早く、大人になりたい。そう願ったって、流れる時間は誰にも等しいものなのに。今思えばあまりに幼い願いだった。  私がようやくランドセルを下ろし、リュックサックを背負うようになり、セーラー服を着る少し前に明人君は東京の大学に行ってしまった。「どうしても学びたいことがあるんだ」と私に言い残して。中学の三年間。私は髪を伸ばし続け、「私」という一人称を使いつづけ、同級生たちよりも早く大人になりたいと願い続けた。私だけ時間が早く進むわけも無く、セーラー服は埋まらない歳の差の象徴となった。ランドセルを下ろした代わりに、私はセーラー服が嫌いになった。……年の差を明確に示すようなもの、全てが嫌いになった。  明人君が大学生活を終え、こちらで就職を決めたとき、私は高校生になった。高校の制服はブレザーだった。小学生の頃明人君が微笑んだ、あのときの少女くらいのスカートの短さにした。久しぶりに会った明人君はやっぱり少し背が高いだけの普通の人だった。けれど。 「髪の毛、伸びたね。すごく大人っぽくなっていてびっくりしたよ」  と私の頭を撫でる手が、目尻を下げて笑う顔が、少し低めの優しい声が、私の特別はこの人だと告げる。この時に告白していれば良かった。初めて明人君の彼女を見たときの明人君の年齢に追いついたんだから。  けれど、私には中々踏み出せない理由があった。明人君の妹のことだ。告白をしようかと思えば、こちらに引っ越してきて私を見たときに泣きそうになった彼の顔を思い出す。私は明人君に妹替わりに思われていたのではないのだろうか。そんな思いが渦巻いては、私を彼から遠ざけた。私が一方的な心の隔たりを感じるようになってからも、明人君は私に変わらず接してくれた。結城はたまに明人君の部屋にお泊りをするし、私を見かけると必ず家に誘っては何かしらご馳走してくれた。捨てがたい交流が再開して、私は明人君への告白を先延ばしにし続けた。  そうして、気づけば今年の夏で明人君と出会ってから十数回目の夏。高校を卒業するまでには告白しよう。そう決めていた私の心が粉々に砕けたのも今年の夏だ。明日は大安。明人君が大学で知り合った女性と結婚式を挙げる日。涙は流さない。彼に思いを伝えられなかった私にそんな資格は無い。ベッド脇の窓から見える大木に蝉が止まっていた。その蝉はうっとうしいほどに鳴いている。まるで思いを伝えられなかった私をなじるかのように。 「私も叫べたら良かったのにね」  明人君への思いのもって行き場所をなくした私はまるで抜け殻。まるで、空蝉のようだった。
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