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2、美しい庭
安物の自転車でやってきたことを後悔していた。
バイトの後、一度帰ってシャワーを浴び、持っている中で一番こましな服を着てはいたものの、その屋敷には似合わなさすぎる。
バス停でいえば6つくらい離れた町。どこか現実離れした家々はまだ新しく、開発されたばかりのニュータウンだとわかる。雑誌広告がそのまま命を持ったような街。そんな一角を抜けると、さっきとは違う土の道が現れた。
新しい街のはずれ、いつか道はグレーの砂利道になっていた。森とニュータウンの境目にある洋館はニュータウンのものとは違い、本物の歴史を感じさせる。そして門のすぐそこから玄関ポーチに続く庭には、たくさんの薔薇。
種類の違う赤い薔薇たちが僕を導いてくれるように、微かな風に揺れた。
彼女の手料理なのか、料理人がいるのかわからないけれど、彼女が用意してくれた名前も知らない料理の数々をいただいたあとはっきりわかったことは、僕の手土産のケーキは彼女にもこの家にも不似合いだったということ。
だけど彼女は、ワゴンに食後の珈琲と共にそのケーキを乗せて出してくれた。ミントン社のソーサーに乗せられて居心地悪そうなケーキは、この家の中にいる僕そのものな気がした。そしてその時に疑問がようやく渦巻く。
なぜ?
この家は僕のバイトするコンビニからかなり離れている。
この珈琲は、うちの店の珈琲より100倍美味い。
午前2時は普通の人は眠っている時間。
彼女はなぜ僕の働くコンビニに来たんだろう。
そんな疑問を抱くのは遅すぎるのかもしれない。いや、最後の疑問は最初から持っていた。
ただ、あたりまえの日常の中に起こる一瞬の異世界のような体験を僕は楽しんでいた。
もちろんそれは起こっていることの非日常感だけど、それだけではない。
アッシュブラウンの長い髪と華奢な体格。
儚げな外見と、不釣合いな深い瞳の輝き。
生まれながらに纏っているような気高さ。
常識という言葉を揶揄するような微笑。
初めて逢ったあの時から、僕は彼女に惹かれていた。
高級な珈琲豆と一流の食器は、安物のケーキをパティシエのオリジナルのように見せる。そして味わいさえも変える。
僕たちが出逢ったコンビニが丸ごと入ってもあまりある大きなリビングの、僕のベッドよりも大きな座り心地の良いソファに座って、その場所に存在していることが僕にわずかな自信と勇気をくれた。そしてほんの少し大胆にさせる。
「なぜ、あの店にいらっしゃっるんですか?ここからは遠いし、あの店に行くまでに何軒かコンビニもあるのに。しかもあんな時間に」
珈琲カップを持って言ってしまった僕を、強い光を湛えた大きな瞳が真っ直ぐに見つめてくる。
付け焼き刃で得た僕の小さな勇気は、一瞬にしてその光に砕かれた。
彼女はゆっくりと珈琲を飲むと、持っていたソーサーに音を立てずにカップを置いた。
そして真っ直ぐに僕を見つめてから信じられない一言を言った。
「あなたに逢いたかったから」
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