0、愛しいひと

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0、愛しいひと

「もう帰ってくれる?」  彼女はいつもと同じように、ベッドから立ち上がると、男物の白いシャツに腕を通して背中を向けた。そのまま、振り返ることもなくシャワールームに続くドアに向かい中に入ると後ろ手にドアを閉める。  もしかしたらわざと冷たい音でドアを閉じたのではないかと思うと、心の奥から吹き出す冷気でその場で凍りそうになる。  凍ってしまった僕が、彼女がシャワールームから出てきたときに同じ体勢でベッドの中にいたら、彼女はどんな言葉をかけてくれるのだろう。決して優しくはないいくつかの言葉を想像して、ますます全身が冷たくなっていく。  ほんの少し前に彼女の中に吐き出した熱い欲望は、本当に僕の中にあったものなのだろうか。  小さく聞こえるシャワーの音に耳を澄ませる。吹き出す飛沫をあの美しい裸体にあてる彼女を脳内に巡らせて、不謹慎にも僕はまた熱を思い出す。  そんな自分を責めながら、恥ながらゆるゆるとベッドを抜け、もうひとつのシャワールームに入った。  温めの飛沫を浴びながら、向こうのシャワールームで彼女が浴びているのはもっともっと熱いものか、もっともっと冷たいものかのどちらかであると確信していた。  僕は彼女には敵わず、組み敷いていると思う時間でも間違いなく彼女に甚振(いたぶ)られている。  彼女にとって僕は生物的な衝動を処理するための道具のひとつでしかない。それは最初からわかっていたことだ。  ベッドから出た彼女が必ず纏う男物のシャツの持ち主は、いったいどんな男なのだろう。いつも同じ白い、同じタイプのリネンのシャツ。でもそれらはすべて違うものだ。一枚として同じものではないことを感じる。あのシャツを着ていたのはどんな男なのだろう。彼女の記憶の中に住み続けているのは、いったいどんな……  彼女が望むように身支度を整え部屋に戻ると、いつものように彼女の気配はなかった。  サヨナラの言葉も貰えずに、僕は部屋を出る。  廊下を抜けて辿り着いた玄関。3メートル以上あるドアの真鍮のノブは、今日も情けない僕を薄ら笑うように、暗い光を反射していた。  ドアを開きポーチに立つと目の前に広がるローズ・ガーデン。いく種類もの薔薇がどの季節もしっかりと彼女によって手入れされた状態で僕を迎え、僕を送る。  白いノースリーブのワンピース姿の彼女が、ひとつひとつの薔薇の状態を確認するように、自身の美しい庭の中で漂っている。  その時、「あっ」と彼女が声を漏らす。すぐ側まで近づいていた僕の前で、彼女は人差し指を見つめている。  彼女の視線の先から、ツーっと赤い糸が流れた。彼女はその血を見つめている。  傷ついた彼女を憐れむ気持ちと、蔑む気持ちの天秤が微妙な揺れを見せたとき、彼女は血を流したままの左指で髪を耳にかけた。  白いワンピースにポツポツと付いた彼女の赤い血は、いつかその白を紅く染めて、彼女を一輪の薔薇に変えてしまう気がした。  指先から零れた血が手首に届き、腕をつたいながらワンピースに落ちる様子に彼女は幸せそうに微笑む。僕には決して見せてはくれない微笑。  わかっていることは、彼女の記憶を占める男は薔薇が好きだったに違いないということ。  指先から落ちる血の雫が、纏う白に落ちるのを見つめながら、彼女は幸せそうに笑った。  そして僕は、いつしか薔薇を心の底から愛してやまない状態になってしまったことを噛み締めながら、今日も美しい庭を後にする。  サヨナラの言葉も貰えないまま。
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