朝顔と雨

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 向かいのおじいちゃん、亡くなったって。  受話器から耳を話したおかあさんが俺に向かって言った。俺が東京から一年ぶりに帰省して、数時間も経っていない。しばらく会っていないから、向かいの家にも顔を出そうと思っていたところの訃報だった。煽っていたビールの缶を置き、そっか、と一言零す。頭に浮かんでいたのは懐かしい夏。鮮やかな色彩の朝顔と、空に描かれた鱗雲だった。    とても暑い日だった。片手にうちわ、もう片手にはじいちゃんに買ってもらったアイスをもって、二人で縁側から田んぼを眺める。時折、風鈴が鳴って、風の流れを感じさせる。でも、それをかき消してしまうような蝉の音もまた心地よかった。当時学校で習ったいとをかし、というやつだろうか。  じいちゃんの家に咲く朝顔が好きだった。家を囲むように咲く朝顔はどれも色とりどりで、見てるだけで心が踊る。赤に紫に青に白。それぞれ違った花言葉を持つんだとじいちゃんは俺に得意げに話していた。 「そういや、じいちゃん。朝顔ってなんで朝にしか咲かねーんだ?」 午前中は綺麗なのに、午後になるとすっかり萎んでしまうのが不思議だった。他の花は夜も咲いているのに、朝顔だけがしゅんと俯いてしまう。初めて見た時、何かの病気かと思って、とても焦ったことを思い出す。 頭にぽっと浮かんだ純粋な疑問だ。じいちゃんは首をかしげる俺を見て、がははと大口を開けて笑う。 「そんなことも知らねェのか! まだまだガキだな」 「うるせー! ガキで悪かったな」 「……そうさな、朝顔っつーのはお天道様に似てるだろ? だから一緒に昇ってくんのさ」 まだまだ子供だった俺はその話をすっかり信じこんだ。学校の友達に自慢げに話して、間違いを正されたのはいい思い出である。後に聞いたが、朝顔というのは日没から何時間後に咲くというのが決まっていて、それが丁度朝頃にあたり日没の時間が変われば、咲く時間も変わるらしい。新しいことを知り、一つ大人になったと思っていたが、いつまで経っても俺はじいちゃんの手のひらで転がされる子供だった。 アイスも小さくなってきた頃、じいちゃんは団扇で自分のことを仰ぎながらポツリと呟いた。 「……こりゃ、もう少しで雨が降るな。帰った方がいいぞ坊主」 じいちゃんの視線を辿ると空を見ているようだった。つられて空を見上げると転々と、白い雲が青い空中に広がっている。雨を降らす雲は真っ黒なんだと教えてくれたのはじいちゃんのはずなのに、なんでそんなことを言うのだろうと俺は首を傾げた。 「あの雲白いのに、なんで雨が降るってわかるんだ?」 「ありゃあな、鱗雲っつーんだ。魚の鱗みてェだから鱗雲。あれが来たら雨が降るって昔から決まってンだ」 白い雲、改め鱗雲を指さしながらじいちゃんは言う。俺はその時、雲にも名前があることを初めて知った。大きな雲は中に島が入ってるとかそんな幼稚なことではなく、それぞれに意味があって付けられたその雲だけの名前。もっと知りたいと思った。 「もっと知りたいって顔してんな?」 「もちろん! 教えてくれよ雲のこと!」 俺の心を読んだようなことを言って、じいちゃんはにやりと笑みを浮かべた。 「だーめだ。雨が降るからはよ帰んな。また明日話してやる」 「えー! ……しょうがねーな。明日も来る!」 からかわれてむっと口を結んだ俺を見てまたじいちゃんは笑う。俺は家から持ってきたリュックサックを背負い、朝顔に彩られた入口をくぐって後ろを振り返った。じいちゃんは肘をつきながら片手をあげて、笑顔のままで言った。 「おう、また来な」 じいちゃんの訃報を聞いてから数日。あの後、向かいの家に顔を出しに行って葬儀の日程をばあちゃんから直接聞いた。ばあちゃんは俺を見て懐しそうに目を細め、大きくなったねと昔よりもか細くなってしまった声で言っていた。 今日は葬式当日だ。集まる人はご老人ばかりで、きっと参列者で一番若いのは俺だろう。近所に住んでいる人にも、大きくなったねと声をかけられた。この人たちもだがじいちゃんにとっても、俺は孫のような存在だったんだ、と今なら思う。 焼香はとっくに済ませたというのに、まだ現実味がわかない。黒い額縁に入れられたじいちゃんの顔を見れば、少しくらいは実感がわくような気がしていたが、まだふわふわと浮いた感じだ。あの夏のことを思い出せば出すほど、じいちゃんが死んだことは受け入れられなかった。 そういえば、あの時の雲を知りたいという欲求が今の俺の職業に繋がっていた。じいちゃんが教えてくれた鱗雲がきっかけで今の俺がいる。だから、じいちゃんと過ごした思い出の中で一番印象に残っているのはあの日だったんだろう。 次の準備だとかで追い出されるように式場を出た俺は、外のベンチに腰掛けに煙草を吸っていた。じいちゃんは肺に悪いとか言って吸っていなかった煙草だ。 「あんなに気遣ってたのに死因は事故死、か」 健康に 長生きしてギネスに乗ると、当時息巻いていたのを思い出した。今回の事故は本当に急なことだったんだと改めて思いつつ、煙草の煙を空へと放った。 空の青には斑に白い雲がぽつぽつと描かれている。あの日と同じ、鱗雲だ。 それほど時間も経たないうちに空は灰へと色を変え、雨粒をぽつぽつと降らせた。風や雲を見て、しばらく降り続くなと予想をつける。さっきまで晴れていたため、傘などは一切持ち合わせていなかった。 「こんなところにいたの」 ふてくされるように三本目の煙草を咥えた俺に背後から声がかかった。振り向けば、ばあちゃんがこちらに向かってきている。横が空いていると言えば、素直にそこに座った。ベンチの横に座るだけだというのに、疲れからか大きな溜息をつきながら腰を下ろした。 「準備はもういいのか?」 「もういいみたい。あっという間ね」 「そっか」 会話が止まる。元々ばあちゃんとはじいちゃんほど話していなかったし、年上の女の人との会話はあまり得意ではなかった。ばあちゃんは会話が止まったことに特に気にした様子もなく、降り続ける雨を眺めている。最後に会ったのがちょうど一年くらい前。この数年であの時よりももっと小さくなってしまったような気がした。 雨の降る様子を眺めていると、ばあちゃんが肩にかけた鞄から何かを取り出した。 「手、出して」 言われるがままに両手を差し出すとぽとん、と何かがばあちゃんの手から落とされる。それは紙紐で口を大雑把に閉じられた小さな袋。あまり重くなくて熱くも冷たくもない。触った感じから察するに、これは何かの種だ。 「覚えてるかしら、ほら家の入口の所に咲いてた朝顔が好きって言ってたでしょう? あの人、今度会った時に絶対渡すって張り切ってたのよ」 物忘れのせいで去年は忘れてしまっていたのだけれど、とばあちゃんは付け足した。 両手に乗った小さな袋の口を開ける。紐がぐちゃぐちゃに結ばれているのを見て、取れなきゃいいンだよと頭の中のじいちゃんが笑っていた。ようやくたどり着いた袋の中には、パッと見ただけでは数え切れないほどの種が広がっていた。思わず多いな、なんて言葉が口から零れた。 「いつもならご近所さんに配ってたのに、あなたが上京してからは溜め込んでたの。なのにこんなことになっちゃったから。いい所だけとってしまってなんか悪いわね」 「……ありがとう。ちゃんと育ててみる」 ふふと口元を緩ませたばあちゃんを見て、俺も口元を緩ませる。昔から植物を育てることが苦手で、朝顔の観察も自分のが枯れてしまってこっそりじいちゃんの家でやった。泣きながらお願いした小一の夏。じいちゃんの顔が怖くて、でも入口の朝顔があまりに綺麗で、色々混ざって大泣きしたことを思い出す。 また頭をよぎるのはじいちゃんの思い出だ。 全部全部過去形で、もう新しく作ることは出来ない思い出たち。 たくさん笑って、たくさん泣いて。色とりどりの思い出をくれたじいちゃんはもういない。 もう、いないんだ。 ぽろり。瞳からこぼれる涙を見てようやく俺はじいちゃんの死を受け入れた。じいちゃんの死んだ顔を見ても、遺影を見ても、こうして葬式に来ても、実感がわかなかったのに、結局俺に死を自覚させたのは他ならぬじいちゃんの思い出だった。 「もっと、色んなこと話しておけばよかったな」 「……そうねぇ、多分あの人もそう思ってたわよ」 大きくなったら一緒に酒飲もうって約束もした。子供のいないじいちゃんに、それなら俺の子供の顔も見せてやるって約束もした。もうどの約束も叶えることは出来ない。他人だけど、それでもやっぱりじいちゃんは、俺の大切なじいちゃんだったんだ。 どのくらい時間が経ったのだろうか。準備がもう整ったようで、ばあちゃんを呼びに来た葬儀場の人が大粒の涙をポロポロと零す俺を見て、小さくお時間ですと呟いた。ばあちゃんは静かに頷き、俺の肩を優しく叩く。 「……ここで待ってる?」 「……いや、行くよ。ちゃんと行く」 目元に溜まった涙をごしごしと拭って立ち上がる。 じいちゃんがいなくなったことを自覚した今だからこそ、きっと伝えなきゃいけないことがあるはずだ。手の中にある小さな思い出をぎゅっともう一度握り直した。 「あら、もう帰るの? ゆっくりしてったらいいのに」 「初めから一週間くらいしかいない予定だったし……そうだ母さん」 「なに?」 「行く前にちょっと倉庫寄ってくわ。探し物がある」 「倉庫ー? 何探すのよ」 「小一の時に使ってた朝顔の鉢植え」 「はあ?」 それからというもの、俺の朝の日課はベランダに置いた鉢植えに水をあげることになった。小一の自分が書いた曲線のような名前を見て、あの時が懐かしく思い出される。小さく行ってきますと呟いて立ち上がる。少しだけ雨に打たれて濡れた朝顔が、あの夏の朝顔のように朝日を浴びて輝いていた。
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