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それから三十分もしない内に遼二がチェリーパイを片手にやって来た。
「随分静かだな? 今日は道場の稽古、休みなのか?」
紫月の父親は道場を開いていて、土日祝日ともなれば普段は通いの子供たちで賑やかしい。紫月の部屋は道場がある母屋とは別棟の離れにあるから煩わしさはないものの、それでも稽古の声だけは聞こえてくるのが通常なのだ。
それが今日は静まり返っていることを不思議に思ったのか、
「親父さんたち出掛けてんのか?」
パイを差し出しながら遼二が勝手知ったる何とかで、まるで自分の家に上がるように玄関で靴を脱いでいる。その仕草を目にした瞬間に、先程の嫌な夢の残像が脳裏を過ぎった。
――こいつはこの腕で見知らぬ女を抱いていた。
「どした? お前、今日は何か元気なくね?」
部屋に入るなりそう訊かれ、顔を覗き込むように見つめられて、紫月は複雑な思いに苦笑した。
「……別に」
そう答えるのがやっとだった。
すぐ隣では、わざと選んだ露出度の高い服を遼二がチラ見している――
なあ、こういう格好をしていれば、もしかして俺でなくてもお前は興味を示すのか?
思わずそんなひねくれた言葉がついて出てしまいそうだ。遼二がそんなヤツではないと分かっていても、朝方の夢はどこまでも手痛い感情を突き付けてくる。
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