執事と恋人

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   5  陽人が冬休みに入り、クリスマスイブ当日。父親の使いでパーティーに出席させられることもなく、陽人は大学の同級生たちに誘われた飲み会に参加した。  珍しい参加者をみんな快く歓迎してくれて、思いの外、楽しい時間を過ごした。  大人たちが集うパーティーとは違い、リーズナブルな居酒屋で初めて飲むビールの苦みに顔を顰め、からかわれ、背中を叩き合って笑い合う。そんな賑やかな時間は、陽人の苦い失恋をしばし忘れさせてくれた。  今日は友達と電車で帰ることになるから迎えはいらないと言ってある。  龍澤は遅い時間に一人で外を歩くことに難色をしめしたが、あまり遅くならないようにするからと必死で説得した。それなのに結局、慌てて最終電車に飛び乗ることになってしまったので、龍澤は怒っているだろう。それでも一緒に乗り込んだ同級生達と大笑いするのはストレス解消にもなった。こうして龍澤以外の人間と接する時間を増やしていけば、いつかは苦しい恋心も忘れられるような気がした。  しかし賑やかで楽しい時間を過ごしたぶん、電車を降りて一人になった途端、どうしようもなく寂しさがこみ上げる。  同級生達と大笑いした下らない冗談を思い出そうとしても、それを報告できる人が隣にいない現実ばかりを意識してしまう。  龍澤はきっと、眠らずに陽人の帰りを待っている。  帰宅したら玄関先で待ち構える龍澤に説教をされるのだろう。  一日の疲れも感じさせないスッキリと整えられた髪、鋭い瞳、伸びた背筋、磨き上げられた靴。そして真っ白な手袋に包まれた大きな手を陽人の背中に添えて、外は冷えたでしょうと、家の中へ入るよう促すのだ。その手に陽人がどれだけ心を乱されているかも知らず、包み込むような眼差しで陽人を見つめ、どれだけ心配したかと語るのだろう。  陽人は引き攣れるように痛む胸を押さえた。  龍澤に受け入れてもらえないなら、こんな気持ち、なかったことにできたらいいのに。  突然、涙がこみ上げそうになり、陽人は慌てて顔を上げて冷えた空気を吸い込んだ。  ふと、向こうからこちらに向かって歩いてくる影が見えた。  この一帯は静かな高級住宅地で、辺りが寝静まったこんな時間にこの道を歩いている者などほとんど見かけることはない。  変な胸騒ぎがして、歩くスピードが落ちる。  少しずつ近づく影が男性だとわかり、陽人はコートのポケットに入れた手で携帯を握りしめた。しかし何事も起こっていないのに龍澤に連絡をするなんて、帰り道に怯えた子供のようだと躊躇する。  歩道のない狭い道で、陽人の正面をこちらに向かって歩いてくる男が、こちらを見据えているように見えるのは気のせいだろうか。男を避ける為に反対側へ渡ろうかと思うが、そちらには珍しく車が停車されていて余計に戸惑う。  陽人との距離があと三十メートル程のところで、男が足を止めた。ちょうど反対側に車が停車されている位置だ。九条邸の敷地を囲む塀に寄りかかり、煙草に火をつけたのが見える。  その時、向かいに停車されている白のワンボックスの運転席にも人影があることに気付いた。  やはりこの状況はおかしいと足を止め、携帯を取り出したところで、背後から声をかけられた。 「陽人様」  息が止まりそうなほど驚き、振り向いた先に見えた龍澤の姿に、陽人は思わず駆け寄った。 「た、龍澤。なんでここに…」 「あまりにも帰りが遅いので…、陽人様? 何か…」  縋りつくように龍澤のコートをぎゅっと握りしめる陽人の様子を見て、龍澤が怪訝そうに顔を顰めた時、車のエンジン音が聞こえてきた。そちらを見ると、この先に停まっていたワンボックスが二人の横を通り過ぎ、先程まですぐそこに立ち止まっていた男の姿は消えてしまっていた。 「陽人様?」 「あ、さ、さっきまでそこに車が停まってて、なんかちょっとビビっちゃってさ…」  笑って済ませようとした陽人を、困ったような顔で見下ろす龍澤の視線から逃れるように俯くと、ふわっと優しい力で抱き締められた。龍澤の香りに包まれ、強張っていた体から力が抜けるのがわかった。  ドキドキするのに、ここが世界中で一番安全な場所だという安心感。 「もう、大丈夫ですよ」  今まで聞いたことのない優しい声に、胸が震えた。  こんな風に優しくするなんてひどい。いつもみたいに、だから言ったじゃありませんかと叱ってくれたらいいのに。そうしたら陽人も、いつも通り、別にちょっとびっくりしただけだし、などと強がりを言えるのに。  こんな風にされたら陽人だって甘えたくなってしまう。  しかし陽人はその逞しい胸に縋りたい気持ちをぐっと堪えた。本当はこの広い背中に腕を回してしまいたい。でも、こんな残酷な優しさに流されたら自分が辛くなるだけだ。  龍澤の両腕に包み込まれ、その温かい体温を感じながら、陽人はこみ上げそうな涙を飲み込むように息を潜めていた。  年を越し、年始の挨拶に訪れる来客ラッシュが落ち着いた頃、龍澤は陽人の父親の書斎に呼ばれて行った。  陽人が父親に言った事が、そのまま龍澤に伝えられているはずだ。  もしかしたら、龍澤は怒るかもしれない。それでももう構わなかった。  案の定、龍澤は部屋に戻ってくると、信じられない物でも見るように陽人を見た。 「陽人様。…私が執事になるのがご不満ですか?」 「まさか」  陽人は笑いながら答えた。 「俺が独立するときには、龍澤に一緒に来てほしいと思ってるよ。でも、勤務時間は減らしていいし、休みも週休二日にしてもらって構わない」  龍澤に振られてから一週間以上経ったが、以前と何も変わらず接してくる龍澤に、陽人は耐えられなかった。  どこへ行くにも送り迎えの車に同乗したり、頭を撫でて褒められたり。ちょっとしたスキンシップにもドギマギしているのに、時折、愛おしむような目で陽人を見ていることがある。  もしかしたら本人は自覚がないのかもしれないが、それが余計に、陽人は辛かった。  だから少し距離を置きたい。  複雑な表情で立ち尽くしている男が、可哀想になってくる。自分に好かれてしまったせいで振り回されている。 「お給料は今までと変わらないし、龍澤に落ち度はないよ」  それでも納得のいかない顔をしている龍澤を見上げて、陽人は笑いかけた。 「…ごめん、龍澤のこと好きになって」  そう。好きになってしまったから、今までのように一緒にいるのが辛い。そんな陽人の身勝手な理由だけなのだ。  龍澤は何も言わず、陽人から目を逸らした。  最近、労働基準法を勉強していたというのを口実に、龍澤の勤務時間の短縮を陽人は父親に申し出た。  こんな事で気持ちが薄れるとは、自分でも思っていない。それでも隣にいる龍澤にときめいて苦しい思いをする時間が減ることで、陽人は少しほっとしていた。  時間が経ち、この胸の痛みが癒えたらまた前のように、ずっと一緒にいられるようになるだろう。その頃には陽人も一人前になって、龍澤にお小言を言われることなく、父親の仕事を引き継ぐ長男の助けになれていればいい。そしてそんな自分の帰りを、執事になった龍澤が独立した陽人の家で待っていてくれるのだ。  その家には陽人の結婚相手がいて、子供がいたりもするのだろうか。きっと龍澤はそれを望んでいるのだろう。  しかし今の陽人には、そんな未来はかすかな想像さえもできなかった。    ***  龍澤が駐車場を覗くと、陽人の送り迎えを担当しているベテランの運転手が、車に付いた埃をオーストリッチの毛ばたきで丁寧に払っているところだった。 「村田さん」  名前を呼ぶと、振り向いた運転手は驚いた顔を見せた。 「あれ、今日は休みじゃなかったのかい」  確かに今日は龍澤は休みだ。しかし無駄に多い休みに慣れず、燕尾服を着こんで家の中の細々とした仕事を片付けていた。陽人が知ったらきっと良い顔はしないとはわかっているが、部屋でじっとしていられないのだ。運転手はその燕尾服姿に驚いたのだろう。 「…突然増えた休みに、まだ慣れなくて」  せっかくもらったアドバイスを活かせなかった心苦しさで目を逸らすと、村田は困ったように苦笑いをよこした。 「一時はうまく行ってるように見えたけどねえ。ケンカでもしたのかい」 「いえ…。そういうわけではないのですが…」  喧嘩をしたわけではない。それは確かだ。ただ、陽人の想いをきっぱり断ったくせに、態度を変えることのできない龍澤を責めているのだろう。  いつ頃からか、隠しているつもりの自分の気持ちが陽人に悟られていることに気付いた。無意識に見つめていた龍澤に気付いた陽人と目が合った時、困った顔で目を逸らされたからだ。  龍澤は幼い頃から武道に励み、厳格な父の教育で精神的にも鍛えられていると自信を持っているはずだった。そんな自分が恋などという不確かな感情に振り回されている事が信じられない。一緒の部屋にいるだけで、陽人の動きを目で追い、全身でその存在を感じていた。時折、切なそうな顔を見せる陽人を抱きしめたくなったのも、一度や二度ではなかった。 「ここにいても、陽人坊ちゃんから連絡があるとは限らないよ。最近は一人で帰ってくることも多いからね」  寒空の下、厚手のコートを着て窓を拭き始めた村田と違って、龍澤は上着も羽織らず燕尾服のまま出てきてしまった。村田はそのことを心配してくれたようだが、他の事が気になっている時は、それほど寒さも気にならない。  以前は龍澤の携帯に連絡が来てから、村田に車を出してもらうという手順を踏んでいた。しかし今は龍澤の休みが増えたこともあって、直接村田に連絡が入るようになっている。  自分が休みの日でも、出かけている陽人が帰宅するまでは、どうにも気分が落ち着かなかった。 「送っていかれた時には、変わった様子はありませんでしたか?」 「ああ。図書館の玄関に横付けした車から降りた途端、寒いと言って、元気よく走って建物に入って行ったよ」 「そうですか…。お邪魔して申し訳ありませんでした」  嫌な顔一つせずに話してくれた村田に軽く頭を下げ、龍澤は邸内に戻ろうと踵を返した。  その時、村田の携帯電話が着信音を奏で始めた。流れてきた『孫』という曲が陽人からの着信を知らせる音だと、龍澤も知っている。子供がいない村田にとってやんちゃな陽人は孫のように可愛い存在なのだと、以前話してくれたことがあった。  龍澤に笑顔を見せてから、「はい、村田でございます」と出たのを、足を止めた龍澤も横で聞いていた。 「…かしこまりました。すぐに参りますから、絶対に建物から出てはいけませんよ」  初めて聞く村田の硬い声に、龍澤は顔を顰めた。通話を切ると、「あんたも乗りな!」と怒鳴った村田も、驚くほど素早い動きで運転席に乗り込んだ。  龍澤が慌てて後部座席に乗り込むと、村田が説明してくれる。 「図書館で不審な男を見たらしい。建物から出るなとは言ったが…」  村田がチラッと時計を見る。  もう間もなく図書館は閉館の時間だ。  融通の利く職員なら中で待たせてもらえるかもしれないが、問答無用で追い出される可能性もある。陽人が利用している図書館は閑静な住宅街の中にあり、人通りも少ない。  スムーズな運転ですぐに大通りには出たが、夕方の混雑で、なかなか思うように車は進まなかった。  電話が来てから十五分ほど経った頃、龍澤は陽人の携帯に電話をかけてみた。しかしすぐに電源が切られているか電波が届いていないというアナウンスが流れだす。  龍澤は無言で携帯電話を握りしめた。    ***  閉館時間になると、図書館の職員に促され、陽人は自動扉の外のエントランスで迎えの車を待った。エントランスと言っても雨除けの屋根があるくらいで、冷たい北風が容赦なく陽人に吹き付けてくる。  あまりの寒さに身を縮めながら、陽人はきょろきょろと辺りを見回していた。  図書館の中で変な男が陽人の事をずっと見ているのはわかっていた。貸し出し手続きを終えた頃には姿が見えなくなっていたので、帰宅しようと自動扉から出ようとした時、外で待っていたらしい男が近付いてくるのが見えた。  陽人はすぐに引き返し、村田に連絡をした。  全く見覚えのない男だった。これと言って特徴のない黒のコートにベージュのチノパン。眼鏡をかけている顔は長い前髪に覆われていて見えなかった。  幼い頃は誘拐されないようにと、両親や使用人たちからしつこいくらいに注意されていた。まさか大学生にもなって誘拐はないだろうが、陽人の素性を知っていれば、強盗が財布を奪い取ろうとすることは考えられるかもしれない。  気を張ったまま辺りを見渡していたが、高い建物に挟まれているこの場所よりも、少し歩いた先にある大通りに出た方が安全なのだろうかと、そちらに視線を向けた時だった。  急に車のエンジン音が聞こえたかと思うと、陽人の逃げ道を塞ぐようにワゴン車が目の前に停車した。  すぐに後部座席から先程の男が降りてきて、陽人の口を塞ぐ。  咄嗟に力いっぱい暴れようとしたが、男の力は思いの外強く、あっという間に車の中に押し込まれてしまった。  硬いシートに投げ出されて、痛みに呻きながらすぐに体勢を立て直す。 「何する…」  陽人は大声を出そうとしたが、素早く首筋にナイフを押し当てられて、言葉を飲んだ。 「静かにしてな。騒がなければ痛い思いをしなくて済む」  低くしゃがれた声で凄まれ、陽人はコクコクと頷いて見せる。 「携帯を出せ」  黙ってポケットから出した携帯を渡すと、男はそれを床に落として更に上から踏みつける。バキッと簡単に壊れた携帯を、陽人は茫然と見ていることしかできなかった。  次に男はナイフを陽人に向けたまま、ポケットから出した携帯で電話をし始めた。運転席の男はこちらを気にする様子もなく煙草をふかしている。 「うまくいった。どこへ行けばいい」  どうやら指示を出している人間がいるらしい。このまま車で連れ去られたら見つけてもらえなくなってしまう。 「…少し落ち着いて話せないのか? おい、とりあえず車を出せ」  一言目は電話の相手に、二言目はのんびり煙草を吸いながら携帯ゲームをし始めた運転手に向けられたものだった。  運転手の男は、チッと舌打ちをしてからハンドルを握った。イライラしているせいなのか、元々そうなのか、運転はひどく乱暴だった。  村田の丁寧な運転に慣れているせいで余計に感じるのかもしれないが、長く乗っていたら酔ってしまいそうなほどだ。車酔いを防ぐには外の景色を眺めているといいと聞いたのを思い出して、陽人は窓の外をじっと見つめていた。  しかし隣に座っている男は、電話を終えるとどこからかアイマスクを取り出した。 「悪いな。目的地に着くまで我慢してもらうぞ」 「あ、あの…。俺、酔っちゃいそうなんですけど…」  大惨事になる前にと思って、恐る恐るそう告げると、男は馬鹿にしたように鼻で笑った。 「へっ、さーすがお坊ちゃんだねえ。おい、お前の運転が下手くそすぎて気持ち悪くなるってよ!」 「うるせえ! 吐きたきゃ好きにしろ!」  下品な言葉に、陽人の恐怖心は膨れ上がり、アイマスクに隠された目からは涙が零れそうだった。  しかし陽人が車に酔う間もなく、拍子抜けするほど短時間で車は停車した。陽人の感覚ではまだ三十分程しか経っていないはずだが、アイマスクを外されて見た外の風景は、見覚えのない寂れた工場の駐車場で、辺りは人気もなく静まり返っていた。  周囲を見回そうとした時、後部座席のスライドドアがものすごい勢いで開かれた。  鈍い動きで乗り込んできた巨体は、陽人をクビにしたマネージャーだった。  龍澤とのいざこざで、クリスマスの一件をすっかり忘れていた。クリスマスイブに家の近くで見かけた不審車も、今思えばこの車だったのかもしれない。  陽人が九条グループの御曹司だと明かすのは、父親と龍澤が考えた一種の仕返しだったが、すっかり恨みを買ってしまったようだと、陽人の隣に座った男の顔を見て理解する。 「まさかお前みたいに口の悪いクソガキが、九条グループのお坊っちゃんだったとはな」  三人掛けの硬いシートの真ん中に座らされ、両脇をナイフを持った男と、ニヤニヤと不気味な笑いを浮かべるマネージャーに挟まれた陽人は言葉を発することもできない。 「金持ちの御曹司ってのはいいねえ。クビになっちゃった~ってパパに泣きつけば、簡単に仕返ししてもらえちゃうんだからなあ」  マネージャーは馬鹿にするように笑いながら、上着のポケットから折り畳みナイフを取り出した。その刀身の鈍い輝きが、陽人の恐怖心を倍増させる。 「だけどなあ、坊ちゃん。世間知らずな坊っちゃんには、ケンカを売る相手は考えた方がいいってことを教えてやらないとな。いいか? この世にはやられて泣き寝入りする人間と、やり返さなきゃ気が済まない人間てのがいるんだよ」  興奮状態のマネージャーの目は大きく見開かれて、白目が血走っている。 「俺がどっちの人間か、坊ちゃんにわかるか?」  そう尋ねてきたかと思うと、突然、髪を掴まれ、陽人はものすごい力でシートから引きずりおろされた。運転席と後部座席の間の床にうつ伏せに押さえつけられ、肩を革靴で蹴りつけられる。 「俺はなあ! やり返さなきゃ気が済まねえんだよ! 負け犬みたいな人生なんてゴメンだからな!」  怒鳴りながら何度も体を蹴られ、あまりの痛みに涙が浮かぶ。  静かな車内には、マネージャーの荒い息遣いだけが響いていた。 「…おい、財布を出せ」  息を切らせたマネージャーに命じられて、陽人は震える手でパンツのポケットから財布を取り出した。それをひったくるように奪われる。 「俺はなあ、お前のせいで給料を減額されたんだよ。だからお前から奪い返す必要があるんだ。そうだろ?」  おかしな理屈を並べられても、反論することはできない。  運転席の男もナイフを持った男も口を挟まず、こちらには興味もなさそうな態度だ。  マネージャーは陽人の財布から出したカード類を、運転席の男に手渡した。 「キャッシュカードの暗証番号は」  陽人が答えると、あらかじめ決められた動きなのか、運転席の男は何も言わずに車を降りて行った。 「さて、あいつが戻ってくるまで、暇だよな?」  マネージャーの意識が陽人自身に戻った時、次は何をされるかわからない恐怖に、体中が震えていた。  この男たちに攫われてからどれくらい経っただろう。休みのはずの龍澤にも、村田から連絡が入っただろうか。 「お前、ここから解放されたら警察に行こうと思ってるよな?」  陽人は何も答えられなかった。恐怖で声が出ないせいだ。頷いたらいいのか、首を振ったらいいのかも判断できない。  無言を肯定と受け取ったのか、マネージャーがわざとらしく大きなため息を吐いた。 「残念だなあ。お前が警察には黙っているって言うなら、このまま帰してやらなくもなかったけどなあ。仕方ないよなあ。警察に行くって言うんじゃ」  ニヤニヤしながらそんなことを言って、男はポケットから出した携帯端末をナイフを持った男に預けた。  男は持っていたナイフをマネージャーに手渡し、代わりにタッチパネルを操作し、カメラをこちらに向けた。 「お前が警察に行かないようにするには、こうするしかないよなあ」  マネージャーの手が陽人のコートのボタンに伸びてきた。咄嗟にその手を振り払う。 「逆らうんじゃねえ!」  怒鳴られ、ビクッと体を震わせた陽人は、それ以上の抵抗はできなかった。  男の手は陽人の服を次々と剥ぎ取っていく。コートを脱がされ、セーターを脱がされ、シャツの小さなボタンを外す途中で、イライラしたように左右に引き裂かれた。千切れたボタンが床に散らばる。 「お前が女だったらなあ。最高に楽しかっただろうに。なあ?」 「いや? そいつなら勃つぜ、俺は」 「じゃあ、俺の後で入れさせてやるよ」  男たちの下卑た会話に、陽人の頭は真っ白になった。  自分がこれから何をされるのかをハッキリと理解し、余計に体が震えだす。 「そんなに震えて、怖いのか? かわいそうになあ。せいぜい浅はかな仕返しをしたことを後悔しろよ。これからすることは全部録画しておくからな。お前がまた余計な事をするなら、お前の実名と一緒にネットに垂れ流してやる」 「おい。一応、大声を出さないように口を塞いどけよ」  携帯端末を構える男から受け取ったガムテープで、マネージャーの手によって口をふさがれる。  絶望感で陽人の目から涙が零れ落ちた。 「いいねえ、その泣き顔。興奮するぜ」 「おい、ちゃんと撮っとけよ」  こちらを録画しながら片手でチノパンの前を寛げる男を注意してから、マネージャーは陽人の肌着をナイフで切り裂いた。  暖房の効いている車内でも鳥肌が立つ。 「おい、この乳首アップで撮っとけ」  マネージャーに命じられた男は、ヒュウッと口笛を吹いてからカメラを陽人の身体に向けた。 「たまんねえぜ」  男は撮影しながら、取り出した性器を扱き始めた。  車内の異様な状況に、陽人は泣くことしかできない。今まで女の子と付き合ったこともない陽人は性的なこととは無縁の暮らしをしてきた。龍澤のことを好きになっても、こういった対象として見られたいなどと想像したこともないくらい初心(うぶ)だった。  雇用主の息子である陽人の為に尽力してくれている龍澤を振り回した罰が当たったのだろうか。  混乱した陽人がそんな事を考えている間に、マネージャーの手が切り裂いた肌着を脱がせ、ベルトに手がかけられた。 その時。突然、後部座席の窓がバキッと派手な音を立てて割れた。茫然としていると、割れたガラスから白手袋に包まれた手が現れ、素早くドアロックを解除する。 「なっ、なんだお前は!」 スライドドアが開くと、陽人と向かい合っていたマネージャーが、そちらに向かってナイフを突き出した。 その腕を掴んで止めたのは、龍澤だった。龍澤は掴んだ腕を引き寄せ、体勢を崩した男をそのまま背負い投げて地面に叩き付けた。 動かなくなった男の手からナイフを抜き取り、身軽に車内に乗り込んできた龍澤は、慌ててチノパンのファスナーを上げている男の手から携帯端末を奪い、その首筋にナイフを押し付けた。 「抵抗するなら、お前の喉を切り裂く」  低い声は落ち着いて聞こえるが、身に纏うオーラがその言葉が本気だという事を教えている。  男は怯えた顔で、大人しく両手を上げた。  男が抵抗しないことを確認して、龍澤がこちらを振り向いた。  陽人はまだ茫然としたままだった。上半身裸で外されかけていたベルトもそのまま、眉間に深い皺を寄せた龍澤をぼんやりと見返した。  龍澤は素早く燕尾服を脱ぎ、陽人の身体を覆った。  外で気を失ったマネージャーを動けないように縛り付けていたらしい村田が車内に乗り込んできて、龍澤から男を引き受ける。そして手に持っていたロープで男の手を背中に回し、手早く縛り上げた。  龍澤は急いた様子で陽人の口を覆っていたガムテープを剥がし、動けない陽人の腕を取って燕尾服の袖に通してくれる。 「…陽人様。お怪我は御座いませんか?」 「…え?」 「どこか痛いところは?」  未だに思考が停止したまま答えられない陽人に、重ねて質問をする龍澤の手が優しく頬を包み込む。その白手袋を通して伝わってくる微かな体温を感じて、もうすっかり慣れ親しんだ温かさが陽人の意識を取り戻させた。  そしてその瞬間に、堰を切ったように涙が溢れ出す。 「た、龍澤…っ」 「陽人様、もう大丈夫ですよ」  泣きじゃくりながら抱き付く陽人を、龍澤の逞しい胸が受け止める。  陽人にとって世界で一番安全な場所で、自分が助かったことにようやく安堵できた。もう大丈夫だと安心して、いつでも陽人の事を助けてくれると信じられる男の身体をきつく抱きしめる。 「龍澤さん」  呼びかけた村田が脱いだコートを龍澤に預け、龍澤の手で陽人の背中に着せ掛けられた。 「ふ、二人とも、ありがと…」  目に一杯の涙を浮かべながら言うと、村田は「すぐに警察が来ますからね」と優しく笑い、縛り上げた男を連れて車を下りて行った。龍澤の肩越しに目線で追うと、いつも村田が運転する陽人専用の送迎車の手前に、気を失ったままのマネージャーと撮影をしていた男が並んで座り込み、さらに陽人のカードを持ってどこかへ行った男まで、二の腕の辺りを縛られた状態で項垂れていた。  間もなく警察が駆けつけ、陽人と龍澤も村田の運転する車で警察署へ赴いた。その車内でどうして陽人の居場所がわかったのか教えられた。 龍澤は休日の増加を命じられてすぐに、陽人がよく使うバッグ全てにGPS発信機を付けたらしい。陽人は全く気付いていなかったが、確認すると、不自然にポケットのような物が縫い付けられていて、中にはカードサイズの塊が入っていた。完全に縫い付けられた布で隠されているので、触らなければ全く気付けない。龍澤は携帯でその情報を受信しながら駆けつけてくれたのだという。 陽人本人に黙ってこんな事をされても嫌な気分にはならない。それどころか、ここまで龍澤の関心を引いているのが自分だと思うと、胸がときめき、切なく痛んだ。  陽人が「心配性だな」と苦笑すると、龍澤はムスッとしたまま、「当然必要な危機管理で御座います」と答えた。 警察署に到着すると、しばらく別々に事情を聞かれ、九条家へ戻ってから、心配していた両親にも二人揃って説明をした。話が終わると、父親に呼び止められた龍澤を残して、陽人は熱いお風呂に浸かり、ようやく一日の疲れを癒した。  部屋に戻ると龍澤がいて、テーブルには温かいリゾットが用意されている。チーズが焼ける匂いにそそられて、陽人は空腹を思い出した。  今日の龍澤は休日のはずなのに、と思いながらも、あんなふうに助けられた手前、勝手に仕事をしていたことを咎めるわけにもいかなかった。  お互いに無言で、目も合わせないまま陽人は席に着いた。静かにテーブルの上にミネラルウォーターの入ったグラスが置かれる。  こんな風に龍澤が無言で給仕するのは初めてだ。まだ打ち解けていなかった頃、いつも陽人がムスッとしていても、龍澤は必ず、「お飲み物はいかが致しますか?」とか、「熱いのでお気を付けください」とか声をかけてくれていたのに。  龍澤がどういう思いでいるのかはわからない。  無理やり休みを取らせようとする陽人に、ほら見た事かと思っているのかもしれない。  辛い恋に重なり、昼間起こった出来事で疲弊しきっていた陽人は、それでももう構わないと思った。どうせ陽人の気持ちは受け入れてもらえないのだ。呆れられ、嫌われてしまえば必要以上に構われて辛い思いをすることもなくなる。  陽人は表面をチーズで覆われたトマトリゾットを一口分すくい、よく冷ましてから口に含んだ。スプーンを持つ陽人の手が止まる。  何故か、その味でわかってしまった。  このリゾットはシェフが作ったものではなく、龍澤が作ったものだ。確かに陽人は長風呂だったが、どんな魔法を使えば、この短時間でこんなにおいしいリゾットが作れるのだろう。全く料理をしたことのない陽人には想像もつかなかった。  もう一口。また一口と、陽人はゆっくり味わいながらリゾットを食べ終えた。  スプーンを置くと、再び何の言葉もなく皿が下げられ、テーブルの上にはホットミルクが置かれた。  普段はコーヒーが置かれるところだが、もう時間が遅いので、眠れなくならないようにと考えられているのだろう。  きっと甘党の陽人に合わせて、砂糖が多めに入れられているに違いない。飲まなくてもわかるその甘さに、陽人の目から涙が零れた。  食器をワゴンに片付けている龍澤は背中を向けているので、涙は見られずに済んだ。そのことにホッとしながら、陽人は指先でそっと涙を拭った。 「…陽人様」  突然、声をかけられて陽人の背中がビクッと強張る。涙を見られたのかと思ったが、龍澤はこちらに背中を向けたままだった。 「旦那様から、私の勤務形態を、以前の形に戻すようにと」  陽人は無言でテーブルを睨んだ。  十中八九、今日の出来事のせいで、父親が心配したのだろう。  またあの拷問のような毎日に戻るのか。  常にすぐそばに龍澤がいて、思いを受け入れてもらえないのに熱い視線で見つめられる、あの苦しくも甘い日々に。 「嫌だ」  思わずそう答えた陽人の声は、みっともなく震えてしまっていた。もう堪え切れずに両手で顔を覆うと、すぐに陽人の頭は龍澤の両腕で抱きしめられていた。  突き飛ばしてしまいたいのに、できない。  陽人は立ち上がり、その逞しい胸に両腕を回した。 「…っ優しくするなよ!」  母親から離れるのを泣いて嫌がる幼児の様に、陽人は精いっぱいの力で龍澤の腰にしがみついた。  陽人の背中にも龍澤の両腕が回されたのを、信じられない思いで意識していた。 「今日の事は感謝してるけど、俺に好かれたら困るんだろ⁉ 執事は自分の主人に恋をしないんだろ⁉ だったら、これ以上好きにさせるなよ! 優しくされるたびに、俺がどんなに…!」  すべてを言い終わる前に、陽人の口は塞がれてしまった。  自分の唇に押し当てられている温かい物が何なのか、すぐにはわからなかった。  チュッと生々しい音を残して離され、それが龍澤の唇だったのだと、ようやく理解した。  陽人は茫然と龍澤を見上げていた。  じっと陽人を見つめてくる龍澤の顔は、いつも通りの無表情で、何を考えているのか全く読めない。 「私も、あなたを愛しています」  突然聞かされた愛の告白は、龍澤の表情のせいで、そうと気付くまでに時間がかかった。もしかしたら陽人の幻聴だったのではないかと思ってしまうほどその表情は硬く、先程の口付けさえ後悔しているように見えた。  言葉の意味を理解しても、まだ信じられない思いで龍澤を見つめ続ける。 「ですが私は、あなたの執事という立場を誰にも譲りたくないのです。だから…」 「じゃあ、どっちもやってよ」 「……え?」  陽人が言った言葉の意味を、龍澤は本当にわからないようだった。 「恋人も、執事も、龍澤がなってよ。うまく切り替えて。それくらいできるだろ?」 「…それは、受容致しかねます。そもそも執事というものは…」 「うるさいな! 俺がやれって言ってるんだよ!」  いつになく強い口調に、龍澤も驚いていたが、自分でも驚いた。我儘にねだることはあっても、こんな風に高圧的な口調で命令したのは初めてだ。  何より、こんなに強い欲求を抱いたのも初めてだった。龍澤を好きになってから胸に秘めていた物が、今、堪えようもないほどに疼き出す。そして胸から溢れ出る恋情は涙という形になって、陽人の瞳から溢れ出てきた。昼間の出来事のせいか、すぐに感情が昂ぶり、簡単に涙が零れるようになっている。  もう物分かりのいいふりなんてしていられない。次から次へと涙が零れ落ちる陽人の瞳を、龍澤も苦しそうに見つめているのだ。 「…それとも、これってセクハラになるの? それともパワハラ?」  以前、一緒に勉強した言葉を使うと、龍澤は一瞬考える素振りを見せた後、陽人の顔を両手で包み込んできた。白手袋の柔らかな感触が頬を撫でる。この手袋が陽人の涙を吸い取ってくれるのは、もう何度目の事だろう。  その大きな手を、陽人は両手でぎゅっと握った。もうなんと言われても離さない。そんな陽人の決心が伝わったのか、龍澤はその手を引き抜こうとはせずに、大きく息を吸い込んだ。  龍澤もまた、何かを心に決めたことが陽人にもわかった。 「…いいえ。私もそれを喜んでしまっているので、ハラスメントとは言えないでしょう」 「じゃあ、いいよね?」 「我儘ですね」 「我儘だよ。昔から。知ってるだろ」 「ええ。存じ上げております」  そう言いながら、龍澤の目がわずかに細められた。二人の距離が少しずつ近づいてきた頃から時折見かけるようになった表情は、もしかしたら微笑んでいるつもりなのかもしれない。  そんな不器用な男が愛しくて、その精悍な顔を、陽人も同じように両手で包み込んだ。  ゆっくりと顔が近付き、陽人はそっと目を閉じた。  優しいキスを交わした後、龍澤は買い物に出て行ってしまった。陽人と抱き合う準備をすると言われては、それ以上我儘は言えなかった。陽人はネットで調べて、オリーブオイルなどの代用品でいいと言ったのだが、専用の物を使った方が絶対に楽なはずだと、龍澤は譲らなかった。  結果、陽人は自室で悶々とさせられている。もう時間も遅いし、身体は疲れているはずなのに、目が覚めたら夢だったなんてことになったら困ると思うと、眠くもならなかった。  待ちきれなくて部屋の中をうろうろし始めた頃、ようやく扉を叩く小さな音が聞こえた。慌ててドアを開けると、龍澤は素早く部屋に入り込み、静かにドアと鍵を閉めた。 「ひょっとしたら眠っているかと思いました」 「…この状況で?」  笑う陽人の手を引いて龍澤は奥のベッドルームへ入る。  枕元のサイドテーブルに買ってきたものを並べる手元を、陽人はピッタリとくっついて覗き込んだ。 「…怖いですか?」  表情は変わらなくても心配していることが伝わってきて、陽人は龍澤の腕に抱き付き、笑いかけた。 「全然。でも、ドキドキする…」  静かに唇が重なり合う。腰を抱き寄せられ、二人でベッドに乗り上げた。陽人はパジャマのボタンを外そうとする龍澤の手を、そっと握った。 「待って。手袋、外して」  陽人は答えを待たずに、その手から白手袋を引き抜いた。一度だけ見たことのある武骨な手を見ると、心臓のドキドキが激しくなった気がした。  さらにボタンを外すよりも早く、裾から入り込んだその手に脇腹を撫でられる。素手の感触に、それだけで感じてしまいそうだった。 「陽人様」  名前を呼ばれ、顔を上げるとすぐに口付けられた。唇を舐められ、思わず薄く開いたその隙間から、柔らかい舌が差し込まれた。陽人の物よりも大きく、肉厚な舌で、陽人の薄い舌を翻弄するように舐め回される。 いつの間にかパジャマのボタンは全て外され、脱がされていた。陽人の体を眺める龍澤の眉間に皺が寄ったことに気付いて目線を下げると、我ながら頼りないほど華奢な体に、幾つかの痣が浮かび上がっていた。マネージャーに蹴られた痕跡を目にして、あの時の恐怖がフラッシュバックする。 しかし今は世界一安全な場所にいる。何があっても守ってくれる逞しい男の体を引き寄せると、龍澤は何かをこらえるように目を細め、優しく口づけてきた。先ほど思い出してしまった恐怖はあっという間になくなり、穏やかなキスを繰り返しているだけで体が熱くなってくる。   大きな掌が宥めるように体を撫で始め、やがて乳首の周りを弄りだした。 「…やっぱり、龍澤もエッチなんだ…」 「…もちろんで御座います」  龍澤はそう言って、陽人の手首を掴む。導かれた先は龍澤の硬くなった場所だった。  スラックスの上から触れると、さらに硬くなった物が布を押し上げてきた。  それが龍澤の物だというだけで愛しさや照れくささがこみ上げる。たまらずに、陽人は龍澤の首元に巻かれている、アスコットタイを引き抜く。 「俺が脱がせてもいい?」 「ええ。お好きなように」  震えそうな手でベストとシャツのボタンを一つ一つ外し終え、肩から一度にすべての服をベッドに落とした。露わになったその体躯は、想像以上に逞しかった。燕尾服の上からでも胸板が厚いと思っていたが、それでも着やせしていたらしい。  上着が無くなって、良く見えるようになった場所が、先程よりも大きく盛り上がっているように見える。  陽人は再びそこを指先で撫でた。陽人を欲しがってそうなっていると思うと、もっとそこを可愛がってやりたくなる。 「陽人様も、エッチですね」  そんな風に言いながらも安心した様子で、龍澤の手が陽人のパジャマを押し上げているモノに触れてきた。  触れられたことによる刺激よりも、いつもと変わらない表情で、龍澤の口から初めて聞いた性的な言葉にドキッとする。  今、自分たちは誰にも気づかれることなく、内緒でエッチな事をしているのだ。  ベッドに押し倒され、ズボンも脱がされた。 抵抗する間もなく、掌で性器を扱かれ、陽人の口から高い声が漏れる。  さらに乳首を舐められて、初めて知る淫らな快楽に、陽人は涙を浮かべた。 「あ、ちょ、待って…っ」  制止を求める陽人の声をあえて塞ぐように口付けられた。先程まで舐められていた乳首は、指先でキュッとつままれ、陽人の腰が捩れる。  激しく口付けられている間に、カチャカチャというベルトの音が響き、唇を離すと、龍澤は素早く全裸になった。  すぐに再び重なってきた体を、両腕でぎゅっと抱きしめる。裸の胸を合わせたまま、チュッ、チュッと短いキスを落としてくる龍澤が、陽人にはとても意外だった。  陽人の想像では、龍澤はもっと遠慮がちに触れてくるかと思っていたのだ。 「ん、そんな押し付けるなよ…」  すっかり上を向いている龍澤の性器が、陽人の可愛らしい性器に擦りつけられていた。恥ずかしさを堪えている陽人の顔を、龍澤は優しく撫でてくれるのに、腰の動きは止めてくれない。 「あ、や、龍澤…、それ、恥ずかしいから…」  お互いの溢れ出した液体が擦れて、クチュクチュと音を立てているのが、余計に恥ずかしかった。 「陽人様…」  耳元で囁く龍澤は、陽人のお願いを聞き入れないどころか、恥ずかしがる姿を眺めて楽しんでいるようにも見える。やがて動きを止めた龍澤が体を起こした時には、陽人の性器は今にもはじけそうだった。 「やぁ…、龍澤、もっと」 「少しお待ちください」  触れてほしそうにプルプル震えている性器を眺めながら、龍澤はテーブルに置いてあったボトルを手に取った。  いたたまれなさに目を逸らしていると、龍澤が突然陽人の足を抱え上げた。 「な、なに?」 「失礼致します」  陽人が戸惑っているのをよそに、龍澤の指が陽人の後ろに触れてきた。  龍澤が陽人の中に入ってくる準備をしているのだと自分に言い聞かせ、陽人は初めて自分の内部に異物が入ってくる苦しさに耐えた。  しばらくはローションを塗り込むように、浅い場所を出たり入ったりしていた指が、何の予告もなくぬるっと奥まで押し込まれた。 「は…っ」 「痛みますか?」 「…たくない」  嘘ではなく、ローションのおかげか全く痛みはなかった。ただ、指一本だけでも予想以上の圧迫感で、本当にここで龍澤とつながれるのかと不安になる。  その不安を感じ取ったのか、龍澤が指を入れたまま、陽人の隣に寝そべってきた。 「大丈夫ですよ、陽人様。ゆっくり広げていきますから」  そう言って深く口付けられた。優しくとろかせるようなキスをされながら、後ろの孔も確実に解されていく。そしてすっかりリラックスしてきた頃。味わったことのない快感が下半身から伝わり、陽人の身体がビクッと跳ねた。 「…え…っ」 「ここで御座いますね」  すべてを確信したような顔で、龍澤がそこを突いてくる。 「あっ、ああ、そこ、なんで」 「そんな淫らに腰を振って、私を誘わないで下さい」  いつも落ち着いた話し方をする龍澤が早口になっていて、余裕をなくしているのは自分だけではないと知る。  しかし熱を孕んだ視線で見つめながらそんな事を言われても、その指を止めてもらえなくては、陽人の腰は勝手に動いてしまうのだ。  どんどん熱くなっていく粘膜が、さらなる刺激を求めてうねっている。もう何本差し込まれているのかわからない龍澤の指を、自分では制御することもできずに締め付ける。 「あ…、ん、もっと。もっと。たつざわぁ」 「陽人様…」  さすがに余裕のなくなった表情で、指を抜いた龍澤が起き上り、大きく広げた陽人の足の間に硬いモノを押し当ててきた。  孔が広げられた痛みを感じたのは、ほんの一瞬だった。ずぶずぶと一気に奥まで貫かれてしまうと、一杯に満たされている満足感が広がる。 「陽人様…」  額に浮かんだ汗を拭う龍澤の手が、今は白手袋に包まれていない。それが嬉しくて陽人は龍澤の背中をぎゅっと抱きしめた。いつか嗅いだことのある龍澤のフレグランスの香りが、湧き立つように陽人の鼻を掠めた。 「龍澤、動いて…」  陽人がねだると、ゆっくりと龍澤の腰が動き出す。 「あっ、あっ」  喘ぐ陽人の顔を、龍澤がじっと見つめている。快感を堪えるように眉間に皺が寄っているが、それ以外、無表情なままだ。  それでも愛情は伝わってくるのだから、不思議なものだと陽人は思う。  やがて本格的な抽挿の準備を知らせるように、龍澤が陽人の目を見つめたまま上半身を起こした。そしてベッドに縫い留めるように掌が重なり、指がからめられた。もう、自分たちの間に境界線のような布はない。それどころかこれ以上ないほど深い場所で触れ合っている龍澤を確かめるように、陽人の粘膜がきゅっと収縮した。龍澤が何かを堪えるように息を止めた。性器を硬くしながらも、その波をやり過ごそうとしている男を、陽人は下から見つめながら待った。陽人だって、まだまだ終わらせてほしくない。しかし、制御の効かなくなった陽人の中は、急かすように龍澤の性器に絡みついてしまう。 「ん…」  予想以上に長いインターバルに焦れてきた陽人の口から、切ないため息が漏れた時、突然龍澤が腰を引いた。 「ああ…っ」  パンッと音を立てて貫かれる快感に、一際高い声が漏れた。無意識に中を締め付けるのと同時に、重ねられている掌をぎゅっと握りしめる。  いつもはオールバックに撫でつけられている髪が乱れて、額に落ちている。  初めて見たかもしれない、額に浮かぶ汗。快楽に乱れる陽人を射抜く鋭い視線。中を穿つのと同じリズムで繰り返される荒い息遣い。  もう何も考えられない。  徐々に激しく腰を打ち付けるようになっていく龍澤を、陽人も初めて知った恍惚に身を委ねながら受け止めた。 「ん…」  部屋のドアを閉める音が聞こえたような気がして、陽人は目を覚ました。寝がえりをうつと、「陽人様、目が覚めましたか?」と、声をかけられた。  光に慣れない目をゆっくり開くと、朝日に包まれながら、燕尾服を完璧に着こなした龍澤がベッドに近付いてくるところだった。 「今、何時…」 「もうすぐ八時になるところで御座います」  龍澤はあまりにもいつも通りの様子で、陽人は一瞬、昨夜のことは全て夢だったのかと疑った。しかし陽人の声はかすれているし、腰はだるいし、あろうことか中が少し痺れているような気がする。否定しようもない情事の痕跡に赤面する陽人を、龍澤は目を細めて見下ろした。 「…おはようのキスは?」 「残念ながら、もう執事の時間で御座います。恋人からのキスをご所望でしたら、もっと早くにお目覚め下さい」  陽人の命令どおり、恋人の顔と執事の顔を見事に切り替えたらしい。あまりにも見事すぎて、陽人は口を尖らせて睨んだ。  しかし龍澤は動じた様子もなく、「さ、そろそろ朝食を召し上がってください」などと言って起床を急かしてくる。  初めてのセックスの余韻が顔に出ていそうで、陽人が階下の食堂で朝食をとることを拒んだ為、龍澤が部屋のテーブルに皿を並べてくれた。グラスに飲み物を注ぎながら、龍澤が話し出す。 「先ほど、あの男の父親から旦那様にご連絡があったようです」  陽人は目を見開いて龍澤を見上げた。 クリスマスパーティーに親子そろって出席していた姿を思い出す。  あんなやり方で陽人を攫って、あの男はどうするつもりだったのだろう。 「当然、旦那様がお怒りですので、あの企業は近々ダメになるでしょうね」 「そっか…」  それでは、あそこで働いていたスタッフたちも別の仕事を探すことになってしまうのだろうか。短期間だが親切にしてくれたチーフやアルバイト仲間たちに申し訳ないような気持ちになった。  改めて、会社を経営するという仕事の大切さを感じた。実質、父親の会社を継ぐのは長男だが、その会社で働く人達が困らないように、自分も兄の手助けができるようになりたいと思う。 「もっと勉強頑張ろう」 「どうなさったんですか? 急に」  陽人の急な宣言を、龍澤が不思議そうな顔で見ていた。
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