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陽人の予想通り、龍澤との間には一か月程が経った現在も、緊張感のような張りつめた空気が漂っていた。それでも城ケ崎と交代する事を告げられた初日のように、激しい言い合いをすることはない。
それは陽人が龍澤に注意されないように気を張っているからだ。結果的に陽人の素行が改善されることになったが、溜まったストレスは尋常ではない。
その上、更に父親から、アルバイトに行くようにと命令があった。
二人の兄が大学入学と同時にアルバイトを初めたのは知っていたが、陽人はしばらくアルバイトをするつもりはなかった。ただでさえ、兄たちと比べて出来の悪い陽人は、家庭教師だの習い事だのが多く、大学に入学して親しくなった友人たちと遊ぶ時間が少ないのだ。
しかし父親の命令には逆らえない。
一体どこで探してきたのか、面接もせずに決まったバイト先に向かって、運転手付きの車で送られていく初日。車の中には、龍澤の姿もあった。
「よろしいですね? くれぐれも九条家の人間だとは知られないように」
「わかったって」
アルバイト先のカフェは、九条家とは何の関わりもない企業だ。わざとそういう仕事を探してきたのか、昨夜は自分の素性は明かさないようにと、龍澤からしつこいくらいに注意事項を説明された。
さらにバイト先へ向かう車にまで一緒に乗り込んできた龍澤に、陽人は驚いていた。
意外に過保護なのだろうか。いつも偉そうに堂々としている龍澤が、少しそわそわしているように見える。
「陽人様、緊張しなくても大丈夫ですよ。最初は失敗が付き物で御座います。多少の失敗など気になさらず…」
陽人は堪え切れずにぷっと噴き出した。陽人が緊張すると言ったわけでもないのに、一生懸命励まそうとする龍澤が、少しだけ可愛く見えたのだ。
「大丈夫だって。俺、頭の出来は兄さんたちみたいに良くはないけど、世渡りだけは一番上手いと思う」
「…否定は致しません。致しませんが、世の中には人を利用したり騙そうとしたりする人間がいるという事をお忘れなきよう。何か問題が起こりましたら、すぐに私にご連絡下さい。よろしいですね?」
最後の「よろしいですね?」が、いつも通り偉そうだったが、大袈裟なほど陽人を心配している姿を見ていると、不思議と腹も立たなかった。
「家の事を知らなければ、俺なんて利用できるようにも見えないだろ。世間知らずなのは否定できないだろうけどさ」
「その歳で世慣れていては、先が思いやられます」
フォローしてくれたのか、失礼なことを言われたのか、判断に迷うところだ。
でも、もしかしたら悪気はないのかもしれない。ただ、やさしさを言葉にできない不器用な人なのかも。
陽人は初めて龍澤の事をそんな風に思った。
***
「じゃあ、行ってくる」
「行ってらっしゃいませ」
アルバイト先の店舗から見えないよう、少し離れたところで陽人を送り出した。
龍澤が深く下げていた頭を上げると、意外にも楽しそうにバイト先に向かう陽人の後ろ姿が見える。
「噂ほど険悪な雰囲気でもないんだねえ」
「……そうですか?」
再び車に乗り込むと、人の良さそうな運転手が声をかけてきた。やはり自分たちの関係が使用人たちの間で噂になっていたかと思うと同時に、運転手の意外な評価に龍澤は驚く。
龍澤はもっと陽人に心を開いてほしいのだが、どうしたらいいのか悩んでいた。
元々、口から優しい言葉がスルスル出てくる性質(たち)でもないし、武道家である父に厳しく育てられ、軽々しく笑うなと言い聞かせられていたため、長年凝り固まった表情は今更柔らかくもなってくれない。それでも九条家に採用されたのは、その腕っ節の強さを買われたからだった。雇用主となる九条夫妻は、ボディーガードもできる執事と言って、龍澤を歓迎してくれた。
十歳になったばかりの長男の世話係として採用された時、陽人はまだ三歳だった。新しく一緒に住むようになった使用人に興味津々なのに、ちょうど人見知りの激しい時期だったようで、遠くの物陰からよく観察されていたものだった。
小さい頃から陽人に小言を言ってしまっていたのは、そんな無邪気な子供に声をかけてみたかっただけだ。
九条家の三兄弟のうち、上の二人は子供の頃から落ち着いて優秀だったが、末っ子の陽人は年相応のやんちゃ坊主だった。その元気いっぱいな姿が可愛くて構ってみたかったのだが、不器用な龍澤は小さい子供になんて声をかけたらいいのかわからなかった。
自然、声をかけるのは小言を言うだけになり、徐々に嫌われてしまったのも自覚していた。
それでも龍澤は声をかけるのをやめることはできなかった。年頃になった陽人は人目を惹きつける華やかさを持ち、煌びやかなセレブが集まるようなパーティー会場でもとても目立つ。そういう場所で恥をかいたりしないかとか、金目当ての変な女に声をかけられたりしていないか等、心配しだしたらきりがない。しかも、本人には自分が目立っているという自覚がないのも困りものだった。
龍澤が面倒を見なければいけないはずの隼人が優秀で手がかからない分、やんちゃな陽人の行動が目に付いてしまう。その上、龍澤は必要以上に心配性だった。その心配を素直に伝えることができず、挨拶がなっていない、姿勢が悪い、声が大きい等、小言ばかりが増えていった。
だから今回の教育係交代の辞令を聞いた時、龍澤は関係を改善するチャンスだと思った。いつも陽人と仲良く盛り上がっている城ケ崎が、実は羨ましかったのだ。隼人の執事になることを念頭に日々の仕事に励んでいたため、主人の婚約者とうまくやれなかった事は悔やまれるが、思わぬ事態を無意識に喜んでいたのは事実だった。
その為、海外の別宅から本宅へ戻ってきた日は、龍澤なりに気合を入れていた。
住み込みの使用人が住む別棟ではなく、執事用に与えられる個室は本館にある。新しく龍澤に与えられた部屋でユニフォームである燕尾服に着替え、久々に過ごすことになる邸宅の周りを見回りながら、陽人に会ったらどんな挨拶をすれば好感度が上がるかと考えていた。
しかし偶然玄関から飛び出してきた陽人と、予想外のタイミングで顔を合わせてしまったため、無意識にいつも通りの小言が口から滑り出てしまった。
久しぶりに会った陽人は成長期のせいか、夏休みに会った時より表情が大人びた気がする。それでも身長は平均より少し低めだし、童顔も変わらずで、可愛らしさもそのままだった。
その動揺を隠すように、ポロッと毒を吐いた自分が腹立たしい。
詫びのつもりで作ったフライドポテトは気に入ってもらえたらしく、「美味しかった。ありがとう」と言われたが、その表情は不本意そうだった。
それからも陽人に嫌われれば嫌われるほど、龍澤は関係を修復しようとして声をかけ、余計な小言を言ってしまい、さらに嫌われるという悪循環に陥っていた。関係を改善できるかと期待していたのに、三十代半ばにもなって愛想笑いの一つもできない自分が情けない。
だから運転手の言葉は意外だった。確かに楽しそうにアルバイトに出かけていったが、車の中では心配のあまり口うるさくなる龍澤に、陽人は辟易している様子だった。
「…どうしたらもっと打ち解けられるんでしょうね」
「なんだよ、悩んでるのかい?」
龍澤よりもずっと昔から運転手として九条家に仕えているベテランの村田は、いつも偉そうに見える龍澤の弱音を楽しそうに笑った。
「陽人坊ちゃんは素直だから、何も難しいことはないだろうに。あんたの態度がそのまま陽人坊ちゃんの態度だよ。陽人坊ちゃんがツンケンしてるなら、あんたがツンケンした態度で接してるんだろ」
「…そんなつもりはないのですが」
「へえ?」
馬鹿にしたような返事を返され、やはりそう見えるのかと龍澤はため息をついた。
そのまま窓の外を流れる景色を眺めながら考え込む龍澤に同情したのか、村田が苦笑しながら「なあ、執事さんよ」と声をかけてきた。
「なんでしょう?」
「陽人坊ちゃんは素直だって言っただろ? 子供と同じで、美味しい物をくれる人とかスキンシップに弱いよ。お菓子をあげるとか、頭を撫でてやるとか、そんなもんでもちょっとは変わるんじゃないかね」
「…ありがとうございます」
ありがたいアドバイスに龍澤は素直に礼を言った。
ただ、そのアドバイスを不器用な龍澤が実行できるかはわからないが。
***
初めてのアルバイトからの帰り道は、思っていたよりも足取りが軽い。龍澤が心配していたような失敗もなく、仲良くなったバイト仲間と一緒に駅まで歩き、陽人はそのまま電車に乗って、一人で帰宅した。大学へは電車で通学しているので、満員電車も慣れている。
鼻歌でも歌いそうな勢いで家に着き、門を開けてもらうためにインターホンを鳴らした。
「ただいまー」
「陽人様! お一人で帰られたんですか?」
玄関で陽人を出迎えてくれた使用人が驚き、その背後を通りかかった別の使用人が慌てた様子で奥の部屋へ消えた。大学へは一人で通学しているのに、アルバイト先から一人で帰っただけで、どうしてそんなに慌てるのかと、陽人の方こそ驚いてしまう。
「陽人様! アルバイトが終わったらお迎えに上がりますと言っておいたでしょう!」
奥の部屋へ消えた使用人に聞いたのか、龍澤がさらに慌てた様子で飛び出してきた。
「龍澤? 何その恰好」
一人で帰宅した事情も説明せず、陽人は龍澤の姿に驚いた。
いつもの燕尾服のジャケットを脱ぎ、ベストの上から黒のロングエプロンを身に着けているのだ。
「それより、何かありましたか? どうしてご連絡下さらなかったんですか」
「いや、バイト先で仲良くなった奴と駅まで一緒に帰ることになったから…。もういいやと思って帰ってきちゃった。…ごめん」
そんなに驚かせることになるとは思わなかった陽人は、戸惑いながら謝った。初めてのアルバイトが無事に終わってほっとしたせいか、行きの車の中で龍澤が大袈裟なほど心配していたことをすっかり忘れていた。
陽人の説明を聞くと、ようやく龍澤の強張っていた表情から力が抜ける。
「…取り乱してしまって、申し訳ありませんでした。お一人でご帰宅される時は、必ずご連絡をお入れ下さい」
「うん…」
大袈裟に心配したり、慌てて取り乱したり。今まで見た事のない龍澤の姿を、陽人は不思議な気持ちで眺めていた。龍澤の前で無意識に張りつめていた緊張感が緩むのを、自分でも感じている。
手洗いを促すように、洗面所に向かって背中を押される。その龍澤の手を、陽人は無意識に掴んでいた。
「何? 何か作ってたのか?」
「え? ええ、まあ…」
戸惑う龍澤の返事をよそに、陽人はその大きな手をしげしげと眺めた。
白手袋をしていない龍澤の手をまじまじと見るのは初めてだった。思っていたよりも関節がゴツゴツしていて、とても滑らかとは言えない武骨な手だ。手の甲にはぷっくりとした血管が何本も浮いている。
陽人の手は坊ちゃんらしく、滑らかで指も細い。物珍しさで、その硬そうな関節を指先でゴリゴリと撫でてみた。
「何作ってたの?」
自分とは全く違う龍澤の手の感触を確かめながら陽人が聞くと、頭上からボソボソと、「…フライドポテトで御座います」と返ってきた。
「ウソ! ほんとに? アンチョビのやつ? のり塩のやつ?」
目を輝かせて顔を上げた陽人に、龍澤は面食らったように低い声で答える。
「両方とも…」
「やった! すぐに手、洗ってくる!」
「うがいも忘れないでくださいね…。あ、走ってはいけません!」
洗面所へ向かう陽人を追いかけるように飛んできた小言に、慌てて歩調を緩める。
なんだか胸がウキウキしていた。
今日は龍澤の色々な表情を見ている。今も、手の甲を撫でられて戸惑っていたし、ポテトに喜んだ陽人を見た時も、驚きに目を見開いていた。
そう言えば、龍澤に笑顔を向けたのは初めてだったかもしれない。そんな自分たちの関係の変化が、陽人は嬉しかった。
自室に戻って間もなく、龍澤がポテトを運んできてくれた。九条家のダイニングは、大きなテーブルに立派な椅子がかなりゆったりとした等間隔で置かれていて、陽人はあまり好きではない。その為、おやつ等の間食は部屋で食べるのが習慣なのだ。
美味しそうな匂いを漂わせているポテトが、もうすぐ夕飯だからと、少なく盛られているのが少し残念だ。
熱々のポテトをほおばる陽人に、龍澤がアルバイトはどうだったかと聞いてくる。
「すっごい楽しかった。同年代のバイトも何人かいて、みんな親切に仕事教えてくれるし、接客が上手だって、チーフに褒められた」
「…それは良かったですね」
そう言って、龍澤はぎこちない手つきで陽人の頭を撫でた。予想外の出来事にポカンと龍澤を見上げると、恥ずかしそうな顔をして、すぐに手を離されてしまった。
「なんだよ、もっと褒めろよ。いつも厳しいことばっかり言ってるんだから」
陽人が口を尖らせて睨むと、龍澤は顔を顰めてしばらく考え込み、おもむろにゴホンと咳払いをした。
「…初めてのアルバイトを失敗もなく終えられたのは、大変素晴らしい事で御座います。大学を卒業された後(のち)には、きっと優秀な社会人になられることと…」
慇懃な言葉を並べ始めた龍澤に、陽人は遠慮なく笑い出した。すると龍澤はどうして笑われたのかわからない様子で顔を顰める。
「そんな堅苦しくなくていいんだって。よくできましたとか、そんなんで」
「…大変、よくできました」
不本意そうにしながらも、陽人が言った通りに返してくれた龍澤に、お礼の意味も込めて満面の笑みを返す。
龍澤は目を逸らしながらも、再び陽人の頭をポンポンと優しく叩いてきたのだった。
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