執事と恋人

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   3  龍澤がぎこちないながらも陽人を褒めてくれるようになって、二人の関係は見違えるように円滑になった。  城ケ崎と交代したばかりの頃、あまり二人きりにならないようにしていたのが嘘のように一緒に過ごす時間が長い。ひょっとしたら城ケ崎が付いていた頃よりも長いかもしれない。  それは龍澤が心配性な上に過保護なせいだ。  以前は電車で通っていた大学までの通学も車になった上、後部座席の隣には必ず龍澤が乗り込んでくるし、家庭教師の先生がいる間も、一緒の部屋で、隅の方に折り畳み式の小さな机を持ってきて、何やら自分の仕事を行っている。  陽人もそれを自然と受け入れていた。  慣れてしまえば、気遣いの細やかな龍澤の傍は居心地がいい。城ケ崎との体格の違いに圧迫感を感じていた大柄な体も、大学の帰りに疲れた体を預けてみれば、その逞しさが心地良かった。  友人たちと遊ぶ時間はさらに少なくなったが、陽人は何故か気にならなかった。以前は自由時間が欲しくて逃げ出そうとまでしたのに、自分でも不思議だった。    しかし龍澤の偉そうな物言いがすぐになくなるわけでもない。小さな言い合いはしょっちゅうだ。  今日も友人の誕生日を祝うホームパーティーに招かれたが、帰りの車でやはり言い合いになった。 「なあ、龍澤ってなんでそんなに仏頂面なの。関谷さんも城ケ崎も木崎も、いっつもニコニコしてるじゃん。和泉の家の執事もすごく優しそうだし」  木崎というのは会う機会の少ない次兄の世話係で、和泉というのは今日が誕生日だった幼馴染だ。  パーティーが終わった和泉家の玄関前、友人と一緒に執事が見送りに出てきてくれた時に、迎えの車に同乗してきた龍澤も彼らと顔を合わせていた。その時の執事二人の対比が印象的だったのだ。  陽人が乗り込むために後部座席のドアを開いていた龍澤は、二人に深々と頭を下げて挨拶をしていたものの、表情は相変わらずの仏頂面だった。それに対して和泉家の年輩の執事はニコニコと人の良さそうな笑みを浮かべていた。 「私もお客様にはにこやかに接しますよ」 「嘘だ。その眉間の深い皺がなくなるとは思えない」  しれっと答えた龍澤の眉間を、隣の座席から腕を伸ばし、人差し指でぐりぐりと突く。するとそこの皺は余計に深くなり、その下の鋭いまなざしが不愉快そうに陽人を睨んだ。 「人を殺したことがあるみたいな目で睨むな」 「…陽人様は私に対してだけ失礼な事をおっしゃいますね」 「龍澤が俺に失礼な事を言うからだよ! あ~あ。もっと優しい執事がよかったな」  その言葉が本気ではないと、龍澤も理解しているとわかっている上での冗談だ。こんな風に気兼ねなく言い合える関係の方が陽人は好きだ。城ケ崎ともそうだったし、下らない事を言い合いながらもお互いに楽しいのだ。 「本当に、陽人様は純粋でお可愛らしいですね」 「はー? どういう意味だよ」 「まだまだ世間知らずでいらっしゃるという事で御座います。執事というのは、根っからの善人には務まらない仕事なので御座いますよ。主人や客人の前ではにこやかに接している和泉さまのお宅の執事も、必ず裏の顔をお持ちでしょう」 「なんだよ。俺を人間不信にしたいのか? あの人は絶対に優しい人だ。年の功でお前より人間ができてるんだよ、きっと」 「おや。賭けてもよろしいですよ?」  自信満々の龍澤に、陽人は口を尖らせて押し黙った。実際には他人の家の執事の裏の顔など想像もつかないのだ。しかしこのまま言い負かされたのでは面白くない。 「じゃあ、城ケ崎は? 城ケ崎にも裏の顔があるのか?」 「…あれは、規格外で御座います」  しばらく考えた龍澤が出した答えに、陽人は思いがけず笑ってしまった。  いつも通り、車でアルバイト先の近くまで送られて、龍澤に「行ってらっしゃいませ」と深いお辞儀で見送られた。しばらく進み、振り返ると顔を上げた龍澤がそこに立ったままこちらを見送っていたようだったので、陽人は手を振って見せた。すると再び生真面目なお辞儀を返される。  城ケ崎だったら気安く手を振り返してきただろうが、龍澤はどんなに仲良くなってもそういった慣れ合いをすることはなかった。そんなプロ意識に感心するものの、少し寂しくもある。  この頃、陽人は龍澤の近くにいると、こんな風に複雑な気持ちになることがある。もう城ケ崎と比べても遜色ないほど信頼関係は築けている。しかしそこにあって当然の、仕えている側と仕えられている側の間にある壁が、陽人には邪魔に感じるのだ。  別に友達になりたいわけではない。だったらどうしたいのだと考えても答えは出ず、正体の見えない焦燥感にかられる。  そんなことを考えながら到着した店舗に裏口から入ると、中の雰囲気がいつもよりもピリピリしているように感じられた。不思議に思いながら準備をしてフロアに出ると、更に空気が張りつめている。  陽人のアルバイト先はビジネス街として有名な駅から徒歩五分の場所にある、小規模チェーンのカフェだ。まだできて間もない企業ということで、知名度はそれほど高くもない。あらゆる企業の幹部とつながりのある父親もまだ社長には会ったことがないそうで、だからこそ陽人の素性を隠しながらアルバイトをするのにピッタリだったのだろう。知り合いの知り合いを通じて、紹介ということで採用を決めてもらったらしいと、働き始めてから店舗のチーフに聞いて知った。  それほど広くもない縦長の店内は、注文カウンターにレジが二つと、その隣に受け取りカウンター。通路を挟んでその向かい側に窓の方を向いたカウンター席が五つ。更にその奥に可動式のテーブル席が六席ほどある。  陽人がアルバイトに入るのは大抵夕方で、他のメンツも同じ大学生が多く、すぐに仲良くなった。店長は早朝シフトを担当しているらしく、陽人とはいつも入れ違いで帰っていくが、シフトの入れ方はきつくないかといつも気に掛けてくれる。仕事を教えてくれるチーフも、まだ二十代だと思われる若い女性だが、男勝りの性格でさばさばしていて接しやすい。  アルバイトを初めて一か月程が経つが、今のところ何のトラブルもなく、「九条君、気が利くねえ」などとチーフに褒められれば嬉しくて、帰宅してすぐに龍澤に報告したりもした。  コーヒーの香りが広がる店内はいつも通りの忙しさだったが、馴染のない緊張感の原因は見慣れない男が加わっているせいらしい。  身長はそう高くもないが横幅があるため、狭いカウンターで作業をしていると、後ろを通るスタッフが動きづらそうだ。それでも避けようともしない偉そうな態度で、本部の人間だろうかと、一応挨拶の声をかける。 「おはようございます」 「…新人か?」 「はい。ひと月ほど前からお世話になっております。九条陽人と申します」  こういった挨拶は昔から厳しくしつけられている。深く頭を下げた陽人に、男は「ふん、早く入れ」と返しただけで、結局何者なのかはわからなかった。  ちょうどオーダーの客が途切れたところで、隣のレジに入っていたチーフが教えてくれる。 「あれ、初めて会ったよね? ここら辺のエリアマネージャーで時々顔出すんだけど、うちの社長の息子らしくて、偉そうなんだよね~。性格もネチネチしてるから、九条君も目を付けられないように気を付けてね」  その男は混み合った店内をうろつきながら、備品の様子を窺ったり、遠くから注文カウンターを眺めたりしている。陽人は接客をこなしながら、その動きを視界の片隅で追ってみた。  店内が決して広くはないので席の間の通路も狭く、そんな場所を塞ぐように立っていると、客たちも迷惑そうだ。  父親が経営している九条グループも、メインではないが外食産業に参入しつつある。もしも自分がああいう仕事をすることがあったら、あの男の様にはならないようにしようと、反面教師にするつもりで観察していた。  結局その男は閉店時間まで居座った。他のアルバイトと一緒に閉店作業をしながら、その男に張り付かれたままレジ締めをしているチーフを気の毒に思っていた。 「じゃあ、お先に…」 「おい! お前ら、ちょっと待て!」  タイムカードを押して、数人のアルバイト仲間と一緒に店を出ようとすると、フロアから怒鳴るように呼び止められた。  怪訝に思って、顔を見合わせながらフロアに戻ると、集計用のパソコンを広げたチーフが青ざめた顔で画面を睨んでいた。 「レジの金が三万足りない。どういうことだ?」 「え…?」  突然聞かされた事態に、再び顔を見合わせる。  どういうことだと言われても、三万円なんて会計ミスで合わなくなるような金額ではない。考えられるのはレジの操作ミスか、人為的な被害だ。そのうち、人為的な被害の方を男は疑っているのだろう。つまり、ここに並んだ三名のアルバイトの誰かが盗ったのだろうと疑っているのだ。 「おい、山室。荷物の中を見せてみろ」 「え? お、俺ですかあ?」  男が名指ししたのは、この中で唯一、一人暮らしをしている大学生だ。一番に疑いをかける理由もわからなくはないが、彼はこの店で二年以上働いているというし、社員並みにシフトにも入っているのだから、給料もそれなりの額になるはずだ。第一、他の可能性を考えずにいきなりアルバイトを疑う神経が理解できない。  大体、今ここに残っているアルバイトは全員陽人の後に出勤してきたのだ。つまりこの偉そうなマネージャーが目を光らせている中で犯行に及んだという事で、それは少し無理のある考えだと思えた。 「早く見せろ!」 「ええ~。マジですか? まいったなあ~」  山室はしきりに頭を掻きながら、なかなか荷物を広げようとしない。その目がチーフの存在を確認するように動いて、陽人はその理由に気付いた。  山室は大学の友人に貸してもらったと言って、よく鞄の中にいかがわしいDVDを入れているのだ。若い女性であるチーフの前でそれを出すことを躊躇っているのだろう。 「あ、あの~。もう一度レジの記録とか確認してみませんか? 僕たちが出勤した時にはもうマネージャーがいらっしゃいましたし、今日はチーフと僕がレジを担当していたので、山室さんは注文カウンターには入ってなかったと思います」 「なんだと? 逆らう気か?」  まるでガキ大将のような威張り方だ。  なんなんだこいつは、と思いながらも、陽人はあくまで低姿勢で首を振った。 「とんでもないです。一度確認した後でしたら、荷物検査でもなんでもして頂いて構いませんから」 「時間の無駄だ! お前ら全員、さっさと荷物を広げろ! 俺は忙しいんだ!」  あまりにもヒステリックな物言いに、陽人もイライラしてくる。  そもそも城ケ崎にも龍澤にも平気で口答えする陽人は、そうそう我慢強い方でもないのだ。 「簡単に人を疑って、他人のプライバシーを晒させるからには、冤罪だった時にはそれなりに責任を取って頂けるんでしょうか」  言い返されるとは思っていなかったのか、男は小さな目を見開き、顔を真っ赤にしている。  陽人は冷静な目でその情けない姿を観察しながら、自分も怒った時の言葉遣いが龍澤に似てきたなあなどと考えていた。 「責任だと? 偉そうに! 上の者に従うのがお前らの義務だろうが! 大学生のガキが生意気に逆らうんじゃない!」 「尊敬できる上司なら黙って従いますけどね。あんたみたいな話の通じない奴の命令なんて…」 「ま、待って! マネージャー、すみません。マネージャーがいらしてすぐの時間帯に、レジを開けた記録があるんですが、何か心当たりはありませんか?」  ここのレジは、会計の時以外はアルバイトが開けることは禁止されている。開けられるのはチーフ以上の立場の者だけだ。その為、もし会計の時に受け取ったお金を入れ忘れて閉めてしまったら、いちいちチーフに報告して開けてもらわなければならない。  そのチーフが開けた覚えがないからマネージャーに確認しているのだろう。レジを開けた記録もきっちり残っているらしい。  言われたマネージャーは一瞬押し黙った後、あからさまに目を泳がせた。大方、両替しようとして万札を抜いたまま、用意してきた小銭を入れ忘れたとかではないのか。  きっとこの場にいる全員がそう思っただろう。 「も、もういい! 早く帰れ!」  その上、説明もせずにうやむやにするつもりらしい。 「ちょっと待ってください。これだけ疑っておいて、何の説明も…」 「うるさい! お前はクビだ!」 「…は?」  陽人はあまりに理不尽な宣告に言葉を失った。横からチーフも、「マネージャー、そんな…」と声をかけてくれたが、男は取り合おうともしない。 「当たり前だろう! 上司に逆らったんだから! もう来るな!」  チーフから聞いた、社長の息子だと言う情報が脳裏に浮かぶ。  きっと陽人が何を言っても、この男の意見は通るのだろう。昔から、大人たちの上下関係を嫌というほど目にしてきた。  陽人は悔しさで震えそうな拳を握り締め、無言で男に背を向けた。背後から「九条君!」というチーフの声が聞こえたが、立ち止まりもせずに裏口から飛び出した。  駅に向かって駆け出すと、いつも送られてきた際に停車する場所に、見覚えのある車が停まっているのが見えた。  アルバイトの帰りは、バイト仲間と一緒に電車で帰ることもあるので、こちらから呼ばない限り迎えには来ないことになっているのに。初めて閉店時間まで残ることを話してあったので、心配性の龍澤が様子を見に来たのかもしれない。  陽人が走ってくることに気付いたのか、後部座席の扉が開き、慌てた様子で龍澤が顔を出した。 「陽人様! どうされたんですか!」  陽人が到着するのも待たずに駆け寄ってきた男の胸に、何も考えずに飛び込む。  逞しい胸に抱きとめられて、何があっても陽人の味方になってくれると思える男の腕の中で安心すると、涙が込み上げてきた。 「とにかく中へ」  燕尾服姿の龍澤は夜でも目立つ。今の陽人には周りを見る余裕などないが、通りかかる人に注目されているのかもしれない。肩に回された龍澤の腕に促されるまま、一緒に車に乗り込んだ。暖房の効いた車内が温かくて、また少しホッとする。 「陽人様? 一体何が…」  広い胸に縋る陽人の顔を覗きこもうとした龍澤が、その目に浮かんだ涙を見て、すぐに運転席との間に取り付けられているカーテンを閉めてくれた。滅多に使われることのない仕切りだが、運転手にまで泣き顔が見られないようにと気遣ってくれたのだろう。どこまでも陽人の事を気遣ってくれる男の腕が、本当に全てから自分を守ってくれているような気がした。もうここから出るのが怖くなりそうだ。外の世界ではあんな理不尽な事があるのかと、思い出すだけでまた胃の辺りが怒りで熱くなってくる。  陽人が落ち着くまで追及を待つことにしたのか、龍澤は黙って陽人の頭を抱き、大きな手で背中を撫でる。 「…ふっ、う…っ」  こんな風に泣くのはいつ以来だろう。幼い頃からのんびりした私立の学校で喧嘩もなく過ごし、他人から怒鳴られたこともなかった陽人には先程の出来事は衝撃だった。悔しい気持ちがなかなか収まらない陽人は、泣きながら意識的に昔へと思いを馳せる。  そういえば、幼い頃に壺を割った時、龍澤には泣き落としが効かなかった。でもその後、謝りに行くときに一緒に付いて来てくれた。正直に謝れる陽人様はとてもいい子だと…。  いつもの偉そうな態度で父親に執り成してくれた龍澤の姿を思い出し、顔を上げた。  気付いた龍澤が、陽人の目元を擦る。真っ白な手袋に、陽人の涙は次々と吸い取られていった。 「落ち着かれましたか?」 「うん…」  頷いたが、陽人は泣きはらした顔を上げるのが恥ずかしくて、そのまま龍澤の腰に両腕を回し、厚い胸にもたれかかった。龍澤もあやすように背中を撫で続けてくれる。  龍澤の首筋から微かに人工的な香りがすることに気付いた。今まで気付かなかったが、至近距離でようやくわかるほどの薄い香りだ。  龍澤によく似合う、少しスパイシーな香りが、不思議と陽人の気持ちを落ち着かせた。 「さっき、店のレジ金が合わなくてさ…」  陽人はぼやくように事の顛末を話し始めた。  終始、無言で話を聞いていた龍澤だったが、陽人の話が終わると、おもむろにジャケットの内ポケットから携帯電話を取り出した。 「どこに電話するの」 「旦那様で御座います。すぐに弁護士に連絡をして、訴訟の準備を…」 「いいよ、そんなの!」  慌てて龍澤の携帯を取り上げる。正直言って、もうあの男とは顔も合わせたくないし、そんなことをしたらまるで親に言いつけて仕返しをする子供のようだ。親の権力を笠に着て威張り散らしている、あの男のようには絶対になりたくない。しかし龍澤はそんな陽人の心情もわかっているようだった。 「陽人様。アルバイトを突然不当に解雇するというのは、労働基準法で禁止されています。決してこちらがごねているわけではなく、正当な…」 「それでも、もういい。早くあいつより偉くなってやる」  思いっきり泣いてスッキリした陽人は、力強くそう言った。龍澤はまだ納得のいかない顔をしていたが、「畏まりました」と頷いて、陽人が返した携帯を内ポケットにしまった。 「…もう、しばらくはバイトしたくない」 「ええ。旦那様にお伝えしておきましょう。その間に、少し経営について勉強しましょうか。労働基準法なども知っていた方がいいかもしれませんね」 「うん…」  泣き疲れたせいか、温かい胸の中でうとうとしながら、また家庭教師の時間が増えるのかなあと考える。  本当はもっと龍澤と二人で過ごせる時間が増えたらいいのに…。  静かな車の振動に揺られながら、いつの間にか陽人は眠ってしまっていた。
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