執事と恋人

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   4  アルバイトをクビになった次の日から、世の中の事をもっと勉強しましょう、と増やされた勉強時間に陽人は一瞬顔を顰めたが、教えてくれるのが龍澤だと聞いて素直に喜んだ。 新聞を読んで一緒に話し合ったり、過去に企業を相手に就業者が起こした訴訟などを勉強したり。そして、雑談をする時間も増えた。家庭教師の時間に雑談が増えると難色を示す龍澤だったが、これは部活動のような物だからと色々な話をしてくれる。  実家が道場で、厳しい祖父と父親に鍛えられたこと。今でも毎日の腹筋や腕立て伏せを欠かさずに行っていること。実は音痴だということ。お酒が好きなこと。酔ったところが想像できないというと、陽人様が成人したら一緒に飲みましょうと約束してくれた。 そして、陽人が幼い頃、仲良くなりたくて声をかけていたことも聞いた。じゃあなんであんなにお小言ばっかり言ったんだよ、と聞くと、他に何を話したらよかったのか、今でも思い付きません、と顔を顰めていた。 「子供好きなんて、意外だな」 「別に子供全般が好きなわけでは御座いません。幼い頃の陽人様は、それはもうお可愛らしく…」 「…今はどうだって言うんだよ」 「何度も申し上げているかと思いますが、陽人様は今も相変わらずお可愛らしく…」 「それ、絶対意味が違うだろ!」  怒ってみせながらも、可愛いと言われて陽人の心臓はうるさいほどに高鳴っていた。男らしさとは程遠く、スーツも着こなせない陽人は、可愛いと言われることがあまり好きではなかったはずなのに。嬉しさを隠して拗ねたふりをする陽人を見て、龍澤が目を細める。笑うというほどの変化ではないが、こんな風に柔らかい表情を向けてくることが多くなったような気がする。その表情には一体どんな意味がこめられているのか。  その顔を見ると、いつも陽人の胸は鼓動が早くなる。  そんな龍澤の雰囲気の変化を感じ取っていたのは、陽人だけではなかった。  それは大学からの帰り、父親の遣いで親戚の家に顔を出すように命じられていた陽人を迎えに来た、運転手の村田との会話だった。 「あれ? 龍澤は?」  いつもは龍澤が開けてくれるはずの後部座席のドアを、運転席から降りてきた村田が開けてくれていた。車内に乗り込みながら訊ねると、外からドアを閉める前に答えてくれる。 「申し訳ありません。たまにはお一人でお役目を果たすようにと、旦那様からのご伝言です」 「えー」  もともと執事というのは家の中を管理する仕事だ。だが九条家では、世話係のうちは子供と一緒に外出することも多い。本当はその習慣も小学校を卒業する頃から自然と少なくなっていくのだが、龍澤は陽人が車で出かける時には大抵一緒に乗り込んでくる。そして目的地に着くと自ら車のドアを開き、行ってらっしゃいませと見送るのだ。  その習慣にすっかり慣れてしまった陽人は、一人で車に乗っているのが退屈だった。いつもは龍澤とおしゃべりしている時間にぼんやりと外を眺めている陽人に気を使ったのか、村田が声をかけてきた。 「新しい執事さんとも、すっかり仲良くなりましたねえ」 「んー…、本当にそう思う?」 「おや、違いましたか?」  決して慣れ合うことのない龍澤との距離感を、相変わらず陽人はもどかしく感じていた。  もちろん仲はいい。城ケ崎と交代したばかりの頃と比べたら雲泥の差だ。 「まあ、思ってたより優しいし、それなりに仲良くなれたとは思うけどさ…」 「もっと仲良くなりたいんですね?」  何故か楽しそうな村田に聞かれて、陽人の頬が染まる。そんな自分が決まり悪くて、別にそうじゃないけど…、などと口を尖らせる。しかし、村田の言った通りなのだろう。もっと龍澤の事を知りたいし、色々な事を話して、一緒の時間を過ごしたい。 「坊ちゃん、この家に来たばかりの龍澤さんを覚えていらっしゃいますか?」 「え? 来たばっかりって…、俺が幼稚園の頃だっけ? いや、もっと前かな。いっつも怖い顔してるし、すぐ怒るし、あんまり近付きたくなかったなあ」  正直な陽人の言葉を、村田は笑った。思わず笑ってしまったという様子を見ると、村田も同じように思っていたのだろう。 「本当にねえ。いっつも仏頂面でしたもんねえ。でも、最近は随分優しい顔するようになったじゃないですか」 「優しい顔? 龍澤が? 相変わらずニコリともしないけど」 「いえいえ、坊ちゃんと一緒にいる時は、それはそれは優しい顔をしてますよ」  そうかなあ、などと言いながら、もちろん悪い気はしない。それどころかものすごく嬉しい。でもまだまだ足りなかった。だからと言ってニコニコ笑いかけてほしいわけでもない。本当はずっと仏頂面だって構わない。昔は怖くて近寄りがたかったけど、今はその仏頂面が隣にいないと物足りない。 じゃあ、自分は一体、龍澤とどんな風になりたいのだろう。 用事を済ませて帰宅すると、龍澤が陽人を玄関まで出迎えてくれた。 村田にあんなことを言われたせいか、「お帰りなさいませ」と頭を下げる前に陽人を見た龍澤の目が、とても優しく見えてしまった。陽人の顔が赤く染まる。途端に龍澤が心配そうな顔で「外は寒かったようですね。すぐに温まってください」と言って、陽人を部屋へ促す。  背中に添えられた手に、胸がドキドキしてくる。  別に初めてでもないし、アルバイトをクビになった時には、その逞しい胸に抱き付いて泣いた事もあった。でも、今そんなことをしたら、ドキドキし過ぎて息が止まってしまいそうだ。  どうしよう。相手は自分よりも男らしい男なのに。しかも自分の教育係で、ゆくゆくは執事として、何事もなければ長い年月を一緒に過ごしていかなければならない相手なのに。  もう誤魔化しようもなかった。 陽人は龍澤に恋をしてしまったのだ。    ***  十二月に入ると、陽人はクリスマスパーティーに出席することが増える。九条家でもかなり大がかりなパーティーが予定されているが、その前から立て続けに招待を受けており、中には一日に二つのパーティーに顔を出した日もあった。  今日はこれから陽人の父親の名代として、ホテルで行われる華やかなクリスマスパーティーへ出席する予定だ。  大学から帰宅した陽人の支度を手伝っていると、龍澤はその表情が憂鬱そうに曇っている事に気付いた。 「連日のパーティーでお疲れですか?」 「ん? うん…」  陽人は小さな声で答え、龍澤が向かい合ってその首にネクタイをかけると、目を逸らすように顔を俯けた。 「…ネクタイくらい自分でも結べるけど」 「私の仕事で御座いますよ」  子ども扱いされていると思ったのか、陽人の頬がわずかに赤くなり、拗ねたように小さな口を尖らせている。それでも大人しく結ばせてくれるのをいいことに、龍澤は意識的にゆっくりとネクタイを結んでいく。  城ケ崎と交代した直後は敵対心丸出しだった陽人が、近頃は心を開いてくれたことが伝わってくる。先日のアルバイト先での一件以来、ますます二人の距離は縮まった。  小さい頃から避けられて寂しい思いをしていた分、懐かれると余計に構いたくなってしまう。元々、隼人に付いていた頃より過保護になっていることは自覚していたが、以前はそんな龍澤を疎ましそうにしていた陽人も、近頃はどこへ行くにも龍澤が一緒なのが当たり前だと思っていることが見て取れた。  先日、陽人の父親の指示で迎えの車に龍澤が同行しなかった時も、帰宅した陽人に「父さんに言われない時は、ちゃんと迎えに来てくれるんだろ?」と、不安そうに確認された。龍澤が「もちろんで御座います」と即答すると、安心したように笑っていた。  そんな風に心を預けられてしまったら、世話係であると共に教育係でもあるという自分の責務を果たせなくなりそうだ。本当はなんでも一人でできるように独立を促すべきなのに、彼が寂しいならいつまででも迎えに行ってやりたい。  ネクタイを結び終わり、「これでよろしいでしょう」と声をかけると、陽人は「ん、ありがと」と礼を言いながらも、まだ憂い顔だ。  不思議に思いながら、選ぶために何本か並べていたネクタイを片付けている龍澤に、陽人が声をかけてきた。 「ねえ、今日のパーティーって、一人で行かなきゃダメ?」  ソファに腰かけたその姿は、妙に小さく儚げに見える。何がそんなに心細いのかと心配になり、龍澤は片片付けを中断して、陽人の前に跪いた。 「私も会場の前までお送り致しますよ」 「そうじゃなくて…、龍澤は会場に一緒に入っちゃダメなの?」  今日の出席者の中に苦手な人物でもいるのかと思い当たる。社交的な陽人にそんなことは珍しく、その理由が気になった。 「陽人様。何かご心配な事でもおありですか?」 「んー…」  言い難そうな陽人の様子で余計に心配になる。 「陽人様。不安な事があるようでしたら、なんでもお申し付けください。必要であれば、パーティー会場へご一緒することも検討する余地がないわけでは御座いません」  一瞬パッと陽人の顔が明るくなったが、すぐに俯いて再び言葉を詰まらせている。  辛抱強く見つめていると、陽人が小さな声で話し始めた。 「あのさ、この前のパーティーで、一緒に抜け出さないかって誘われて…。俺、上手に断ることができなくてすごく失礼な感じで逃げちゃったんだ。その人、今日のパーティーにも招待されてるって言ってたから、怒ってないかなあって…」 「ナンパされた…という事で御座いますか?」 「ナンパ…? いや、違う! 奥さんいる人だし! そんなんじゃなくて、甘いものが好きだって話してたら、美味しいケーキ屋さんに連れてってくれるって誘われただけだよ。でも初めて話す人だったし、緊張するから…。龍澤…?」  龍澤の言葉に驚いて、慌てて否定していた陽人の声が怯えたように震え、自分の顔が険しくなっていることに気付いた。 「…相変わらず、陽人様はお可愛らしいですね」  散々この言葉でからかってきたせいか、龍澤が陽人の子供っぽさを指摘したことはすぐにわかったらしい。陽人は顔を赤くして、目を吊り上げた。 「なっ、なんだよ。だって、俺…。どこに電話するの」  おもむろに内ポケットから出した携帯に、陽人が驚く。龍澤は仏頂面のまま「旦那様で御座います」と答えた。 「よろしいですか? 陽人様」  村田の運転する車の後部座席で並んで座り、低い声で名前を呼ぶと、陽人はふくれっ面を窓の外に向けて拗ねている。 「パーティー会場では、初対面の方には必ずご自分が九条家のご子息であることをお伝えください。そうすれば気軽にナンパなどしてくる者はいないはずです」  龍澤の説教が陽人に疎まれていることはわかっているが、言わないわけにはいかなかった。  聞いたところによると、陽人はナンパしてきた男の事を名前も職業も何も聞いていないというのだ。突然声をかけられて聞く暇がなかったというが、陽人は自分が他人にどう見られているかが全くわかっていないらしい。 「だからナンパじゃないって。高価(たか)そうなスーツ着てたし、結構なおじさんだよ? 龍澤は心配性すぎる」 「…陽人様は、未成年の少年を性の対象にする男性がいることをご存知ですか?」  こちらに向けられた陽人の背中が固まったように見えた。本当は龍澤も、陽人にそんな知識を与えたくはない。  しかしそういった世の中の闇の部分を知らなければ、同級生達と比べても純粋すぎる陽人は、危機感を抱いてくれそうもない。 「もちろん誰彼構わず疑えとは申しません。ですが陽人様には、ご自分が周囲からどんなふうに見られているか自覚して頂く必要が御座います。私が一緒の時は何があっても陽人様をお守り致します。本日のパーティーも旦那様の許可を頂きましたので、同行致します。しかし、いつでもどこでもというわけには参りません。陽人様ご自身でも危機感を持ち…」  いくら言い聞かせようとしても、陽人はそっぽを向いたままで話を聞いているのかもわからないような態度だ。龍澤は焦りもあり、実力行使という手段を選ぶことにした。  隙だらけの背後から陽人の動きを押さえ込むように左腕を巻き付け、右手で口を塞いだ。 「…っ」 「こういうことがあったらどうしたらいいかをお考え下さいという事です! 動きを封じられ、助けを呼ぶこともできず…」  龍澤はそこで言葉を止めた。驚いた顔で龍澤を見上げた陽人の目に、見る見る涙が溜まっていったからだ。慌てて手の拘束を緩め、口を塞いでいた手を外す。 「…っ」  息を吸い込んだ拍子に嗚咽が漏れ、のぼせたように真っ赤に染まった陽人の頬を涙が辿った。 「…焦りすぎじゃないかねえ」 「…ええ」  運転席から遠慮がちに声をかけてきた村田が、龍澤の返事を聞いてから仕切りのカーテンを閉めてくれた。おそらく陽人が泣いているのを見ない方がいいと判断してくれたのだろう。 「…申し訳ありません。驚かせてしまって…」  俯いて震える細い肩に手を回し、いつかのように胸の中に抱き込む。陽人の腕が自分の背中に回り、拒絶されなかった事にホッとした。  これからパーティーに出席することを気遣ってか、龍澤の服を汚さないよう自分の涙を懸命に拭う姿がいじらしい。龍澤はポケットから取り出したハンカチで、陽人の頬を濡らす涙を優しく拭き取った。 「ごめんなさい…」  いつになくしおらしい態度で、陽人が弱々しく呟いた。龍澤の胸が引き絞られたように痛む。その細い体を抱きしめる腕に、思わず力が入ってしまった。 「いいえ。私が焦りすぎました。今日は私がお傍で目を光らせておきますので、陽人様は何も心配せずにパーティーをお楽しみください」 「パーティー、どうしても行かなきゃダメ…?」  赤くなった目を見ると、行かなくてもいいと言ってやりたくなるが、九条家当主の名代として行く以上、短時間でも顔を出して役目を果たす必要がある。  龍澤は思わず伏せられた瞼に口付けていた。  慰めか、励ましか、謝罪か。自分でもわからないまま行動していた。  陽人は先程よりも驚いた顔で龍澤を見上げてきた。  その零れそうに大きな瞳を見つめながら湧いてきたのは、愛おしい、という気持ちだった。  戸惑いながらその頬を撫で、首の後ろを引き寄せてもう一度胸の中に抱き込んだ。陽人が甘えるように龍澤の首筋に額を擦りつける。ますます溢れ出る感情に動かされるまま、龍澤は陽人の身体をより一層強い力で抱きしめた。    ***  陽人は自室の姿見に写った自分の顔を眺めながらぼんやりしていた。一瞬だけ龍澤の唇が触れた瞼を無意識に撫でる。  先日、車の中で龍澤に抱き締められてから、陽人はずっとこんな調子だった。  年配男性にまで警戒するようにと説教をされた時には、同性である龍澤に恋心を抱いている自分を責められているような気がして涙を堪えられなかった。そんな自分を龍澤が抱きしめてくれて、今度は嬉しさのあまり苦しいくらいに胸が高鳴った。まるでフリーフォールのように感情が揺れ動き、その激しさは怖いくらいだ。  ふとした拍子に思い出される、龍澤の力強い腕に抱き締められる感触。ドキドキするのにホッとして、このまま時が止まってしまえばいいと願った。  あれから数日経ったが、龍澤への想いは募るばかりだ。  あの日、龍澤は宣言通りパーティー会場でも陽人の傍を離れず、前回のパーティーで声をかけてきた男は、陽人と目が合っても近付いても来なかった。やはり怒らせてしまったのかと気にする陽人に、龍澤は何故か困った顔でため息を吐いていた。  あの溜息はどういう意味だったのかと考えていると、部屋の扉をノックする音が響いて陽人の心臓がドキッと高鳴る。  返事をすると、入ってきたのは案の定、龍澤だった。 「陽人様、準備はよろしいですか?」 「うん。ネクタイ曲がってない?」  陽人の部屋を訪ねてきた龍澤に、自分の服装を正面から確かめてもらう。赤くなっている顔を見られそうで、ついつい顔が俯く。  今日は九条邸でクリスマスパーティーが行われるのだ。その為、朝から使用人たちはバタバタと準備に追われて忙しそうだ。  龍澤もずっと関谷と一緒に何やら作業をしていたようだったが、それがひと段落して様子を見に来てくれたのだろう。 「少しネクタイが緩いようですね。失礼致します」  白手袋に包まれた龍澤の手が、俯いた陽人の顎をそっと持ち上げる。  ベロア素材の蝶ネクタイを直すために、正面から首筋に手を回されて、陽人はドキッとした。何度か嗅いだ覚えのあるスパイシーな香りが、一瞬だけ微かに香ってきた。 自分の恋心を自覚してから、こんな風に動揺してばかりいる。  でも、龍澤のせいでもあると思う。首に回して金具で留めてあるだけの蝶ネクタイを調整するためなら、背後に回った方がやりやすかったはずだし、抱き締められそうなこの至近距離が陽人を期待させるから。  目を合わせないように天井を見上げていた陽人だったが、龍澤の手が止まった気がして、視線を下ろしてしまった。龍澤の視線は首元の蝶ネクタイではなく、陽人の顔を見つめていた。  一瞬絡まり合った視線の意味を尋ねるように陽人が瞬くと、龍澤はハッとしたように襟元から手を離した。 「…よろしいでしょう」  何事もなかったかのように満足げに頷いた龍澤に動揺を悟られないよう、陽人も何気なく「格好いい?」と聞いてみる。 「大変可愛らしいですよ」  いつも通りの無表情で返された答えに口を尖らせる。 「なんだよ、それ。格好いい? って聞いたのに」  そんな風に憎まれ口を叩きながらも、陽人の頬は赤く染まっているに違いない。そんな陽人を見下ろしている龍澤の視線にも、以前はなかった熱が篭っているように感じるのは気のせいだろうか。 「可愛らしく、且つ格好いいですよ」  そう言って、陽人の耳に掛けた髪が落ちていたのを直してくれる。そのお返しの様に、陽人は龍澤の胸元を飾る、見慣れたアスコットタイに触れた。 「…龍澤も、格好いいよ」  そんな風に触れられるとは思っていなかったのか、龍澤は目を見開いて陽人を見下ろした。珍しく無防備な表情を見せる龍澤にドキドキしながら、陽人も上目づかいで見つめ返す。  部屋の中が不自然な静寂に包まれた。階下では使用人たちが賑やかにパーティーの準備をしているというのに、そんなことも忘れて、お互いの存在だけを感じている。そんな空気。  俺の事、どう思ってる?  いっその事、そう聞いてしまいたい。この濃密に絡まる視線の意味を、お互いにわかっているような気がするのは、陽人の勘違いに過ぎないのか。  もっと触れたい。  見つめ合ったままそれ以上近付こうとしない距離に焦れて、陽人が思い切って手を伸ばそうとした時。突然部屋のドアがノックされた。  二人同時に息を飲み、同じように一歩離れた。二人を取り巻いていた甘い空気が、一気に霧散する。  激しい動揺から先に立ち直ったのは、やはり龍澤だった。 「はい。今、開けます」  さっさと扉を開けに行ってしまった龍澤の広い背中から目を逸らし、陽人は火照った頬を手の平で押さえた。 「龍澤さん、お疲れ様です」  聞こえてきた声に、陽人は目を輝かせて振り向いた。 「城ケ崎⁉」 「陽人様! ご無沙汰しております。お元気ですか?」  思わず駆け寄った陽人に、城ケ崎も嬉しそうな笑顔を向けてくれる。 「元気だよ! びっくりした~。兄さんも帰ってきてるのか?」 「お聞きになってないですか? 隼人様も、琴美様とご一緒に帰国されてますよ。お二人は本社に顔を出されてからこちらへいらっしゃるそうですが、私はパーティーの準備のお手伝いの為に、先に戻らせていただいたんです」 「なんだ、やっぱり準備のためか…」  がっかりする陽人に、龍澤が声をかけてきた。 「陽人様。少し城ケ崎とお話されますか?」 「え、いいの?」 「三十分程度なら大丈夫でしょう。お茶をお持ち致しますよ。城ケ崎も飛行機での長時間の移動は疲れただろう」 「龍澤さん、そんな恐れ多い! お茶くらい自分で持ってきますから!」  尊敬する先輩に自分が飲むお茶を入れさせるわけにはいかないと、城ケ崎は陽人に断って、一旦お茶を用意しに部屋を出て行った。  一人きりになった部屋で、陽人は「はーっ」と深い息をつく。  城ケ崎が来なかったら、どうなっていたのだろう。  おそらく陽人はあのまま手を伸ばし、龍澤に触れていたと思う。  龍澤はそれを拒むだろうか。そんなことになったら陽人は耐えられるだろうか。  とりあえず、今回は邪魔が入った事で救われたような気がした。    ***  お茶を乗せたトレーを持った城ケ崎が調理場を出て行くのを見送りながら、龍澤は自己嫌悪に陥っていた。  日に日に強くなっていく、陽人を愛おしく思う気持ちに逆らえずにいる自分が信じられない。陽人の方も、明らかに龍澤に向ける眼差しが変わった。  それでも陽人は、執事となる自分が仕える相手なのだ。  あんな雰囲気になる前に自制して、近付かないようにするべきなのに。ネクタイを直す時も、背後に回ればあそこまで接近しなくて済んだのに。わかっていたのに、なぜ正面から手を回したのか。  答えはわかっている。自分が陽人に近付きたかったのだ。あのほっそりとした首筋に触れたかった。そして、自分の胸にすっぽりと収まってしまう細い身体を抱き締めてしまいたかった。  龍澤は己の煩悩を断ち切るように、一つ深い息を吐き、先程までグラスを磨いていたテーブルへと戻る。一緒に作業をしていた関谷は姿が見えなくなっていた。 「あ、龍澤さん。関谷さんが後はお願いしますって。今、庭のツリーの搬入に立ち会っているそうです」 「承知しました」  忙しそうなメイドが伝言を伝えてくれたことに礼を言ってから、残されているグラスを磨き始める。  無心に作業をしていると、心が冷静さを取り戻していくのがわかった。  龍澤は自分の仕事に誇りを持っている。 執事という仕事は、日本で働き口を探すのが難しい。特に外見が威圧的だと評される龍澤は、就職活動で苦戦するだろうと覚悟していた。  ところが初めての面接で九条家への就職が一発で決まってしまった。喜んで迎え入れてくれた九条夫妻に感謝もしているし、この家の使用人たちも親切な人間ばかりで、執事業務を教えてくれる関谷の事も尊敬している。  できることなら定年までここで勤めていたいと思っている。  そうしたいなら、雇用主への恋情は絶対のタブーだ。しかも陽人は同性の上、未成年だ。  陽人への想いを自覚してすぐに、陽人からも同じ想いが自分に向けられていることに気付いた。素直で純粋な陽人はその想いを隠すことなどできないのだろう。  しかし自分はその想いに応えることはできない。いつか陽人は幸せな結婚をして幸せな家庭を築く。その時、その家を守るのは陽人の執事である自分の役目なのだ。  龍澤は自分の思いを完全に振り切り、グラスを磨くことに全神経を集中した。 「陽人」  そろそろ招待客が集まり始める頃かと、玄関ホールの辺りでそわそわしていると、いつの間に到着していたのか長男の隼人が声をかけてきた。 「兄さん! お久しぶりです」 久しぶりに会う兄弟には、どんな顔をしたらいいか少し迷う。隼人がいつもクールなので、なおさらだ。嬉しい気持ちを押し隠してもじもじしていると、兄の後ろから琴美が顔を出した。 「陽人君、こんばんは。元気?」  兄と反対で、いつもにこやかな婚約者にホッとしながら挨拶を返す。 「こんばんは、琴美さん。いつも通り元気です。琴美さんは? 飛行機、疲れたんじゃないですか?」 「ううん、全然! ファーストクラスなんて、庶民はそれだけでテンション上がっちゃうのよ」  琴美の実家はごく普通のサラリーマン家庭だという。親戚の中には財産目当てじゃないかとか陰で言われているそうだが、陽人の目から見ると、明るくてさばさばしていてとても気持ちのいい人だ。兄ともお互いに想い合っているのが伝わってくる、いいカップルだと思う。  少し偏屈な面のある兄は、彼女を逃したら変な女に捕まりそうで、陽人は心の中でいつも彼女を応援している。 「隼人様、琴美様。お帰りなさいませ。ご無沙汰しております」  背後から響いた低い声に、陽人の胸がドキッと高鳴る。 「あ、龍澤さん…」  ふいに現れた龍澤に、琴美の表情が強張った。  これは向こうで相当きつく当たられたんだろうなと、気の毒になってしまう。  その甲斐があったのか、今日の琴美が着ている光沢のあるネイビーのドレスは、赤いリップとの相性も抜群で洗練されているように見えた。 「琴美さん、ドレス素敵ですね。すごくお似合いです」 「本当? ありがとう。私、センスに自信がなくて、隼人さんに見立ててもらったの」 「そうなんですか? 兄さん、センスいいね。な? 龍澤」  そう言って隣を見上げると、龍澤はいつもの調子で、「ええ。琴美様も、以前より洗練されたご様子で、大変、結構です」と返した。 「だから、偉そうなんだって!」  陽人はもう慣れたが、女性相手にこれはないだろうと慌てて肘で突く。すると、琴美は気分を害するどころか、嬉しそうに笑顔をこぼした。 「ふふ、ありがとう、陽人君。大丈夫。龍澤さんに悪気がないのはわかってるし、褒めてもらえて嬉しい」 「なんだか、龍澤も雰囲気が変わったな」  婚約者が嬉しそうにしていて、兄も気分が良さそうだ。普段は自分から使用人に雑談など持ち掛けないのに、珍しく声をかけている。 「そうね。少し表情が柔らかくなったみたい」  二人にジロジロ眺められて居心地が悪そうにしていた龍澤は、関谷に呼ばれたのをこれ幸いと、厨房の方へ行ってしまった。 「陽人も、ちょっと落ち着いてきたみたいだな」 「えへへ、そうかな」 「いや、やっぱり笑うと幼いままだ」  兄も珍しく笑顔をこぼし、次兄は悪天候で飛行機が飛ばずに今日は帰って来られないようだという情報を残して、父の元へ行ってしまった。 パーティーが始まると、次々訪れる招待客に挨拶をして回らなければならなかった。 ずっと龍澤が隣に付いて、めぼしい招待客を教えてくれる。全員の情報が頭に入っているのかと驚くと、当然で御座いますと、偉そうに返ってきた。 「陽人」  しばらくして、挨拶回りが落ち着いた頃、父親が声をかけてきた。 「あの馬鹿息子に声をかけに行くぞ」 「え?」  父親が顎で示した先には、陽人をクビにした、あのでっぷりとしたエリアマネージャーの姿があった。隣にいる似たような体型の男は彼の父親だろうか。だとしたらあの馬鹿息子を野放しにしている馬鹿親だ。  しかし陽人にはアルバイトの一件を父親に話した覚えはない。 「龍澤! お前、父さんに言ったのか⁉」 「ええ。報告しない理由は御座いません」 「ふふふ…。九条グループ会長のご子息に働いた無礼を、しっかり後悔させてやらないとな。その為にこのパーティーに招待したんだ」 「父さん、実の親がご子息って…」  相変わらずエキセントリックな父だ。不思議と龍澤とは気が合っているらしい。二人して楽しそうに親子へと近づいて行く。陽人も仕方なく後を追った。  父親が声をかけると、親の方が驚いてペコペコと頭を下げている。それも当たり前の事なのだろう。九条グループは、陽人がバイトしていたカフェを経営している企業とは、比べ物にならないくらいでかい。  でも、偉いのは陽人ではなくて陽人の父だ。勘違いするつもりはない。 「いや、息子さんが立派に育って、将来も安心ですね」 「とんでもない! まだまだ修行中の身でして」 「いやいや、なかなかご活躍されているそうじゃないですか。実は少し前に、うちの愚息が社会勉強としてそちらの店舗で働かせて頂いたんですがねえ」 「え⁉」 「情けないことに、先日、解雇を言い渡されたそうなんですよ。いや、ご迷惑をおかけして申し訳なかった。ほら、陽人」  名前を呼ばれて、気が進まないまま親子の前に立った。 「初めまして。九条陽人と申します。…先日は大変失礼いたしました」  頭を下げる陽人に、マネージャーは口を開けたまま茫然とし、隣に立つ社長は、そんな息子と陽人を見比べて冷や汗を流している。 「本当に申し訳なかったですね。一言お詫び申し上げておきたかったんですよ。それでは、今夜は楽しんで行ってください」 「失礼いたします」  戸惑ったままの親子に頭を下げてから、父親の後に続いてその場を離れた。 「これで、あの馬鹿息子も大目玉だろ。ああ、スッキリした」  父親は満足そうな様子で母親の元へと戻って行った。  隣の龍澤も晴れ晴れとした表情をしている。 「これで、私もスッキリ致しました」 「スッキリって…」 「陽人様。本来なら直接あの社長に圧力をかけることもできたんですよ。控えめな陽人様が嫌がるので、起こった出来事があの馬鹿息子の父親に伝わるように画策しただけで、何も後ろ暗いところは御座いません」 「わかった。わかったよ」  結局、何かやり返さなくては、龍澤も父親も気が収まらないのだろう。もう済んだことだと思って忘れよう。そう思って、もう一度あの親子がいた方を見ると、マネージャーがこちらを睨んでいるのが見えた。  陽人は思わず咄嗟に目を逸らす。今まで見たこともない陰湿な目だった。 寒気がするほどの。  無意識に、縋るように龍澤に身を寄せると、すぐに「どうなさいました?」と心配そうな顔で聞かれた。 「あいつ…、こっち見てない?」 「え?」  龍澤は機敏な動きで陽人を庇うように肩を抱き、そちらを確かめてくれた。 「…陽人様。一度部屋に戻りましょう」 「うん…」  部屋に戻る途中、龍澤はすれ違いそうになった城ケ崎にも声をかけて、同行させた。  もしかして城ケ崎を陽人に付き添わせ、自分はフロアに戻るつもりなのかもしれない。陽人は心細さのあまり、階段を上りながら縋るように龍澤のジャケットを掴んだ。 「少しの間、こちらでお待ちください」  陽人をソファに座らせ、龍澤は廊下に待たせていた城ケ崎の元へ戻った。ついさっきまで騒がしいフロアにいたせいで、室内の静けさが心細い。  陽人はゆったりとした二人掛けのソファの上で、小さく身を縮めて龍澤が戻るのを待った。 「陽人様。もう大丈夫ですよ」  それほど間を空けずに戻った龍澤は、大股で陽人の元へ来ると、安心させるように足元に跪き、ギュッと手を握った。 「城ケ崎をここに残して、行っちゃうのかと思った…」 「私がフロアを抜けても大丈夫なように、指示を出しておきました。私はずっと一緒にいますよ」  自分を心配している龍澤の態度に、勘違いをしてしまいそうだ。 「…あいつ、全然、反省してなかった」 「…ええ…。どうやら思った以上に頭の出来がよろしくないようですね。もう一度、こちらから釘を刺しておきましょう」  龍澤はいつになく優しい目をして、安心させるように握っている陽人の手の甲を、白手袋に包まれた大きな手で撫でた。  この男に、その腕に、自分だけが特別なのだと、包み込まれていたい。そう思うのが、恋心のせいなのか、先程の出来事への恐怖心のせいなのか、自分でもわからない。  わからないのに、陽人は衝動のまま龍澤に抱き付いた。逞しい男は跪いたまま、揺らぎもせずに抱き留めてくれる。 「陽人様…?」 「好き…」  陽人は龍澤の耳元で、絞り出すように想いを告げた。縋るように龍澤の背中に回した手が、わずかに震えていた。  無言のまま、身じろぎひとつしない龍澤に焦れて、陽人は身を起してその顔を覗きこんだ。  そして、自分が言ってはいけない言葉を口にしたのだということに気付く。龍澤はそれほどに困った表情を浮かべていたのだ。  陽人から視線を逸らし、眉間に皺を寄せながら、言葉を選んでいるように見える。 「…陽人様。私は陽人様の世話係で、ゆくゆくは陽人様の執事となる身で御座います」  とてもじゃないがいい返事が返ってくるとは思えない。  陽人は耳を塞ぎたい気持ちで、言葉の続きを待った。  龍澤は何かを決めたように唇を引き結び、ゆっくりと陽人を見た。  縋るように見つめる陽人の目に言葉を詰まらせたが、動揺が見えたのは一瞬だけだった。。 「執事は…、決して自分の主(あるじ)に恋心を抱いたりは致しません」  龍澤は、一度も陽人から目を逸らさずにそう告げた。  意志の強そうな瞳。男らしい眉。  この男が自分を愛してくれたらと、欲しくてたまらなかったその眼差しが、陽人を射抜く。震える手でその硬そうな頬に触れても、龍澤は拒んだりはしなかった。逆に、白手袋に包まれた手で陽人の掌を自身の頬に押し付け、愛おしそうに目を閉じた。途端にそこから体中に熱が駆け巡る。  なんて残酷な男だろう。今の行為で、龍澤の本心がわかってしまった。でも、陽人の気持ちを受け入れる気はない。そのことも分かっている。  陽人の目から涙が零れ落ちた。  この男が欲しい。手に入るなら、他には何もいらないのに。  涙は次から次へと溢れ出てくる。もう自分では制御できないほどに。こんなに好きになっていたとは自分でもわかっていなかった。  いつもの無表情で、龍澤がその涙を拭う。それでも冷たい人だとは思わない。顔に出さないだけで、龍澤もきっと何かを耐えている。  いつかのように、透明な滴は真っ白な手袋に次々と吸い込まれていった。 「陽人様…。私は一生、あなたのお傍におります」  龍澤の低い声が、苦しそうにそう囁いた。  そんな誓いなどいらない。陽人が欲しいのは使用人としての誓いではなく、恋人としての愛の囁きだった。  でも、それは叶わない。  だからと言って、今更、龍澤を失う事など考えられない。傍にいると苦しくて仕方がないのに離れられない。そんな自分たちの関係を、陽人は恨んでしまいそうだった。  目の前に跪いたまま、陽人の涙を拭い続ける龍澤も苦しそうな顔をしている。それだけが陽人の心を強くした。  きっと陽人が感じていた龍澤の甘い視線は勘違いではなかった。でも、その秘密を陽人が共有したいと願ったのは間違いだったのだ。  龍澤はきっと、その気持ちを生涯隠し通すだろう。たとえ陽人が結婚し、子供が産まれてもずっと仕えていく。そんな覚悟を決めている。それはきっと、今の陽人よりも苦しいに違いない。  陽人は、龍澤の掌と頬に挟まれていた自身の手を、そっと引き抜いた。そのまま手の甲でぐいっと涙を拭う。 「…こんな顔じゃ、パーティーには戻れないな」 「…何かお料理をお持ちしましょうか」  陽人の強がりに気付かないふりでそう提案する男に感謝しながら、陽人は弱々しく首を振った。 「お腹すいてないからいい。…もう、寝てもいいかな」 「ええ。皆様には、体調が優れないようだとお伝えしておきましょう」 「…伝えに行くのか?」  途端に心細くなってじっと見つめると、龍澤は無言でしばらく考えてから、携帯を取り出した。 「城ケ崎に伝言を頼みます」 「じゃあ、俺が寝るまでこの部屋にいてくれる?」 「ええ。お傍におりますよ」  龍澤の言葉にようやく安心して、陽人は寝間着に着替えてベッドに潜った。  龍澤は枕元に椅子を持ってきて、そこへ腰かける。 「…俺が二十歳になったら、一緒にお酒飲んでくれる?」 「ええ。以前、約束致しましたね。楽しみにしております」 「俺、お酒が入ったら龍澤を襲うかもしれないけど、それでも飲んでくれる?」 「……陽人様が私を押し倒すのは、ちょっと無理ではないでしょうか?」 「相変わらず、失礼な奴」  陽人が笑った事で、二人の間にあった緊張感が解れた。 「なあ、手、繋いでくれる? 今だけだから」  断られるかもしれない。それでもよかった。  もう泣きすぎてぼんやりした頭では、断られても傷つかないような気がした。  不自然な間が空き、やっぱりダメかと諦めた陽人は静かに目を閉じて布団を引っ張り上げた。すると、その手がふいにキュッと掴まれた。  驚いて目を開けると、すぐに龍澤が手元のリモコンで部屋の明かりを消してしまった。  龍澤の表情を確かめる間もなかった。きっとわざとだったのだろう。 「…ダメなのかと思った」  龍澤の返事はない。それでも陽人が眠るまでその手が離されることはなかった。今、龍澤は一体どんな表情を陽人に隠しているのだろう。  白手袋に包まれている龍澤の手が切ない。その一枚の薄い布が、仕えている側と仕えられている側を隔てる壁のようだ。  少しずつやってくる眠気に誘われながら、新しく落ちた涙を、布に包まれた指がそっと拭ったのがわかった。
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