執事と恋人

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陽人(はると)様」  背後からかけられた低い声に、九条陽人(くじょうはると)は小さな背中をビクッと震わせた。振り返らなくても、声をかけてきた人物が誰なのか、その落ち着いた低い声ですぐにわかった。 しかしその人物は現在、留学中の陽人の兄と一緒にイギリスに滞在しているはずだ。わずか四年という短い陽人の人生の中で、苦手な人ワースト一位に輝くこの人がどうしてここにいるのか、何と言ってこの場を切り抜けようか。陽人は小さな頭で一生懸命考えた。  そして、出した答えは『泣いてしまえ』だった。  今までこの作戦でうまくいかなかったことは一度もなかった。いつもは厳しい家政婦長も、普段は元気いっぱいで生意気な陽人がしゅんとしてみせれば、すぐに苦笑しながら許してくれる。  陽人は薄い肩を震わせながら、大きな瞳に精いっぱい涙を溜めて振り向いた。背後に立っている長身の男は怖い顔で陽人を見下ろしていたけど、陽人の涙を見ればきっとすぐに表情を緩めるはず。  しかし、男の顔にはいつまで経ってもわずかの変化も見られず、次にかけられた言葉も相変わらず低く冷たい声だった。 「そちらを、どうなさるおつもりですか?」  男が白手袋に包まれた掌で丁寧に『そちら』と示したのは、自宅玄関の広いエントランスホールに陽人が産まれる前から飾られているという、陶器の壺だった。もちろんそんな古めかしい壺など、陽人にとっては自分が幼稚園で作った粘土細工よりも価値は低いのだが、使用人が毎朝丁寧に磨いているのを知っていたので、何となくお父様が大事になさっているのだろうくらいの認識はある。  その壺をたった今、陽人はエントランスを走って横切ろうとしたせいで、飾り棚にぶつかって倒してしまったのだ。小さい割に重たい壺は、倒れても細かく砕けることはなく、文字通り真っ二つに割れてしまい、陽人は思わずその二つを両手に持ち上げ、くっつけてみたところで声をかけられたのだった。  もちろん接着剤も何もつけていない状態では、このまま飾り棚に戻しても再び真っ二つだ。どうしようかと途方に暮れていた陽人にとって、今の状況は最悪の一言だった。  もしも声をかけてきたのが家政婦長なら、陽人のこの泣き落としで、「仕方ないですね。私の方から旦那様にご報告しておきますので、もう二度とこんな事のないようにしっかり反省してくださいませ」と言われて終わるはずなのに。  今、陽人を見下ろしている龍澤(たつざわ)という男は、海外に留学している長兄の世話係で、この家で見かけるのは兄が帰省するバカンスの間くらいだった。しかし龍澤は顔を合わせるたびに陽人の姿勢や言葉遣いを注意してくるので、彼の発する「陽人様」という低い声が、陽人はお腹が痛くなりそうなくらい苦手なのだ。  そんな龍澤が、涙を浮かべたまま何も答えない陽人を、能面のような表情でずっと見下ろしている。もはやパニック状態の陽人は、頭の中が真っ白になってしまい、ただひたすらここから逃げ出したいと思っていた。  すると、龍澤は音も立てない優雅な動きで、陽人の前に片膝を立ててしゃがみこんだ。 「陽人様。私は怒っているのではなく、陽人様がこれからどうなさるおつもりなのかをお聞きしているだけで御座います」  聞き慣れている丁寧な言葉は、龍澤の口には馴染んでいるはずなのに、外見のイメージにはまるきり似合っていないと思う。パーティーに出かけた時や、級友の家に遊びに行ったときなどに他の家の使用人をたくさん見てきたが、彼のような厳つい風貌の人間は一度も見たことがない。どこの家の使用人も、皆、優しそうな雰囲気で、いつもにこやかに家人にも陽人にも接してくれていた。  しかし龍澤は違う。普段、会う機会もあまりないが、陽人が見たことのある龍澤は、いつも眼光鋭く周囲を見渡しニコリともしない。こうして陽人が答えに詰まっていても、他の使用人のように助け舟を出したりはしてくれない。  それでも目線の高さを合わせてくれたおかげで正面から見ることのできた龍澤の目は、思っていたよりも優しそうに見えた。それだけで、陽人の胸にほんの少しの勇気が芽生える。  陽人は恐る恐る小さな声を絞り出した。 「お、お父様に、謝りに行く…」  その時、龍澤の瞳が微笑んだように見えた。が、表情は全く変わっていない。もしかしたら陽人の見間違いだったのかもしれない。 「大変、結構で御座います」  陽人は驚いた。いつも厳しいはずの龍澤が、大事な壺を壊すという大失敗をした陽人を叱らなかったのだ。 しかもその夜、帰宅した父親に謝りに行く陽人に、龍澤が一緒に付いて来た。初めは見張りのために来たのかと思ったが、陽人が「ごめんなさい」と父親に謝ると、いつもは無口な龍澤が陽人のこの謝罪を褒め、父親に執り成してくれたのだった。    1  九条家は高級住宅街として知られる閑静な住宅地にある。  周囲には豪邸と呼ぶにふさわしい家がたくさんあるが、九条家は比べ物にならないほどの広大な土地の中に建っていた。建物の中でコンピューター制御されている門を抜けると、玄関の前は噴水を囲むロータリーとなっており、重厚な木の扉を開くと、中は艶やかなダークブラウンの木材と乳白色の壁紙で統一され、明治の頃を思い起こすクラシカルな趣でデザインされている。廊下と階段には落ち着いたローズレッドの絨毯が敷かれ、高級感を醸し出す。  外観も、その昔社交場として明治政府によって建てられたという鹿鳴館をイメージしているため、門の外を初めて通りかかった人は、この建物は一体何なのかと中を覗き込む。  そんな家を建てたのは何より社会的地位を欲し、見栄っ張りだったという、陽人の祖父だった。陽人が幼い頃に亡くなってしまったが、若くして興した会社を一代で大企業と言われるまでに成長させた祖父を、父も、そして陽人たち兄弟も心から尊敬している。この家を継いだ父は、最新のセキュリティーを取り入れながらも、祖父が愛したこの建物をできるだけ昔と変わらない形で残していこうとしているらしい。昔、陽人が割ってしまった壺も元々は祖父の物だったらしく、修理されて割れ目が全く見えなくなった状態で同じ場所に飾られていた。  そんな風に物を大事にする父の姿を知り、その壺を見るたびに陽人は正直に謝ってよかったと思っている。 「あ! 陽人様! どちらへ行かれるんですか⁉」 大学一年生になった陽人が広いエントランスホールを駆け抜けて玄関を出ようとしたところで、世話係の(じょう)(がさき)に呼び止められた。今年二十八歳になるという城ケ崎は学生時代に陸上部だったというだけあって足が速い。昔から、お稽古事が嫌で脱走しようとする陽人を、ものすごい勢いで追いかけてくるのがうっとうしくて仕方ない。今日だけはと、見つからないようにこっそりと自室を抜け出してきたのに、大失敗だ。 「ちょっと散歩!」 というのは嘘で、大学の級友に誘われて合コンに行くところだった。普段、習い事の多い陽人には夜遊びの誘いさえ滅多に声がかからないのだが、時々ランチを一緒にする同級生が、ドタキャンされて困っていると連絡をしてきたのだ。 本当は今日も家庭教師が来る日で、その上、父親から帰宅したら話があると言われたことはしっかり覚えている。 「ダメですよ! 今日は旦那様からお話があると言われていたでしょう!」  言いながら階段を駆け下りてくる城ケ崎に、「なるべく早く帰るから!」と言い残して玄関を飛び出そうとした。が、開いた扉の向こうを大きな人影が塞いでいて、陽人は慌てて立ち止まることになった。 「龍澤さん!」 「え…」  慌てて駆け寄ってくる城ケ崎の声に耳を疑う。  目の前に見えているのは、九条家に仕えている執事の制服である燕尾服。スレンダーな城ケ崎と違って逞しく厚い胸板から目線を上げると、夏休み以来、三か月ぶりに目にする冷たい視線が陽人を見下ろしていた。相変わらず無表情で何を考えているのか全く読めない表情に、陽人は委縮してしまう。体感温度が急に下がった気がしたのは、外から吹き込んできた北風のせいだけではないだろう。日本人にしては彫りの深い顔立ちが整い過ぎている分、無表情でいられるとまるでよくできた彫刻のようで、この人の身体にはちゃんと温かい血液が流れているのだろうかと思ってしまう。オールバックに整えられている艶やかな黒髪は、少し癖があるのか緩やかなウェーブがかかっていて、そこだけがかろうじて柔らかさを醸し出していた。 「…陽人様。以前から申し上げておりますが、家の中を走るのは感心致しませんよ」  見た目のイメージを裏切らない、人を威圧するような低い声も健在だ。  いつも通り、挨拶よりも早く炸裂する小言にムッとして、陽人は言い返す。 「城ケ崎だって、走って追いかけてきた」 「ちょ、陽人様…!」  狙い通り、龍澤の冷たい視線が陽人の背後に立った城ケ崎に移り、睨まれた城ケ崎は途端にぴっと背筋を伸ばした。その隙に逃げようとした陽人の行く手を阻むように、龍澤の身体が素早く横にずれる。 「陽人様。本日は旦那様からお話が御座います。外出はお控え下さい」 「す、すぐに戻ってくるし…」  ボソボソと言い返すと、龍澤の男らしい眉毛が片方跳ね上がった。 「よろしいでしょう。それでは私もご一緒させて頂きます」 「え⁉」 「何か不都合が御座いますか?」  鋭い視線で見下ろされ、陽人は何も言えなくなってしまう。たとえコンビニに行くだけだって、こんないかにも執事でございますみたいな恰好の男となんて歩きたくない。 仕方なく諦めた陽人は、「もういいよ」と言って龍澤に背中を向けた。城ケ崎はともかく、この男が相手では何を言っても頷いてもらえるわけがない。これ以上ここにいたら、関係ないことまでチクチクと叱られそうだ。 「陽人様」  自室がある二階に上がるため、階段に向かおうとした陽人に龍澤が声をかけてきた。無言で振り返ると、相変わらず何を考えているのかわからない無表情でこちらを見ている。 「家庭教師の先生がいらっしゃる前に、おやつに致しましょうか」 「…マックのポテト」  陽人の世話係は城ケ崎なのに、どうして龍澤がそんな事を訊くのだろうと思いながら、陽人は嫌がらせのつもりで答えた。途端に龍澤の眉間に皺が寄る。 「…陽人様。申し訳ありませんが、ファーストフードは…」 「じゃあ、いらない」  ファーストフードを子供に与えることを父親が禁止していることは陽人も知っている。期待していたわけでもなく、陽人はあっさり答えて階段を駆け上がり、家の中を走ったことを再び注意される隙を与えないよう、一目散に廊下を駆け抜けた。  九条家はその昔、華族として栄えると共に政界へと進出した一族だった。貴族制度が廃止された後も、親戚の中には政治の世界へ進む者が多い。陽人の父は祖父が起業した会社を継いでいるが、ゆくゆくは長男を会長の座に着かせ、自身も政界への進出を考えているらしい。  そんな風に由緒ある家柄のせいもあり、九条家は子供の教育に熱心な家庭だった。  今も守られている九条家のしきたりに、十歳の誕生日を迎えた男子に専属の執事を付けるという物がある。  執事と言っても、子供のうちは世話係兼教育係として常に一緒に過ごし、家を出て独立する時にようやく新しい屋敷の執事となるのだ。自然、長い年月を共にすることになるので、二十歳前後の若者が就くことが多く、いわゆる執事見習いという立場だ。陽人に付いている城ケ崎も、陽人が外出している間は父の執事である関谷(せきや)のサポートをしながら業務を教わっているらしい。  現在の九条家には、陽人を含め三人の兄弟がいるので、世話係も現在は三人。末っ子の陽人は大学に入学したばかりで自宅から学校に通っているが、兄たちは二人とも世話係と一緒に海外の別宅に住んでいる。二つ年上の次男は留学中。父の後継者である長男は、海外支社をあちこち飛び回っているらしい。  七歳上の長男は今年二十五歳になり、大学時代から付き合っていた恋人と婚約中で、そろそろ実家を出て新居へ移る計画も出ているらしい。そうなれば龍澤はその新居を守る執事となる。今更、一人でこの家を訪れる理由が、陽人には見当もつかなかった。 陽人は家庭教師が来るまでの暇つぶしに、夕日の差し込む窓辺に置かれたカウチに座って漫画を読んでいた。 二階にある陽人の部屋は、バルコニーに面したメインルームと、その奥に続くベッドルームとに分かれている。部屋の間に扉はなく、続き間となっている。 ルーフバルコニーからは広い庭が見渡せて、専属の庭師が精魂込めて手入れをしている素晴らしい景観が眺められる。 夏が終わり、北から吹く風が冷たくなってきたこの季節。部屋の中は常に快適な温度に保たれているが、九条家の広い庭では紅葉した木々が次々と枯葉を落とし、少しずつ冬の訪れが近付いていることを感じさせてくれる。 先程、合コンに誘ってくれた友人には断りの連絡を入れておいた。 謝る陽人に、友人はダメ元だったから気にするなと言ってくれたが、その声には呆れが混じっているような気がした。 陽人が通っているのは幼稚園から大学までエスカレーター式で進学できる学校だが、高校入学時と大学入学時には外部から受験して入学してくる学生がいる。その中には公立の学校から進学してくる学生ももちろんいて、いわゆる良家の子息、子女の多いエスカレーター組とは少し雰囲気が違う。今まで全く違う価値観の中で生活していた友人が新しくできるというのは、楽しくもあるが、引かれていることもあるような気がして少し寂しい。 あまり縁のないファーストフード店に寄り道してみたり、合コンという物に参加してみたり。やってみたいことはたくさんあるのに、禁止されていることの多さに、近頃は少しストレスも感じていた。 だから龍澤におやつのリクエストを聞かれた時、ついあんな無理を言ってしまったのは完全にただの八つ当たりだった。 「…お腹すいたー…」 手元から顔も上げずにぼそっと呟いた。自分でおやつはいらないと言ったのだから、この空腹は自業自得だ。しかしこの後、二時間の勉強時間が待っている事を思うと、キッチンに行って何か作ってもらった方がいいかもしれない。そんな風に考えていると、部屋の中に扉をノックする音が響いた。「どうぞ」と答えると、給仕用ワゴンを押した城ケ崎が入ってくる。 「陽人様、お腹が空いたでしょう? マックのポテトはダメですが、こちらはいかがですか?」 「え、フライドポテト?」 「ええ、手作りのフライドポテトでございます」 「うそ、やった! ちょうど腹ペコだったんだ~」  城ケ崎がテーブルにセッティングするのを見ていると、美味しそうな匂いが漂ってくる。テーブルの上を覗きこみながら「おいしそう」と呟くと、城ケ崎は何故か面白そうに笑った。 「いただきます!」  元気よく食前の挨拶をしてから、熱々のポテトをフォークで口へ運ぶ。  外はカリカリ、中はホクホクの揚げたてで、口の中には塩味だけではない風味が広がった。 「うまっ。なにこれ。何味?」 「アンチョビだそうですよ」 「へ~」  普段、お上品なフランス料理やら日本料理やらを作っている当家のシェフも、こんな酒のつまみのような物が作れるのかと感心した。 「こっちの、のり塩も美味しい。明日のおやつもこれがいいな」  陽人は気に入った物を、飽きるまで繰り返し食べる癖がある。またですかとシェフには笑われるだろうが、それでも構わないくらい美味しい。  陽人は我儘で子供っぽい面があるが、しっかりしつけられている金持ちの子供らしく、素直でまっすぐだ。おやつはいらないと言ったからと意地を張ることもないし、自分が美味しいと思ったら作ってくれたシェフにも伝えたい。 「それでは、ご自分で龍澤さんにお願いして作ってもらってください」 「え…?」  まさかと思いながら、楽しそうな城ケ崎の顔と、フォークに刺したポテトを見比べてみた。 「そのポテトは龍澤さんがお作りになったんですよ。それはもう見事な手際で、私もびっくりしてしまいました」 「…嫌味なくらい、なんでもできるな」  素直な陽人だが、龍澤だけは苦手なのだ。あの仏頂面にまた作ってほしいとお願いするのは、少し抵抗がある。小さい頃から顔を合わせてはいるものの、実際にどんな人物なのか良く知っているわけではない。恐らく問題児だと思われている陽人のおねだりを、龍澤は快く受けてくれるのだろうか。 これもまたお坊ちゃんらしく打たれ弱い陽人は、お願い事を断られるだけで傷ついてしまうだろう。でも、陽人の為にこのポテトを作ってくれたことに違いはないのだから、お礼は言うべきだと思う。  もちろん嫌がらせのつもりで言ったリクエストだった事を考えると、やはり気まずい。一体なんて言って感謝を伝えたらいいのかと悩む陽人にお構いなしで、城ケ崎は深く頷いている。 「本当に、非の打ちどころがない人ですよね。仕事も完璧なのに、料理までできて。ハンサムで燕尾服が似合っていて」 「城ケ崎だって、イケメンじゃん」 「…陽人様。私はイケメンと言われるのは軽薄な印象を受けるので、あまり好きではありません。龍澤さんみたいに色男と言われるのが似合うような男になりたいものです。…燕尾服も似合うように」  城ケ崎は、燕尾服が似合わないのが悩みらしい。成金趣味の祖父の代から、九条家の執事のユニフォームはずっと燕尾服から変わらない。ウィングカラーの白シャツに黒のジャケット、グレーのベストとスラックス、胸元に黒のアスコットタイという伝統的なスタイルは、確かに細身で童顔の城ケ崎が着ていると、身体に染み付いている優雅な身のこなしを知らなければ、まるでコスプレのように見えなくもない。  それが龍澤のように厳つい雰囲気と逞しい体躯を持っていると、やはりしっくりくる。逆に父の執事の関谷も細身なのだが、今年七十歳になるという彼は、艶やかに撫でつけられたグレーヘアのせいか、それはそれでベテランの老執事という風情で似合っている。 「そういえば陽人様も…、大学入学時のスーツ姿は…」 「うるさいな!」  大学入学時に仕立ててもらったスーツの似合わなさは、掘り返されたくない記録だ。  子供たちの節目の際には必ず家族撮影をしている九条家の習慣で、そのスーツを着用した写真もしっかり残っている。そこに写っている陽人は、我ながら童顔で、大学入学記念というより高校入学記念のようだった。夏休みに集まった家族は再びその写真を開き、もうその写真は見たくないと嫌がる陽人を面白がって、可愛い可愛いと囃し立てた。  それでも仕立ての際には、どんな生地を試してもしっくりこない陽人の為に、父親と一緒に一流のテーラーが頭を悩ませながら作ってくれた一着なのだから、似合うようになるまで大事に取っておくつもりだ。せめてもう少し骨格がしっかりして、もう少し目線が鋭くなって、もう少し髪も硬くて、もう少し声も低く…。どうしたらスーツが似合うようになるか考え始めると際限がなくなり、ここまで変わったらもう別人だと気付いたところで考えるのをやめるというのが常だった。 「成人式までに、もう少し大人っぽくなられた方がいいですねえ」 「お前だって童顔だろ!」  こんな風に言い合えるのは、陽人と城ケ崎が仲良しだからだ。十歳も年が離れているのに、不思議と気が合う。初めて会った時、「陽人様、これから仲良くやっていきましょうね」と、優しく笑ってくれた城ケ崎にひどくほっとした覚えがある。 雇い主の息子と使用人という立場で、こんな風に兄弟喧嘩のように言い合う姿を父親あたりが見たら、恐らくいい顔はしないだろう。しかし陽人は、自分の教育係が城ケ崎でよかったと思っている。もしも龍澤みたいなタイプの教育係が朝から晩まで隣に張り付いていたら、さぞストレスを感じていたに違いない。  しかし、城ケ崎との楽しい生活はこの日が最後になってしまった。  帰宅した父に書斎へ来るように呼ばれたのは、もう二十二時を回りそうな時刻だった。これならやっぱり合コンの一次会くらい参加しても間に合ったじゃないかと、陽人は面白くなかった。しかも父親からの話は、陽人の機嫌をさらに悪くするものだった。 「えっ⁉ 何それ」  父親の言葉に目を見開いたまま城ケ崎を見ると、気まずそうな顔で目を逸らされた。その態度で、城ケ崎は知っていたのだとわかって、余計に面白くない。 「簡単なことだろう? 龍澤と城ケ崎が交代するだけだ」 「交代って…。どうしてですか? もうすぐ兄さんもこの家から独立すると聞いています。だったら慣れている龍澤が一緒にいた方が…」 「いやあ~…、なんか今の組み合わせだと、絵にならないんだよなあ」 「はあ?」 「片やいつも厳しい顔している隼人(はやと)と無表情な龍澤。片や幾つになってもやんちゃな陽人と童顔の城ケ崎。な?」 「な? って言われても…」  こんな風に父親の気分や直感で命令が下されるのは珍しいことではない。そして大抵、その直感は良い方に転がるので、よほどでなければ素直に従う。  しかし今回は、しきたりに逆らって長男と三男の教育係を交代させるなどという、わけのわからないアイディアをすぐには受け入れられない。しかもその交代の理由が見た目のバランスだと言う。 「でも、俺たちにだって、今まで築いてきた関係があります。城ケ崎を信頼してるし、今更…」 「うーん、ちょっとそこに並んでごらん」  父親に難しい顔で言われて、陽人は戸惑いながらも城ケ崎の隣に立った。 「じゃあ、城ケ崎と龍澤、交代してみて」  言われて、陽人の隣に龍澤が並ぶ。いつも城ケ崎が立っている位置に、長身でがっしりした男が立つと、それだけで威圧感がある。無意識に一歩離れようとした時、父親がパンッと手を打った。 「よし! やっぱりこれだな! この方がしっくりくる!」 「な、ちょ、そんないい加減な…」 「いい加減?」  父親の表情が急に不機嫌そうに顰められ、陽人は口を噤んだ。完全に失言だった。 こうなってしまえば、父親は何を言っても陽人の意見など歯牙にもかけなくなる。普段は末っ子の陽人に甘い父親だが、実は根っからの独裁者だ。最終的には自分のやりたいようにやる人だった。 「俺の判断が間違ったことがあったか? 話は終わりだ。龍澤、部屋に下がらせろ」 「畏まりました」  優雅に腰を折る龍澤の姿を、陽人は憮然としながら見ていた。 「さあ、陽人様。部屋に戻りましょう」  促すように背中に触れられて、城ケ崎よりも大きな手にドキッとする。陽人の薄い肩など、片手だけですっぽり隠れてしまいそうだった。  これからの動きを父と相談するという城ケ崎を残して廊下に出ると、ちょうど階下から「奥様、お帰りなさいませ」というメイドの声が聞こえてきた。陽人は慌てて階段を駆け下りる。 「母さん!」 「あら、陽人。ただいま」  着物を着て出かけていた母はご機嫌だった。  少しお酒が入っているようで、年の割に若々しい頬がほんのりと赤く染まっている。 「お帰りなさい。ねえ、今、父さんが…」 「ああ、もうお話聞いたのね? ふふ、やっぱり似合うわね、あなたたち」  母の言葉に陽人は目を見開いた。陽人の後ろにはすぐに追いついて来た龍澤が並んでいる。  本当にそんな理由で、しきたりに例外を作るなんて。 「似合うって、そんな事で教育係交代するの? 兄さんは何も言ってないの?」 「それがねえ、琴美さんが怯えちゃってるらしいのよねえ、龍澤に」 「え?」 「琴美さんの言葉遣いとか服装とかにダメ出ししたんですって?」  母親が困った顔で龍澤を見上げた。琴美さんというのは、兄の婚約者の名前だ。なるほど、見た目の問題などと言われるより、よほど納得のいく理由だ。本当はこちらの理由がメインなのだろう。 陽人も母親につられて見上げると、本人は悪びれもせず澄ました顔で立っている。 「九条家の奥方となる以上、それなりにきちんとして頂かないと、隼人様が恥をかくことにもなりかねませんので」  上背があって姿勢が良い分、そんな風にツンケンしていると偉そうに見える。そんな調子で上から諫言されては、さぞ威圧的に見えたに違いない。陽人は何度か会ったことのある未来の義姉に同情した。 「どうせまた偉そうに、その服装では隣を歩く隼人様が恥をかかれてしまいます、とかなんとか失礼なこと言ったんだろ」 「間違ったことは申しておりません」 「その言い方が問題なんだよ」 「改善されれば、褒めて差し上げます」 「結構で御座います、って? それも偉そうなんだって」 「…大変、心外で御座います」  今までは龍澤の前では大人しくしていた陽人だったが、四六時中一緒にいるようになるなら、そう簡単に言い負かされてはいられない。  二人で言い合っていると、横から「ふふっ」と声が聞こえてきた。そちらを見ると、母親が楽しそうに笑っている。 「龍澤ったら、なんだか隼人と一緒にいた時より楽しそうじゃない?」  母親の言葉に驚いて龍澤に視線を戻すと、相変わらず仏頂面の男は否定するでもなく目を伏せた。 「……隼人様は、大変優秀でいらっしゃいましたので」 「どーいう意味だよ!」  憤る陽人を尻目に、二人は「これからは陽人をよろしくね」「畏まりました」などと言って、話を纏めてしまった。 部屋に戻ると、陽人はいじけてベッドにうつ伏せた。それは一緒に付いて来ている龍澤に対する抗議でもある。 「陽人様。そのまま眠られてはいけませんよ」  この小言をこれから毎日聞くことになるのかと思うと、憂鬱でしかたなかった。  城ケ崎だっていつも、「陽人様、ちゃんと着替えてくださいよ」とブツブツ言っていたが、言い方がソフトなせいか、ストレスには全くならなかった。きっと兄の婚約者とも上手くやっていけるに違いない。  その城ケ崎は龍澤の事を非の打ち所がないなどと評していたが、龍澤の欠点は偉そうに見えるところだと陽人は思う。それに偉そうな言い方。偉そうな態度。総合すると、偉そうなのだ。  そんな風に頭の中に愚痴を並べていると、近くから「陽人様」と呼びかける低い声が聞こえてくる。 「…相変わらず、子供の様にお可愛らしくていらっしゃいますね、陽人様は」  返事もせずに寝たふりをしたところ、突然そんな風に言われて、陽人はすぐには言われた意味が理解できなかった。そして理解した瞬間、ガバッと起き上がる。 「お前、俺の事馬鹿にしてるだろ!」 「とんでも御座いません。さ、こちらにお着替え下さい。入浴は朝になさいますか?」  怒りをサラッと流されて、余計に頭に血が上る。 「今、入ってくる!」  悔しかったが、陽人は龍澤から逃げるために部屋を出てバスルームへ向かった。  これからずっとこんなギスギスした毎日を過ごすのかと、陽人は憂鬱で仕方がなかった。
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