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今日の僕はついてない。
寝起きにトイレのドアで足の小指をぶつけた。コップに注いでいた牛乳をこぼして、お気に入りのラグにぶちまけた。そのうえ、ご飯が遅いと催促しにきた光太郎からは前足の爪で引っ掻かれた。
最近の光太郎はいつも機嫌が悪い。
去年、去勢を済ませてから、すっかりヤンチャぶりが鳴りを潜めたと思っていたが、今度は意地悪になった。
人間の都合で、オスの大事な部分を取り除いてしまったことは申し訳なく思う。だけど、僕のシャツで爪をといだり、由哉の帽子を隠したりするのはやめて欲しい。
靴にひとつかみの猫砂を入れられたこともあった。足の裏の不快な感触はちょっと忘れられない。
僕の不注意や光太郎のイタズラはともかくとして、本日最大のストレスの原因は『彼女』だ。
よりにもよって、今日は三回も会ってしまった。朝、燃えないゴミを捨てに行って遭遇し、その足で歯医者に出かけ、帰る時にまた会った。
午後、今度こそと気合いを入れて家を出れば、エレベーターホールを清掃中の彼女と目が合う。いまさら、無視もできない。
厄日だ。天中殺だ。今日の僕は本当についていない。
「おたく、家の中でネコちゃん飼ってらっしゃるのかしら?」
うしろで引っ詰めた髪に三角巾を結んだ彼女の頭が、かすかに揺れる。
「え……あ、はあ」
どうして、彼女がその情報を知っているのだろう。
鳴き声がうるさいと、隣人から苦情でもきたのか。だが、光太郎はイケズはしても、騒がしくするタイプではない。もしくは、僕が出したゴミ袋からキャットフードでも見つけたのか。この女なら、そのくらいやりかねない。
それとも、迂闊な由哉が光太郎を抱いて外を歩く姿でも見かけたのか。
室内で小動物を飼育することは、このマンションの規約違反ではない。彼女に文句を言われる筋合いではない。
「いえね、ズボンの膝のところに白い毛玉がついてるから」
「あ、ああ」
普段は光太郎の毛がついていないか、確認してから出かけるのだが、今朝は寝坊気味で慌てていたので、チェックし忘れていた。
膝小僧部分の毛を摘まみ、その場に捨てようとしてハッとした。
モップ片手の彼女がこちらを見つめている。僕は舌打ちしたい気持ちをこらえて、光太郎の毛をポケットの中のティッシュに包みこんだ。
「それと、アンケートの提出がまだなので、お願いします」
「アンケートって、締め切りが日曜日のですよね」
「はい、それです」
今日はまだ水曜日だ。彼女に催促される筋合いはない。
「……わかりました」
明日は彼女が来ない木曜日。毎日が木曜日ならいいのに。こうやって、なにかと絡んでくる人がいると思うと、ちっとも気が休まらない。
「いってらっしゃいませ」
締め切り前に督促するくらい失礼なくせに、こういう時だけ妙にへりくだってくるので気持ち悪い。振り上げた拳を下ろす先がなくなったようで、ますます苛立ちが募る。
「……いってきます」
どうでもいいアンケートの催促とか、舐められているとしか思えない。
僕がもっとガタイのいい強面だったり、貫禄ある紳士だったら、こんな目には遭わないだろう。
若いから、彼女に足元を見られる。学生にも見えないのに、平日の昼間からウロウロしている男だから見下される。気安く話しかけてもいい存在だと思っている。
彼女は、僕に興味を持っている。
いや、正確に言えば由哉が気になり、由哉とともに暮らしている僕のことが気にかかっている。だが、賃貸マンションでもないので、同居人について詳しく問いただすわけにもいかず、彼女の好奇心はいやが応にも疼いて仕方ないのだろう。
部屋の名義は由哉のものであり、僕はただの、居候に過ぎない。
僕と由哉の関係について、彼女に正面から問いただされたことはない。
仲のいい友達、年の近い従兄弟、もしくは田舎から出てきた親戚、どれかだと思っているだろう。兄弟にしては顔も体格も違いすぎるが、親戚なら言い張れそうだ。もしくは、由哉のマネージャー? それにしては生活時間が違いすぎる。
いや、きっと、そうではない。
彼女は勘ぐっている。だから、興味津々で、なにかと僕に話しかけてくるのだ。貪欲な爬虫類のように、面白いネタがないかと僕らの身辺を探ってくる。
心底ウンザリする。話しかけないでほしい。
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