夜のとばりの裏側で

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 はじめに視線が、それからゆっくりと顔がこちらに向いた。うっすらとしたほほ笑みが、大翔の顔から薄紙をめくるように消えてゆく。苦い薬を口に入れたように眉が寄せられ、その下の瞳が困惑に揺れている。  どうかしたのか、と尊琉がつぶやくと、唇の動きに呼応するように大翔は顔をゆがめた。無理やり笑顔を作っているのがはっきりとわかる、泣きそうにすら見える。  さっきまで掴んでいたビール缶を脇に置き、ためらいがちに腕が伸ばされる。節のある指が近づいてくる。指をそろえた大きな手のひらが、目隠しするように尊琉の視界を覆い隠した。指が触れている額と鼻から大翔の体温がじわりとしみこんでくる。香水なのかハンドソープの残り香なのか、体温に溶けたかすかな匂いが鼻腔から染み通りお酒とは別の酩酊をもたらせた。 「なんて目をしてるんだよ......そんなに好みだって言うなら止めないけど......」  呆れたような、揶揄うような大翔の声が尊琉の心に刺さった。「好みなんかじゃない」と顔を覆っていた手をよけると、大翔は怪訝そうな表情でこちらを見ていた。遠ざかってしまった、その香りと体温がやけに生々しく残っている。  尊琉は首を横に振った。サキが気に入ったわけじゃない、大体男だろ? そんな一言ですむのに言葉は頭の中にとどまっていた。自分が何を否定したいのか分からなくなってきた。今気が付いたばかりの感情が身体の隅々に溶け出してゆく。それが大翔に伝わらなかったことが悔しくて、叫びだしたいのに理性がそれを押しとどめる。 「……この国だと、そういうの、結構オープンだって聞いてたけど本当なんだと思っただけだ」  できるだけなんでもない振りをして言葉を振り絞った。カウンターの方に顔を向けていた大翔は、そのまま顎を上げて目を細めた。わざとこちらを見ないようにしているようだった。 「ああ、そういうこと? 文化的なのか宗教的なものなのか詳しくは知らないけど、綺麗に生まれたらそれを活かして生きて行くのが認められてるみたいだよな。まあ、やるんなら血液検査の結果を聞いてからにしておけよ」  淀みなく一息でたたみかけるように返された。苛立ちを含んだ、とげのある声色だった。大翔は横目でこちらを見て、なぜか唇の片端をあげてから視線をそらした。わざとかみ合わないようにされた会話が、尊琉の気持ちをカリカリとひっかいてゆく。  綺麗……確かに綺麗だったけれど、心を動かされたわけではない。 「……だったら……いいのか」 「え?」 「大翔は、あれくらい綺麗ならいいって思うか? 綺麗なら……ことだってありなのか」  声がかすれた、尊琉が今まで飲んだビールの酔いを差し引いても、唐突すぎる質問だった。気づけば大翔は、眉を寄せて尊琉の顔をまじまじと見ていた。 「尊琉、お前なに言ってんだよ」    大翔の声が震えたような気がした。気まずい空気が二人を包む。  ここが、日本でないことがせめてもの救いだった。二人の会話は、二人だけのものだ。暑い夜と冷えすぎた店内の清濁併吞の空気の中で、すべてをうやむやにしてしまえる。沈黙している男二人を気に留める客はほとんどいない。  大翔がもう残っていないはずの缶をあおった。飲もうとしているのは自分じゃないのに、アルミの硬質な穴からわずかに流れ込む苦い滴が口の中に広がったような気がした。  机の上で変な音を立てて缶が潰される。大翔は怒りを押し殺しているように見えた。 「さっきも言ったけど、あいつは男だ。女だったらって話か? 大体、そんな物欲しそうな目つきして、お前がしたいんじゃないのか」 「物欲しそう、って何だよ、あの子と……って訳じゃない」 「じゃあ何が言いたいんだよ。ああ、ほかの男とセックスしたいってことか?」  空気がとげとげしくなり、大翔の荒々しい感情が伝わってくる。腕に力が入っているのか、筋が浮かんでいる。 「僕は、ただ……」 「ただ、何なんだよ。男相手にできもしないくせに、さかってんのは誰だよ」  言葉でなじられて、怒りに満ちた目で見られているのに尊琉は自分の体の奥が熱を帯び始めるのを感じていた。ダウンライトの下で、身体も心もねじ伏せられそうだとさえ思った。圧倒的な感情と、安全装置が外れると同時に襲いかかってきそうな気配。何よりもそんなポテンシャルを内に押しとどめている肉体の強さに興奮していた。
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