1.印象が薄い

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1.印象が薄い

軽く緊張しながら目の前の先輩の背中について行く。 「おはようございまーす」 前を歩いていた大川(とおる)さんが引き戸を開けて大きな声で挨拶をした。 厨房の中は何かの合図のブザー音や水音、たくさんある大型冷蔵庫のモーター音、ミキサーの駆動音などのさまざまな音が溢れかえっていた。 融さんは俺を手招きして奥の調理台の前にいた50代後半くらいの小柄な飄々とした風情のおじさんの所に連れていく。 「ムッシュ、新しいバイトの子です。あっくん、料理長の佐藤さんだ」 イタリアンのお店なのにムッシュなんだ。フランスなのかイタリアなのかどっちなんだよと心の中で突っ込んだ 「森本篤也です。よろしくお願いします」 頭を下げるとちょびひげを蓄えて柔和な顔をしたおじさんは目を細めて 「あー今日からだった?料理長の佐藤です。よろしく」 と高校生の俺にも丁寧にあいさつしてくれた。 ムッシュ=料理長ってことはこの厨房の中で一番偉い人なのだろうに、物腰が柔らかくて少しも威圧感がしない。それだけでこの新しいバイト先が良いところである予感がした。 「店長は事務所にいたよ」 料理長に言われて融さんと事務所に行けば、こちらは30代半ば位のちょっと押しの強そうなイケメンに紹介された。この前最終回だったドラマに出ていた人気俳優にちょっと似ている。 「森本です。よろしくお願いします」 「店長の久保田です。よろしくね。」 シフトの説明を簡潔にされて必要事項を記入して後日提出するように何枚かの書類を手渡された。 「厨房のバイトリーダーは大川君だから詳しいことは聞いて。ここまで何か質問ある?」 テキパキと話すと俺の顔を正面からじっと見てきた。すごく仕事できる感がある。 「今のところは特に思いつきません」 見すぎだろう、と思いながら答えると視線を外さないままフッと笑って 「可愛い系だな」 とわけのわからないことを言った。 いや、わからないわけではない。俺はどうやら母親にそっくりらしく子供の頃はよく女の子みたいとか言われることが多くて少し嫌だった。中学に入ってからは普通に成長してそんなことを言われることもなかったので久々のもやっとした感覚だったが特に小柄でも華奢でもないので別に女子みたいという意味ではないだろう。俺がリアクションに困っていると 「制服と帽子は更衣室にあるから。大川いろいろ教えてやって」 笑った顔のまま言った。笑顔だとちょっとチャラい印象だ。っていうか女性に手が早そうな感じ。モテそうだし。いや、初対面の知らない人に勝手な感想すぎか、すみません。心の中で謝る。 融さんは俺の高校の3コ上の先輩で、幼なじみの(かける)の兄貴だ。地元の大学に通っていて、このイタリアンレストランの厨房で高校の時からバイトをしてもう5年目のベテランだ。ほかの高3生のバイトの人が受験でやめたので俺に声をかけてくれた。前のバイト先の洋食屋が閉店して暇にしていたのを知っていたからだ。 イタリアンレストランBianco園崎店は俺が住んでいる地方の政令指定都市のホテルのレストラン直営チェーン店で、厨房には4人の料理人と3人の昼の主婦パート、5人の夜と土日の学生バイトが交替でいる。 ロッカールームに行くと一番奥のロッカーを開けて制服を渡された。 「いちおうここがあっくんのロッカーね。下はジーンズでもなんでもいいから上はこれ着てこのサロンエプロンして。基本俺らはホールに出ることはないからこの長靴はいて。紙帽はここから毎日新しいの出してしっかりかぶって髪隠して。あと洗い場ではこのゴムエプロン使って。」 融さんは俺のことを赤ん坊の時から知っているのであっくんと呼ぶ。バイト先でそれはいいのかと思うがよくわからないので特に訂正はしない。そのまま二人で着替え、タイムカードを押して厨房に戻る。 「ホールの人への紹介は閉店してからするね。先に厨房の他の人たちに挨拶しよう」 奥の方に連れていかれると、さっきの料理長の他におじさんとお姉さんがいた。山口さんと紹介されたずんぐりした体形のアラフィフっぽいおじさんはすこし気難しそうな感じで、その隣でデザート、じゃなくってドルチェをやっているのが渡辺さんというぎりぎりお姉さんという感じの人懐っこそうな、やはりぽっちゃりした体形の小さな人だ。 「よろしくお願いします」 あいさつして頭を上げるとチャンバー(冷蔵庫)から男の人が出てきたところだった。他がみんな小柄だったのでいやに大きく見えるその人は180ちょいくらいの身長だろうか。痩せ型で威圧感はないが10cm以上うえから無表情に見下ろされると落ち着かない。何回目かの 「森本です。よろしくお願いします」 の挨拶をすると 「佐藤です。よろしく」 と返された。え?佐藤さん?料理長の親戚かなにかかな、と思っていたら 「別にムッシュとは親戚とかじゃないから。ややこしいからみんな政樹さんって下の名前で呼んでるからあっくんも政樹さん呼びで慣れて」 と融さんに言われた。えー、初対面のかなり年上の人を名前で呼ぶのは抵抗があるなー、と戸惑っていると顔に出したつもりは無いけれど 「あっくんって呼ばれてるんだ?俺もあっくんって呼ぶから遠慮しないで下の名前で呼んでくれていいよ」 と面白いものでも見るように言われた。ちょっと年齢のわかりにくい人で顔の印象もつかみどころがない。ぼんやりしているのとも違うが、表情がわかりにくいのだ。整っているようなそうでもないような造形も相まって記憶に残りにくいのに印象だけが残る、みたいな微妙さだ。 今日は平日の夜なのでバイトは二人だけだという。 「とりあえず今日は食器と鍋をひたすら洗ってもらおうかな」 作業の手順を教えてもらっているうちにディナータイムのオープンを迎えた。 まず下準備に使った鍋や調理器具をひたすら洗っていると次々と前菜の皿から順番に返ってくる。前のバイトが洋食屋だったので全く初めてではないが、慣れないレイアウトや高価そうな食器に緊張しながら夢中で目の前の仕事をこなしていくうちに21時半のオーダーストップを迎えた。まだまだ返ってくる皿を黙々と洗浄機にかけていると 「10時だからあがって」 と声をかけられた。18歳未満なので仕方ない。残った分は最後まで片づけることになっている融さんにお願いした。タイムカードを押してロッカー室に行こうとすると渡辺さんに声をかけられた。 「おつかれさん!どうだった?疲れたでしょ。ごはんあるから食べていこうね」 と事務所兼休憩室に連れていかれた。ランチとディナーの間のアイドルタイムにはちゃんとした賄いが出るのだが閉店後は簡単な軽食をもらえると聞いていた。 融さんとホールの人たちの分を残して俺の前に軽食とは言えない結構な量の料理が置かれて思わず顔を上げると、佐藤料理長が 「年を取ると10時過ぎてそんなに食えないんだわ」 と押し付けるように寄こしてくれる。俺の事情を知ってるんだな、と察し、ありがたく頂くことにした。 「あっくんどう?やっていけそう?」 渡辺さんがもぐもぐしながら聞いてくる。 「夢中でよくわかりませんでしたけど、がんばって続けていきたいと思います」 と答えると 「前のところも洋食だったんだろ?勘はいいんじゃないの?」 と仏頂面の山口さんが言ってくれて思わず肩の力が抜けていく。 「ありがとうございます」 答えながら顏が熱くなってあげられない。いい人ばかりのところでよかったと思うのだけれど、俺の呼び方があっくんで定着しそうだ。あとひと月で17歳になるのに今更あっくん呼びかー、とは思うが悪い感じではないので黙って返事をしていた。 食べ終わった食器を厨房に持っていくと融さんが疲れを滲ませつつも笑顔で 「おつかれー!」 と皿を受け取ってくれた 「なんかすみません」 と頭を下げると 「いいよいいよ。あっくんが頑張ってくれたおかげであんまり残ってなかったからもう終わりだし、これも俺の時給のうち!高校生は早く帰って寝ろ」 と追い出されてしまった。 着替えて帰ろうとするとホールの片付けを終えた店長とちょうど出くわした。 「間に合ってよかった。ちょっと遅くなっちゃうけど時間もらえる?ごめんね。」 ともう一度事務所へ連れていかれて今日のホールのメンバーに紹介された。学生っぽい女子が多いが店長の他に社員の若い人が1人と退職後の嘱託のおじいちゃんが一人いた。 「お先に失礼します」 ホールの人たちと融さんに挨拶してチャリに乗って家に帰ると11時過ぎていた。 「ただいま」 玄関の灯がついている。今日は母さんの方が早かったんだ。リビングに行くとちょうど風呂に行くところの母さんがいた。 「あ、おかえり。けっこう遅いんだね。どうだった?」 心配そうに聞いてきた。 「いい人ばっかりでやっていけそうだよ。今日は初日だからこんな時間だけど次はもう少し早く帰れると思う」 早く風呂に入るように促しながら答えると 「ごはんは?」 と聞かれ 「もらった。今めっちゃ腹いっぱい」 と腹をさすってみせる。安心したように笑って風呂場へ消える背中を見送って冷蔵庫からスポーツドリンクを出してぐびぐびと飲んだ。7月の厨房は冷房がかかっていてもかなり暑い。今日はずっと洗い場だったのでゴムエプロンの中は蒸れて汗びっしょりだった。次からは汗拭きシートを持っていこう。 ソファでテレビを見ながらウトウトしているとトントンと頭をつつかれて起こされた。 もう湯船に浸かるのも面倒で、シャワーで済ませてあがってしまうと、もう一度スポーツドリンクを飲んで部屋に入るなりベッドにダイブした。 「あー、宿題」 ぼんやりした頭で考えると誘惑に負けそうになる。ダメだ、気力を振り絞って…スマホのアラームをいつもより一時間早い6時にセットした。とたんに引きずり込まれるように眠りに落ちかかる。体がずぶずぶとベッドに沈むような感覚だ。眠りに落ちる瞬間今日知り合った人たちの顔が次々と浮かんだ。ホールの女の子たちはみんな可愛かったなー、ビジュアル重視でバイト取ってんのかなー、とか考えて。ただ、なぜか政樹さんの顔だけがあいまいなぼんやりしたイメージで、どんだけ印象薄いんだあの人、と突っ込みを入れながら意識を手放した。
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