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5.夜の海で
8月になり俺は18歳の誕生日を迎えた。母さんと姉ちゃんが誕生日プレゼントだといって俺専用のパソコンを買ってくれた。高価なものだと気にすると
「これからは必要になるからね。篤也が推薦取るために頑張ってたの知ってるから。校内推薦決まったお祝いも兼ねてだよ。エロ画像ばっか見てないで勉強や就活に使うんだよ」
姉ちゃんが笑いながら言うから
「エロ画像なんか見ねーし。でもうれしい。ほんとにありがと」
心からお礼を言った。3歳になる姪はたぶん俺を描いたのであろう絵をくれたし、駆からも欲しかったCDをもらって祝ってもらった。その週の次のBiancoの定休日、俺の誕生祝を政樹さんと店長の二人でやってくれると言って焼肉屋に連れて行ってくれるということで学校から一度家に帰って着替えていると家まで政樹さんが迎えに来てくれた。丁度夜勤に出かけるところの母親と出くわしたらしく外であいさつしているっぽい声がしたので、あわてて靴をつっかけて出ていくと二人でぺこぺこと頭を下げあっている。母さんは小柄なので政樹さんの胸まで位しか身長がない。その身長差に合わせるように深く体を折っている政樹さんがおかしかった。
「お待たせしました!じゃあ母さん行ってきます!」
急いで鍵をかけると
「お世話になります。よろしくお願いします」
母さんも出勤のために軽自動車に乗り込んだ。俺がミニバンの助手席に座ると後ろの席にはすでに店長がいて
「俺まで挨拶するとお母さん遅刻しちゃうだろ?」
といないふりをしてくれたと聞かされた。
「大川の家はこの近く?」
店長に聞かれたので一本北寄りの道だと答えるとちょっと見ていきながらいるようなら誘ってみようということになったが、家の前に融さんの原付がなかった。一応駆の方にメッセージアプリで連絡を取ってみるとまだ大学から帰っていないとのことで残念だったけど3人で行くことにした。
おじさん2人から食え食えとどんどん肉を乗せられ、更にサイドメニューや麺飯まで頼まれて、自分の胃袋の限界をはるかに超えてしまった。政樹さんも健啖なのだが、どう考えても頼みすぎではと思ったけれど最後はずっとビールばかり飲んでいた店長がきれいに平らげて片づけてくれた。店長が最近俺のシフトが少ないからあんまり顔を合わせていなくて寂しかったと言いながら抱き付いてきて、政樹さんにべりっと音がしそうな勢いで剥がされてついでにぺちっと頭をはたかれていた。
トイレに行ってからでないと車に乗せてもらうのも無理と思い、じっくりと用を足して戻ると二人で頭を寄せ合ってひそひそと話している後姿があった。俺が近づいているのに気づいていないようで店長の低く抑えた声が聞こえてきた。
「じゃあまだ喰ってないの?」
「喰うも何もそういうのじゃないから」
「マジで?DKだから?」
「だからそういうのじゃないって言ってるだろ」
最後のセリフの政樹さんはちょっといら立っているようで言葉に妍があった。
「すみません、おまたせしました」
俺が後ろから声をかけると二人ともビクッとしてバッと勢いよくこちらを振り返ったのでこっちも驚いてしまった。俺のびっくり顔を見て店長が
「おー、スッキリしたか?じゃあ行くか」
と伝票を持って立ち上がった。俺はさっきの二人の会話の意味がわからなくて気にはなったが、自分に関係の無いことのような気もして触れずにおくことにした。政樹さんは目を細めるようにしてそんな俺の様子を伺っているようだったが、ふだんと変わりないと見て取ったのか車のキーを開けてくれた。店長はかなり酔っている状態で、俺を助手席に乗せて自分は後部座席にふんぞり返るように足を広げて乗った。
「相変わらず偉そうだな」
政樹さんが笑うと店長は
「運転手さーん、俺の家までお願いしまーす」
とかってに窓を全開にしてたばこを取り出した。
「今吸うのかよ」
車のオーナーが嫌そうな顔をしているのに全然気にしていない風で携帯灰皿を取り出すと
「悪いか。あ、あっくんダメ?窓あいてるけど吸っちゃダメ?」
と聞いてきたから
「俺は平気ですけど…」
まあ、いつも政樹さんが吸うときも気にしてないからそういったけれど政樹さん的にはダメみたいだから困ってしまう。誤魔化すように焼肉屋でもらったミントの飴をなめながら政樹んさんの顔を伺う。
「あー、早くあっくんも酒飲めるようにならないかな。このメンバーだと俺だけ酔っぱらいで肩身が狭いわ」
窓の外に向かって煙を吐きながら店長が言った。
「は、どこが肩身が狭いだよ。人に運転させて好き放題しておいて。だいたいやっと18歳になったばかりなのにはやく20歳になれとか言われてもなー?」
政樹さんは俺の顔を横目でみながら飴を渡してきた。
「俺の分も剥いて?」
たのまれたので包みを剥いて差し出すとハンドルを握ったままわずかにこちらを向いて口を開けている。仕方ないので口に入れてあげると店長が
「こら、俺の前でいちゃつくんじゃねーよ」
と後ろからシートを蹴飛ばしてきた。
「くそ、やっぱり大川連れてくるんだった。あいつなら酒も飲めるし、おれをボッチにしないし」
「おい、シート蹴るのやめろ」
低い声で政樹さんが言うと、その剣呑な雰囲気に俺はすくんでしまった。
「おー怖い怖い。おじさんヤバいのが漏れ出してるぜー」
酔っぱらいが絡むと
「放り出すぞ、コラ」
ますます車内の空気が冷え込んでくる。
「…政樹さん?」
俺の声がちょっとビビり気味なのは仕方ないと思う。なんていうか学校のイキってる奴らの出す声とは違うんだ。大きな声でもないのに腹にクるっていうか背中が冷たくなるっていうか。俺がおろおろと二人の顔を交互に見ていると
「ぷっ」
突然政樹さんが噴きだした。
「ごめんごめん。あっくんそんなにビビらないで。ちょっと大人げないおじさんを注意しただけだから。健二も反省するよな?人の車のシートに靴跡つけたこと謝るよね?」
信号で停まって後ろに首をひねって言った。
「はい、謝ります!ごめんなさい!申し訳ありませんでした!許してちょんまげ!」
右手をびしっと挙げて酔っぱらいおじさんは全力で言って、昭和のおじさんみたいなあやまりかたをした。顔は人気俳優にちょっと似ているイケメンなのにこの陽気な残念っぷりはおかしすぎる。今度小杉さんに話しちゃおうかな。きっと喜ぶだろうな。そうやってあの拡散主婦は情報を集めていくんだと思い至った。
「あーもうしょうがない大人だな。ほら、お前んちだぞ。さっさと降りろ」
店長のマンションの前に停まるとスライドドアを開けて
「吐く前に降りないと蹴りだすぞ」
と放り出した。店長は直立不動で敬礼すると
「送っていただいてありがとうございました!あっくん!あらためて誕生日おめでとう!がんばって大人の階段を昇ってくれたまえ!マサ!がんばれよ!」
言ってることが支離滅裂で、本当にイケメンが台無しだ。
「ちゃんと部屋まで帰れよ。んじゃ明日な」
後部ドアを自動で閉めると車を発進させた。
「ちょっとコンビに寄ってもいい?」
とたばこを買いにコンビニに寄ったので喉が渇いていた俺も炭酸水を買った。
「今日は遅くなっても大丈夫?お母さん居ないんだよね。もう一か所寄ってもいい?」
と言われて
「いいですよ。あとは風呂に入って寝るだけだし」
まだ夏休み中だし、明日はシフトも入ってないし。
車は南の方に向かって走っている。街道を逸れて、え?ここを?と思うような獣道のような細道に入ってしばらく進むと、不意に両側の藪が途切れて目の前に夜の海が広がった。街の明かりも届かないような郊外の浜辺は満天の星に覆われていた。
「ここ、昼間はサーファーでいっぱいなんだけど夜はこんな風に静かなんだよね。この前の夜景もいいけどここもいいだろ?」
車から降りて砂浜を歩くと潮の香りがする。くり返す波の音と自分たちの砂を踏む音だけが聞こえる。なるほど、さすが大人はいろんなことを知っているな。こんな必殺技を教えてもらえて俺はラッキーだ、卒業したら絶対免許すぐ取ろう、なんて考えていたら不意に手首をつかまれて引かれた。つかまれた方の手の中に何か渡される。
「誕生日プレゼント」
手の中を見てみると誰でも知っている有名な男性用アクセサリーブランドの包装だった。決して安価なものではないはずだ。俺が目を見開いて政樹さんの顔を見ると
「遠慮とかするなよ。お祝いなんだから」
先制してきた。
「開けてみて。例によってセンスには自信ないけどな」
と促されて包みを開けると武骨を装った繊細なデザインのキーホルダーだ。すごく俺好み。
「あの…」
だって他のバイトはこんなことしてもらってないよな絶対。どうしたらいいんだろう。俺の途方に暮れたような顔を見て
「そんなに困った顔するなよ。おじさんと遊んでもらってるお礼なんだから。あっくんとこうやって遊んでるの本当に楽しいんだ。できればこのままあっくんが大人になってもこんな風に一緒に出掛けたりとかしたいと思ってるし。頼むから受け取って」
とキーホルダーを持った俺の右手を包み込むように左手で握ってきた。
政樹さんの手の温度が腕を伝い俺の心臓に届いたような気がする。温められた血液が心臓に至ってそこから全身に沸騰したような血液が押し出され巡らされる。俺の顔は真っ赤だろう。星明りの下ではそれは見えないかもしれないが、たまらない気持ちで俯いた。すると大きな手のひらが俺の頬にあてられそのまま上を向かされる。見慣れたはずの顔なのに初めて見る真顔はとんでもない大人の男性の色気のようなものが滴り落ちてくるようだ。無言のまま仰向いていると目の前の長身が静かに傾いて近づいてきた。唇に柔らかいものがあたる。見えているのはこれ以上ない程近い政樹さんの半眼の目だ。嗅ぎなれたたばこの匂いとさっきなめたミントの匂いがする。あと、ほんのり焼肉の匂いも。唇はすぐ離れたけれどまだ触れるか触れないかのところにあって
「目、閉じて」
とささやく。思わず言われたままに目を閉じると今度はさっきより強く押しあてられた。そのまま角度を変えて何度か唇を吸われる。頭が内側からきつくしびれるように意識を追いやって、あがってきた呼吸に聞いたことのないような自分の声がかすかにのる。さらにうすく開いた歯の間から柔らかな舌が侵入して俺の舌を捉えようとしたところで俺は初めて今自分に起こっていることを意識し、とっさに握られていない方の手で目の前の胸板を強く押した。
「え…っと、あの…、あの」
顔から火が出そうな俺の涙目を見て政樹さんはハッとした表情をしてからこれ以上ない程盛大に眉を下げた。
「悪かった。調子に乗った。ごめん」
俺は今の状況をどう捉えたらいいのかわからず完全にパニックを起こし、涙がボタボタと零れ落ちた。
政樹さんは俺の両肩に手を置くとがっくりとうなだれて
「本当にごめんね。この前みたいにいい感じの口説き方見せようと思ってムード出しすぎた。なんかもうあっくんがかわいく見えちゃって俺が流された。大人として全然だめだよな。たのむ、なんでもするからもう泣かないで。俺のこと思い切り殴ってくれる?」
砂浜に両ひざをつくから『土下座する気だ!』と気付いてあわてて俺もしゃがんで阻止した。
政樹さんの打ちひしがれっぷりがすごすぎて涙も引っ込んだし、大人なのに雰囲気に流されて見境なくなったなんて、普段の落ち着いてる様子からは予想できない行動だからもうしょうがないよね。ごしごしと涙を拭きながら
「びっくりしただけだから、そんなに自分を責めないでいいです。ほんとに驚いただけだし、はずみなんですよね?」
向かい合って砂浜に膝をつき合った格好で政樹さんの顔を覗き込んだ。
「…うん。はずみだからってやっていいことじゃないけど、今めちゃくちゃ反省しています。ホントどうしたらいいかわかんないくらい反省してる。明日からどうしよう。半径5メートル以内に近づかないようにする?」
しょんぼりとうなだれている様子はこっちの方がかわいそうに思ってしまうので
「5メートルも離れてたら車で送ってもらえないし厨房にいられないですよ。もう、ずっと今まで通りでいいです。こんな悪ふざけはもう二度と無いですよね?俺の中では完全に無かったことにしますから」
というと探るように俺の目を覗き込んだあと
「はい。二度とは無いことを誓います。ごめんなさい、もうしません」
小さな声で背中を丸めて言った。小さな子供かよ!的な謝罪を受け入れることにしてそう伝えると、心底ほっとしたような力ない笑顔になった。いつもの目じりに小さな皺が寄るやつだ。俺もほっとしてやっと笑えた。
「…また飯も一緒に行ってくれる?」
上目勝ちに言われて
「これまで通りでいいです。女の子の口説き方教室は無しで」
立ち上がって砂を払いながら言った。手の中にあるキーホルダーは体温で熱いくらいだ。そういえばまだお礼を言っていない。
「これ、ありがとうございます。大切に使います」
ポケットから包みを取り出してしまい直した。
「帰ろうか。今度は寄り道なしで」
政樹さんも砂を払いながら立ち上がった。いつもよりは言葉が少なくなってしまうのは仕方ない。なるべく平静を装いながら家まで送ってもらいおやすみなさいの挨拶をして別れた。
部屋に入るともらったキーホルダーは机の上に置いて、ベッドに身を投げ出し大きく息を吐く。普通にできていただろうか。政樹さんは気付いていないかもしれないのだが、ファーストキスだったんだ。まさか男の人とすることになるなんてこれっぽちも考えたことはなかった。あんな、甘ったるい、全身の神経がビリビリと犯されるような。思い出しただけで腰から背中にかけて弱い電流が走るようだ。体の中心に熱が集まるような気がして、慌ててガバッと大きな動作で起き上がると風呂へ行った。シャワーを浴びながら熱を逃そうとすればするほど記憶が明瞭によみがえって、体は言うことを聞かない。とうとう俺はあきらめて自分を慰めてしまった。キス一つでこんな、しかも舌も入れてないのに。…舌。もう少しでさらにヤバいことになるところだった。大人でも、いや大人だから?あんないやらしいキスをはずみで出来るものなんだろうか。俺の脳はもう限界だった。どうせ俺は18歳にもなって彼女もいたことがない童貞だ。俺の周りの奴らだって半分は絶対童貞だよ!たぶん。いや、三分の一くらいかも。でもファーストキスが男とってやつはたぶんいない。なんてことだ。でもそれで政樹さんを恨む気持ちは湧いてこなかった。リセットだリセット。無かったことにしよう。それでいい。
ふとスマホを見ると着信のお知らせが光っていた。開けると政樹さんと店長からだった。
どちらもどう返事をしていいかわからないので、既読をつけないようにアプリを開かず放置することにした。寝落ちしていたことにして明日の朝にでも返事をすればいいだろう。寝られるか心配だったが意外とあっさり眠りに落ちることができた。
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