6.これでいいんだ

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6.これでいいんだ

次の朝少しぼーっとした寝起きの俺は昨夜放置したメッセージの存在を思い出し、スマホを開いた。店長からのは『たのしかったよ~ また行こうね~』という酔っ払ったまんまのもので、俺もお礼と楽しかったのでまた誘って欲しいという返事をしておいた。政樹さんのは『大丈夫?いろいろごめん』と受け取り方に困る内容で、とりあえず『何のことかわからないので謝らなくていいです。焼肉と誕プレありがとうございました。明日からもよろしくお願いします』と返しておいた。これならリセットしたい俺の気持ちも伝わるだろう。今日はバイトも何もないので久し振りにダラダラと過ごすことにした。この前もらったパソコンもいじりたいし、ここのところログインと育成しかしていなかったゲームも久々にイベント参加したかった。昨夜の焼肉がまだ胃に残っている感じであまりお腹がすいていない。時計を見ると10時近かったし朝食は抜くことにした。リビングに行くと今日の新聞と冷めたコーヒーが残っているコーヒーメーカーで母さんが早朝に一度帰ってきたことがわかる。多分もう寝ているのだろうと思い、起こさないように静かに冷蔵庫から牛乳を出して残っていたコーヒーと混ぜて飲む。ヨーグルトがあるのを見つけたのでそれだけ食べて、洗濯機を覗くと母さんが寝る前に回しておいた洗濯物が洗いあがっていたので干しておいた。部屋に戻ってスマホを開きゲームアプリを立ち上げる。昨日から始まっているイベントはまだ余裕でクリアできるだろう。部屋は冷房をかけているせいでずっと閉めっぱなしだったので思い立って冷房を切り、窓を開けるとものすごい熱気が流れ込んできた。部屋のドアも開けて空気の流れを作ると床のラグの上に寝転がってイベントのパーティーを組んだ。フレンドサポート欄の選択画面で政樹さんの“MASA”を見つけてドキリとするが、浮かびかけた記憶をあわてて押し込み目の前の画面に集中する。顔や体が熱いのは気温のせいだ。一時間ほどそうしてイベントをこなしていたがさすがに暑さに耐えきれなくなってリビングに避難し、エアコンをつけて昼ごはんの支度をすることにした。冷蔵庫を覗くと特に何も見当たらないしお腹もそんなにすいていないのでそうめんでもゆでるか、と大鍋にお湯を沸かす。鍋に水がたまるのをぼんやり眺めていると水音が昨夜の波音を思わせて不意に唇の生々しい感触とたばことミントの匂いがよみがえり、たまらずじたばたと足を踏み鳴らしてしゃがみ込んだ。 「あー、もうっ!リセットだって言ってんじゃん!」 しゃがんで両手で頭を抱えると頭上で鍋から水の溢れる音が聞こえてきてあわてて水を止める。 鍋を火にかけてそうめんを袋から出していると母さんが起きてきた。 「もう起きる?そうめん食べる?」 と聞くと 「食べる。ありがと」 と言いながら野菜庫から大葉とミョウガを出してきた。 はいはい、と千切りにしてゴマと冷凍の刻みねぎと一緒に小皿に出す。 「他に何かいる?」 麺つゆの支度をして鉢を出す。別にそれだけでいいそうなのでゆであがったものを冷やして食卓に運んだ。その間に顔を洗ってきたらしい母さんと向かい合って手を合わせる。 「昨日は何をごちそうになってきたの?」 と聞かれたので 「焼肉」 とだけ答える。 「昨日の人が時々ごはんに連れて行ってもらってる政樹さんっていう人?優しそうな感じだね」 あー、来ると思ったよその話題。昨夜のことがなければ何でもないことなのに、へんな後ろめたさを感じてしまう。無駄にドキドキするし、顔も赤くなってるんじゃないかな。どうやってごまかそう。 「うん、昨日は店長も一緒だった。店長の方がイケメンだから母さんはそっちの方が会いたかったかもね」 俺をかわいがってくれてるのは政樹さんだけじゃないと強調するように話をもっていく。平常心平常心。 「えー、イケメン見たかった。今度お店に見に行っていい?」 「絶っっ対ダメ。来たら家出する」 出来るだけの仏頂面で脅しておく。当たり前だ。どこの世界に子供の職場に挨拶に来る親がいるんだ。何にもなくても恥ずかしい。って何にもなくてもってなんかあったみたいじゃないか。あったんだよ、何かが。結局思考はそこに戻ってくる。だからリセットだよ、俺!もうだめじゃん、忘れてしまうことなんて不可能じゃん。思わすため息が漏れそうになりあわててそうめんを食べきるとそそくさと席を立った。流しに器を持っていこうとすると 「置いておいて。作ってもらったから洗い物はするから」 と声をかけられたので甘えることにして部屋へ戻った。窓を閉めエアコンをつけようとして机の上の包みが目に入る。また動悸が強まるのを無視して家の鍵をもらったキーホルダーに付け替えた。使わなければ政樹さんが色々気にしてしまうだろう。蔦のような植物がモチーフの渋い銀色のそれは高校生が持つには少し大人びていてカッコいい。大丈夫。明日からも普通に顔を合わせられる。自分で自分に暗示をかけるようにしてエアコンの効いてきた部屋でパソコンを立ち上げた。 結果、全然ダメだった。俺はまだまだ修行が足りない。翌日のバイトで政樹さんの姿を見ただけで顔は熱くなるし心臓は暴れるしでとにかくまともに見ることもできない。何とかお礼だけ言えたがあとはもう無理なので不自然かもしれないけど避けまくってしまった。そんな俺の様子を見て政樹さんは少し寂しそうな顔をしたが、俺の態度が不自然にならないようにフォローしてくれた。そんな感じで一週間、二週間と過ごし、俺と政樹さんの間には少し距離ができてしまった。周りに変に思われないように会話はするけれど、以前のような親密な気持ちにならないように当たり障りのない話題をほんの少し距離をとって話す。そのことをすごく淋しく感じるが、それ以上に危険を感じる自分が、これ以上政樹さんに近づくことに警告を発しているのだ。そう、この好意は危険だ。俺はそれを自覚しそうになりながらも無理やり心の奥の匣に押し込めて蓋をした。そして今の関係と距離に慣れようとした。 夏休み最後の週の定休日の前の日、夜のシフトを終えて帰ろうとしていると自転車置き場でちょうどホールスタッフの河野有希さんと一緒になった。河野さんは二歳年上の専門学校生で先日就職先が決まったとみんなから祝われていた。ショートヘアのはきはきした美人で、要するに俺のタイプの人だったが確か彼氏さんがいたはずだ。 「お疲れ様です」 声をかけると 「お疲れ様。あっくんちょっと今から時間もらえない?すぐ済むけど」 と近くのバーガーショップへ連れていかれた。お腹はすいていないのでアイスコーヒーをたのむと開口一番 「あっくん今付き合ってる子いる?」 と聞いてきた。 「今だけじゃなくてずっといないですけど。誰か紹介してくれるんですか?」 ちょっと口をとがらせて返事すると 「紹介するっていうか、私。私と付き合って欲しいんだ」 と言う。え、待って、河野さんと? 「河野さん彼氏いましたよね?」 思わず眉間にしわが寄ってしまう。 「別れたのもう二か月も前だよ。お互い就活が忙しくてケンカも多くなって、無理だった。未練とか全然ないんだ。もっと前から惰性で付き合ってる感じだったし」 コーヒーのストローを曲げたり伸ばしたりしながらこちらを伺ってくる。どうしよう。告白されたのは初めてじゃないけどこんなにタイプの子からは初めてだ。一瞬政樹さんの顔が脳裏に浮かんだ。そうだ、これは危険から遠ざかるチャンスなのだろう。 「俺でよければ。実は河野さんすごくタイプなんです」 よろしくお願いしますと頭を下げた。でも、何で俺なんだろう。 「あっくんってさ、すごく周りのことよく見てるでしょ。それで人がしてもらいたいなーって思ってることを本人より先に気付いてしてくれるじゃない。それってストレスじゃないのかな?って思って見てたらなんか構いたくなっちゃって。世話を焼かれるのいや?甘えてくる子の方が好き?」 そんなに俺のこと見てくれてたんだ 「俺すごく年の離れた末っ子なんです。だから甘えられるの苦手で。逆に重いかもしれないですよ、俺」 「そっか!私は女ばかり4人姉妹の一番上なんだ。甘えられるのは慣れてるけどどうせならかわいい男の子を甘やかしたい。かわいいって言われるの苦手?」 ニッと笑われて苦手だなんて言えなくなってしまった。これでいいんだ。さっそく連絡先を交換してお互いの家の場所を確認し合った。次の日は定休日なので会う約束をした。これでいいんだ。 その日から俺は河野さんのことは有希さんと呼び、毎日のように連絡を取り合い、可能な限り一緒に過ごした。宣言通り有希さんは俺を甘やかし、そんなオレののろけ話を駆はさんざん聞かされ、普通の高校生の普通の恋愛生活ってやつを満喫した。9月の終わりに推薦入試を終えて慰労会と称した食事に2人で行った夜、俺は童貞を卒業した。
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