紫陽花

1/1
32人が本棚に入れています
本棚に追加
/34ページ

紫陽花

昔から暗闇を好む子供でした。 小さい子供は闇に対して恐怖心を持ち、なるべく自分から遠ざけようとするものです。 しかし、彼女には恐怖や恐れという感情が欠落していたのだと思います。 私はついに彼女の理解者になる事は出来ませんでした。 理解者になる必要はなかったという方が正しいでしょう。 彼女を唯一理解できたのはあの子一人で充分だったのです。 闇の中で美しく咲き、朽ちていった彼女たちの最後の願いは闇を語り継ぐ事でした。 私は理解者にはなる事は出来ませんでしたが語り部となる事は出来ます。 理解者になる必要はありません。 人の闇を知る覚悟はよろしいですか? 目は言葉よりも感情を雄弁に語る。 恐怖を感じた人間は目を瞑ることはできない。 目を瞑ることは見えなくなるということ。 見えなくなるというのは見えることよりも恐怖を掻き立てるからだ。 数分前まで幸せの匂いが満ちていた部屋から匂いが消えていく。 冷たい空気が床を履い部屋を満たして温度を下げる。 日常の中に非日常が突然現れると人は硬直し動けずに終わる。 体感では一瞬の出来事だっただろう。 温かい身体に冷たい感覚が首を通り過ぎた。 痛みは感じない。 映像が白黒に写る双眸には明るい髪の長い容姿端麗な少女が微笑んでいた。 最後に見た色は少女の瞳に光る青色だった。 どこまでも深くその見えない瞳は遠のく意識を海へと誘った。 左手には刃物が握られている。 ここで状況を理解できた。 叫び声は頭の中に鳴り響くだけで喋ることはできない。 冷気は指先から身体を凍らせる。 ぼやけている視界に彼女は近づいて耳元で囁いた。 「可愛そう。」 そういうと少女は目の前から消えた。 少女のいなくなった部屋の景色はいつもと変わらない。 娘がいないときに怠けている部屋そのものだった。 違うのは普通に生活しているはずの家族だけだ。 首筋を切られたとしても数分は息があるというのは残酷で、最期の願いは叶わなかった。 意識がなくなる数秒前最期に見たものは変わり果てた娘の姿だった。 今日も簡単に終わってしまった。 レインコートは赤黒く濡れていてじんわりと温かい。 人の命は思っていたほど頑丈に創られていない。 神がいるとするならこれはあいつのミスだ。 最初は感じられていた興奮はもう得られない。 床やソファーに飛び散った血を綺麗に落とす。 傷口には紙おむつを押し当て止血する。 汚い殺しは嫌いだ。 ソファーに親子2人で冷たく横たわる姿はただ眠っているようにしか見えない。 かすかに残った家族の空気。 居心地が悪かった。 子供部屋には明日の学校の準備がされている。 どれだけ恐怖を与えても部屋が変われば幸せの空気は残っている。 早く帰ろう。 外に出ると静かに雨が降り出した。 赤く染まったレンイコートを静かに洗い流す。 気持ちが高揚しなくなったのは慣れてしまったからなのか。 家を出てもあの家族の生温い幸せがまとわりつく。 子供だが育てていたであろう朝顔は支柱に蔓を巻き静かに濡れている。 寄り添う親子がフラッシュバックした。 梅雨は嫌いだ。 梅雨の生温い匂いがアノ幸せの匂いと重なる。 「気持ち悪い。」 玄関の扉を開けると兄が座り込んで待っていた。 ブロンドの髪をくしゃくしゃにして俯いていた。 190センチもある巨漢が子犬のように小さく見える。 「おかえり。今日は何人摘んだ?」 眉間にしわを寄せてぐちゃぐちゃの顔を私に向ける。 青い瞳には涙を浮かべている。 「2人。」 兄は祈るように目を瞑った。 兄は私を理解しようとして私の行動を見逃している。 気づかれたのは4人目のとき。 帰った私と偶然鉢合わせた。 その時の兄は今日と同じように顔を歪めて私に謝ってきた。 こんな風に育った原因は自分にあると私を抱きしめて泣いていた。 私も異常だとおもうが兄も異常だと思う。 夜な夜な殺人を犯す妹を見過ごして理解しようとする。 その辺の殺人犯より気持ち悪い。 「シャワー浴びてくるから。」 座り込んだままの兄を横目に通り過ぎる。 兄は静かに頷いた。 「エマ、お風呂湧いてるから。」 優しさに吐き気がする。 あの家族の匂いが体に染み付いている。 纏わり付いた空気を洗い流すようにお湯を浴びる。 手袋はしていたがやはり血の匂いは簡単には落ちない。 そこがいい。 シャワーから出て2階の部屋に戻る。 最低限の家具しか置いていない部屋は暗く広い。 吸い寄せられるようにベッドに横たわる。 手に染み付いた血の匂いはまるで睡眠導入剤のような安心感を私に与えてくれる。 とても穏やかな気持ちで眠りについた。
/34ページ

最初のコメントを投稿しよう!