5話  夜空の業火

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5話  夜空の業火

 移動しては休み、また移動を再開する。そんな単調な日々の連続では、グループ全体を活性化するどんな些細な変化でも大歓迎なのだが、そんな時に限って何日間も何も起ることがないのが常だ。ただ、リーダーを気取るジンジツだけは、出発と休憩の大号令のリズムを変えてみたり、方違へ師(かたたがえし)として、皆の進む方向を星座から得たりと、パーティが抱く疲労と、退屈からくる鬱屈とは無縁の存在に見えた。事実、自分の都合で速度を緩めて空を見上げ、そして一行を省みずに、またさっそうと歩き出すその姿は、見ようによっては頼もしく映らなくもないが、どちらかといえば皆を引っ張って行くというより、皆の元気を吸い取っては、それをエネルギーに変換して動き続けているかのようにすら見える。チョウヨウなどは「空回り」。「空気を読め」など。さもうんざりといった調子で、溜め息交じりの嫌味を彼の背中に再三にわたって投げつけてはいたが、それでパーティの移動速度が変わるものでもなかった。 「大丈夫、ミソカ?」  だが、同じ方違へ師(かたたがえし)でも、こっちは違った。  荷物持ちジャンケンの一件以来、無理をする傾向にあったミソカは、時々歩行速度を緩めては荒くなった呼吸を整えた。遅れる彼女を見るたび、ナナクサは先頭を行くジンジツに大声で止まるように呼びかけるようになった。その気遣いの声に一人、また一人と、これ幸いに一行が足を止める中、それでも止まらないジンジツのコートの裾に手をかけて引っ張り戻すのが、いつの間にかジョウシの日課になっていた。  かつて大海だった大氷原まで、あと少しに迫ったある日。この夜だけ、ジンジツはジョウシの手を煩わすことがなかった。突然、立ち止まった彼の背中に後続のジョウシが勢いよくぶつかった。 「おい、急に立ち止まるでない。鼻が潰れでもしたら、如何する?!」 「飛行船(サブマリン)だ!」 「なに?」  空を見上げるジンジツの視線の先を探すようにジョウシが空に顔を向ける。疲れ切った仲間たちも、延々と続く雪と氷の大地から視線を引き剥がしては青く明るい夜空を見上げはじめた。  星々が散りばめられた天の川のカーテンの中にその巨体はあった。それは月食のように輝く月や星々を飲み込みながら、低い高度でこちらに向かってどんどん迫ってくる。そのあまりの大きさに圧倒されて暫く誰も口をきけなかった。  やがて飛行船(サブマリン)は、ポカンと口を開けて見守る一行の頭上に覆い被さると、その視界一杯に広がった。真っ暗な船腹以外なにも見えない。ただ、ゆったりと回転する大きなプロペラが空気を切り裂く音と、それが作り出す強風だけが上空から彼らに覆い被さってくる。  長い時間をかけ、飛行船(サブマリン)は彼らの頭上をゆっくり通り過ぎた。 「四胴、いや六胴船だな……」  タナバタが誰に言うともなく呟いた。その言葉にジンジツは、ジョウシが口を開く前に反応した。 「あぁ、そうだ。どうりでデカいはずだ。凄いな。初めて見たが、近くで見るとやっぱりもの凄いもんだな……」 「タナバタ。ジンジツは何を興奮しておるのだ?」  ぶつけた鼻をいじりながら、ジンジツと巨大な飛行船を交互に見上げていたジョウシはタナバタの正面に立った。 「陸地のごとく大きいのは、我も凄いとは思うが、かような機械(からくり)に、なぜあそこまで興奮することがあるのじゃ? 飛行船(サブマリン)など、そう珍しくもあるまいに」 「通常とは大きさも形も違ってただろ?」 「生憎と、ああいった機械(からくり)には興味がないのでな。つぶさに見たことなどない」 「なんだ、そうだったのか、ジョウシ?」 「生憎、そうだったのだ、タナバタよ」  さも、うんざりした様子のジョウシを諭すようにタナバタが言葉を継いだ。 「あれは指揮船(マザー・シップ)だからね」 「指揮船(マザー・シップ)?」 「飛行船(サブマリン)の親玉みたいなものさ。大きさは通常の四倍ある四胴船の一・五倍。桁外れの大きささ。しかも空の上で他の飛行船への補給もできるらしい」 「補給のぅ。それで?……」  タナバタは自分を見上げるジョウシを保護者のように見やった。 「村でも、小さな男の子は親が持つ道具や機械(からくり)が好きだろ。その思いが、どんどん膨らんで、より複雑なもの、より大きなものに興味を持つようになる。ジンジツの反応はそれと同じようなものさ」 「ふむ」と興味が失せたように生返事をしたジョウシは、飛行船(サブマリン)を見上げ続けるジンジツに視線を移した。 「男はわからぬな……」 「他の飛行船(サブマリン)に補給ができるってことは、余分な食糧を持ってるってことだよね」  タナバタの話を聞きかじったタンゴが能天気な声をジンジツに投げかけたが、返ってきたのは沈黙だった。  だが次の瞬間、ジンジツは指揮船(マザー・シップ)の後を追い始めた。初めはゆっくりと、そしてだんだんと小走りになっていく、目は片時も指揮船(マザー・シップ)から離そうとはせずに。 「凄いぞ」誰に言うともないジンジツの独り言は、興奮の色を濃くして徐々に叫び声に近くなっていく。「見たか、あの曲面の滑らかさ!」 「見たよ!」と一緒に走り出したタンゴが応じる。 「船体のルルイエ文字の大きさなんか、一文字で村の倉庫の何倍もあるぜ!」 「おい、待ってくれよ。余分な食糧の話は。狼煙を上げたら余分な食糧を落としてくれるかな?」  飛行船を追いはじめたジンジツに置いていかれまいと彼と並走をはじめたタンゴにチョウヨウとジョウシの冷ややかな視線が注がれた。 「まるでガキじゃねぇか……」 「やはり、男はわからぬ……」  ミソカを伴ったナナクサが仲間たちのいる切り立った崖の端にたどり着いた時、それは起こった。  真っ青な夜空に溶け込んだ飛行船は小指の爪ほどの大きさになった時、目も眩むばかりのオレンジ色にパッと包まれた。そして一拍遅れて広大な空に轟音が谺した。何が起こったか理解できずに空の惨劇を呆気にとられて眺めていた一行が口々に喋り始めたとき、破損を免れた飛行船の巨大な胴体の一つが、ゆっくりと回転しながら元来た空路を戻り始めた。一行には、それが見えていた。しかし注視していたのではなく、ただ見えていただけだった。判断力が麻痺した彼らは、胴体の巨大な影が目の前一杯に溶け広がったとき、次に何が起こり得るかを、やっと理解した。そしてそれぞれが身構えると同時に二度目の爆発が起こった。凄まじい衝撃波は、暴風と手を取り合うと、一行をその場から激しく弾き飛ばした。  七人の身体は宙を舞い、降り積もって硬くなった分厚い雪の中に深々とめり込んだ。永遠とも思える静寂がその場を支配した。やっとのことで正気を取り戻した彼らは次々と雪の中から這い出すと、成す術もなく互いの顔を見回した。 「みんな、大丈夫かい?……」  数百歳の老人のようにしわがれたタナバタの声に、ようやく仲間たちは、その場で立ち上がると声もなく頷きあった。 「雷が近くに落ちた時みたいだ」とタンゴ。 「雷は、こんな焦げた臭いまで運んでこないよ。まったく嫌な臭いだ……」  タナバタは、そう応じると、未だに雪の中で膝をついて支え合っているナナクサとミソカに手を伸ばすと、二人を助け起こした。 「怖い……こんなこと初めてよ……」  ミソカは自身の両手を華奢な両肩にまわして、震えながら呟いた。 「誰だって初めてさ」ミソカに向けられたチョウヨウの刺のある言い方は、むしろ事態を理解できない自分自身に向けられた苛立ちそのものだった。 「で、これから僕たちどうするの?……」 「決まってるだろ」と暫しの沈黙の後にタンゴの疑問に応じるジンジツの声。  彼は早くも自分の荷物の中から細く編まれた丈夫なロープを引っぱり出して自分の身体に一方の端を括りつけはじめていた。 「何をする気じゃ、ジンジツ?」  ジョウシの呼びかけを無視してロープを身体に巻き付け終わったジンジツは崖の端まで走り寄ると、ロープの片方を近くに突き出た大岩の根元に括りつけはじめた。 「おい、ジンジツ!」追いついたジョウシが声を荒げる。「我を無視するでない。応えよ。そなた、何をする気じゃ?!」 「決まってるだろ。助けに行くんだよ!」 「この崖から落ちたら、僕たちだって助かんないよ」ジンジツの傍に片膝をついたタンゴが崖下を覗いて不安そうな声を上げた。 「何もお前に行けなんて言ってないだろ」 「おい」とチョウヨウが感情を抑えた声をジンジツに投げつけた。「リーダーみたいに振る舞ってんだから、軽率な行動はすんなよ!」 「何だと」 「あたいはパーティの仲間のことを考えろって言ってんだよ、この単細胞」 「『助けに行くな』ってことか?」 「あたいたちはデイ・ウォークの最中なんだ。この儀式がどんなに重要だか、お前もわかってるだろ」 「だからって船員を見殺しか。まだ生きてる者がいるかもしれないんだぞ」そこまで言うと、嘲笑うかのようにジンジツの口の片端が上がった。「お前は冷てぇ女だな。ボウシュが聞いたら何て言うか?」  チョウヨウの顔が強張った。 「何てった……」 「はぁ?」 「だから、てめぇ今なんつった?……」 「ボウシュが聞いたら……」  言い終わらないうちにチョウヨウは山猫のようにジンジツに飛びかかった。しかし膂力(りょりょく)で勝るジンジツは難なくチョウヨウをその場に組み伏せ、馬乗りになった。  タナバタとタンゴが犬歯を剥いて取っ組み合う二人を引き剥がそうとするが、チョウヨウの鋭く伸びた爪はジンジツの左頬に深く食い込んで鮮血を噴き出させ、対するジンジツの大きな手はチョウヨウの眼球が真っ赤に充血して毛細血管が破裂するほど、その喉をグイグイと締め上げた。このまま何とかしなければ確実に死人が出る。  次の瞬間、パァンと乾いた音がジンジツの空いている頬に鳴り響き、そこにいる者すべてを凍てついた空気の中に縫いつけた。いつの間にか割って入ったジョウシは、振り上げた片手を静かに降ろすと、喧嘩の当事者はおろか、無力な仲裁者の二人まで冷ややかに見つめながら口を開いた。 「デイ・ウォークでの人死(ひとじに)は避けられぬ時があると、亡き父上から聞き及んでおった」いつの間にかジョウシの手には鈍く光る三十センチ余りのナイフが一本握られていた。遥か昔には『給仕用ナイフ』という意味不明な名で呼ばれていたらしい逸品だ。「理由はどうあれ、共倒れになられてはパーティの力も半減というものじゃ。これ以上、()り合うならば、これを使うが善(よ)い。損失は一人で済むでな」  誰も応えない中、ジョウシの声がなおも畳み掛けた。 「さぁ、どうした。どちらでも良い。これで思う存分、本懐(ほんかい)を遂げるが()い。心配せずとも、これは純銀製じゃ。少々、急所を外れても難なく相手を(たお)せようぞ」  重苦しい沈黙が場を支配し続けた。  遠くの墜落現場の炎の中から時折、小さな爆発音が谺する。 「なぜ、どちらも武器を取らぬ。我が家の家宝では不足かや。ほれ、何をしておる?」  ジンジツもチョウヨウも目の前に突き付けられた金属の切っ先に機先を制されていた。 「チョウヨウ、お前はどうじゃ。ジンジツ、そなたは?」 「ジョウシ……」 「なんじゃ、方違へ師(かたたがえし)見習いのミソカか。今は取り込み中じゃ」 「もういいよ。私たちは仲間よ……」  ミソカは、ジョウシが握りしめていた銀のナイフの柄を、自分の手で覆うように包み込んだ。  ミソカとジョウシの視線が混じり合った。  暫くして「ふん。面白ぅないのぅ」とうそぶいて、その場を離れるジョウシの言葉が合図であったかのように、仲裁者は肩の力を抜き、喧嘩の当事者たちはバツが悪そうに爪や犬歯を収めると互いに距離をとった。 「先ほどの話の続きじゃが」銀のナイフをコートのポケットに納めながら、ジョウシが一同に声を掛けた。「我はチョウヨウに賛成じゃ」 「でも助けを求めてる人がいるかもしれないよ」ミソカが消え入るような声で呟いた。「あの炎の中で」 「あんた、タンゴの言ってたこと聞かなかった?」と喉をさすりながらチョウヨウがミソカに反論する「この崖から落ちたら、あたいらだって死ぬよ」 「そうじゃな。無益な死を招く恐れがある。それに、あの激しい事故じゃ。生き残っておる者は誰もおるまい」 「そうかい。そうかい。でも俺は行く」既に塞がりはじめた頬の傷から、粉のように凍った血をはたき落としたジンジツは隣にいる気のいい巨漢に声を掛けた「タンゴ、お前は手伝ってくれるよな」  そう言い放つと黙々と作業を再開するジンジツ。そして、それを手伝わされるタンゴ。その行動に明確な拒否の態度を示すチョウヨウとジョウシ。ナナクサは何も出来ない自身の非力さに腹が立った。でも、こんな時、どうすれば。 「二手に分かれよう」  突然のタナバタの提案がナナクサの心を戸惑わせた。しかも、一行の中で一番判断力に優れていると思っていた彼の口から出た言葉だけに落胆も大きかった。やはり、七人のパーティはバラバラになるしかないのだろうか。居てもたってもいられず、ナナクサはタナバタに問いかけた。 「分かれるって、皆の協力なしじゃ、わたしたちのデイ・ウォークは……」 「大丈夫」と、ナナクサの心を見透かしたようにタナバタは優しく応じると皆に向かって声を張った。「みんな聞いてくれ。パーティを解散するんじゃなく、崖を下って、すぐに救助に行く者と、迂回して崖を降りる者に分けるんだ。後で合流すればいい」 「何を言いだすかと思えば、(らち)もない……」とジョウシが口を尖らせた。 「考えがまとまらずに動けなくなるくらいなら、行動に移した方がましってことさ。夜が明ける前にね」  天空の星座が素人目にも、大きく動いていたのがわかる。みな不承不承にタナバタの案に頷かざるを得なかった。 「で、お前はどっちなんだ?」準備を終えたジンジツがタナバタに声を掛けた。 「君と行こう。生存者がいたら薬師(くすし)も必要だろ」                *  ジンジツに続いてタナバタが目も眩む崖下へと降下した。驚いたことに自分も人助けがしたいと、三番目にミソカが降りると言い出した。身体が強くなくてもデイ・ウォークの参加者だ。その意志は尊重しなければならない。  ナナクサは、遠くに見える墜落現場の炎を両腕を組んで未だに見つめ続けるチョウヨウに声をかけようとしたが、どう声を掛けていいものかわからなかった。しかし、そのためらいの間隙を縫って声を掛けた者がいた。さっきの喧嘩を見事に仲裁してのけたジョウシだ。 「おい、チョウヨウ」  だが、チョウヨウはジョウシを無視した。 「その反応は予想しておった。我も降りようと思う。タナバタの言うことを聞いて二手に分かるるは癪に障るでな。で、もし降るるなら皆の荷を降ろしてから、お前も続くが良かろう」 「あたいにも降りろってか、チビ助?」 「そうじゃ」ジョウシはチョウヨウの挑発には乗らず、ナナクサに目を転じた。「お前を一人にするのは心配なんじゃろうな。ナナクサが迷っておる。可愛そうに……」  静かに振り向いたチョウヨウの目がナナクサのそれを捉えた。暫しの沈黙の後、チョウヨウはテキパキと降下の準備を始めるとロープを掛けた岩に取り付いているタンゴに声を掛けた。 「あんたは一番デカいんだから、最後だよ」  チョウヨウに続いて、ナナクサが崖を降りる前、「民草(たみぐさ)をなだむるは何とも骨の折るることじゃ」というジョウシの愚痴を聞いたような気がした。  結局パーティは二分されず、全員で崖を降りることになった。                *  一行は崖の途中の大きな岩棚で小休止した。崖があまりにも高く、手編みロープの長さが崖下まで、到底、届かなかったからだ。岩棚からでも崖下がどうなっているか、雪煙で霞んでいてはっきりとは見えない。何とか降りられると思ったのが甘かったのかもしれなかった。それぞれに言葉には出さないものの、一行の中にそんな雰囲気が漂ってきた。丁度、そのとき、最後尾のタンゴが岩棚に降下してきた。彼の到着と同時に先着のの面々は、第二の降下を実施すべく、黙々と準備を始め、再びジンジツから降下しはじめた。そしてチョウヨウに続いてナナクサが降下を始めようと後ろ向きに半身を乗り出したところで、タンゴが小さな声で話しかけてきた。 「なぁ、ナナクサ」 「なに?」 「声が大きいよ」 「わかったわ。で、なに?」と、声を潜めてナナクサが応じた。 「さっきの話だけどさ」 「皆で降りることになったじゃない。今さら……」 「違うって」 「『違う』って何が?……」 「その……」 「グズグズするんなら、もう降りるわよ」 「チョウヨウが……」  その言葉に、ナナクサのロープを握る手に思わず力が入った。 「チョウヨウが、どうしたの?」 「だから、声が大きいって」  ナナクサは、いま一度小さく「わかった」と応じた。 「チョウヨウがジンジツに飛びかかる時に言ってたろ、ほら?」 「チョウヨウが?」 「違うよ、ジンジツがさ」 「ジンジツが?」 「そう。ジンジツが言ってたのが、その……気になって……」  ポカンと口を開けたナナクサの鈍さに、遂にタンゴはイライラとまくしたてた。 「『ボウシュ』って誰?」 「えっ?」  意外な問いに、ナナクサは自分の耳を疑った。 「だから、ボウシュって誰だよ?」 「それが聞きたかったの?……」 「い……いや、何でもないよ。いいよ。知ってるわけないもんね、ナナクサが。忘れてくれ。本当に何でもないんだ」 「知ってるわよ」 「えぇっ!」 「声が大きいよ」と、今度はナナクサがタンゴをたしなめる番だった。 「気になる?」 「いや、その、気になるとか、そんなんじゃなくてさ……」 「気にならないんだ?」 「からかうなよ」 「じゃぁ、気にしなくてもいいじゃない」 「いつから、そんな意地悪になったんだよ」 「ボウシュはね」ナナクサは笑い出しそうになるのを必死に堪えながら言葉を継いだ。「チョウヨウの姉さんよ」 「姉さん……」 「そう。彼女の姉さん」 「な……なんだ、姉さんかぁ……」 「チョウヨウが婚儀の契りでも交わした相手とでも思った、大食いさん?」 「なに言ってんの。馬鹿なこと言わずに早く降りなよ!」 「はいはい。今度は『早く降りなよ』か」軽く応じたナナクサは急に真顔になるとタンゴの目をまじまじと見詰めた「ボウシュはね、亡くなったのよ。デイ・ウォークの最中に。とても尊敬できる人だったらしいわ」 「そうなのか……」  陽気な大男のタンゴが急に萎んだように見えた。 「だからってわけじゃないけど、私たちは皆でデイ・ウォークを乗り切るわよ」 「あぁ、もちろん!」 「その後でチョウヨウを誘うなり、彼女に告白するなりしなさい」 「うん、わかった……って、なに言ってんだよ、ナナクサ!」  二度目の降下の最後。残り百二十メートル足らずの所でロープが切れ、タンゴが滑落した。本来なら死ぬほどの高さではなかったが、崖下の切り立った岩場に散々に叩きつけられ、彼は内臓と背骨を大きく損傷した。仲間が駆けつけたときには、もう虫の息だった。
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