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8.音がつなぐ
どうしたらよいのか答えが出ずに、すっかり見慣れた足下に視線を彷徨わせていると、ダン、と音が聞こえた。この場の動きの音ではなく、何か、楽器の音。音楽の音。少しの間を置いて、もう一度。
紗奈はおそるおそる顔を上げる。
羽澄が、体をひねるように左手を少し差し出している。その手の中に何か――スマホのように見える――を握りしめて。
音の発生源はその左手の中だと思えた。だがその音は、耳に届く前に空気に溶けていってしまい、断片的にしか分からない。文字にすると、『ダンッ……シャラシャラシャラ……』という雰囲気だ。
困惑しながら様子を見ていたが、羽澄は睨みつけるように左手の中をじっと見たまま動かない。何か話すようでもない。
自分の手と彼の姿を、何回か交互に見た。すごく長い間――本当は数秒だったのかもしれない――待ってみたが、たまらず、
「あの」
発声してしまってから、
「あっ!」
一言目より大きな声が出て、慌てて両手で口を覆った。
羽澄が我に返った。はたと気付いて、鳴り続けている音を止める。
その動きを見ながら、
(あ、やっぱりあれスマホだ)
変なところに納得していると、
「あのぅ」
羽澄の声が聞こえた。
手で口を押さえたまま目を上げると、彼がこちらを見ていた。
「えーっと」
自分に話しかけている、とは思ったが、確信が持てなくて、そのままゆっくりと首を縦に動かした。
羽澄は前髪をかき上げ、
「あ、さっきは、『話しかけないでください』、とか言いましたけど」
ほんの少し視線をずらして、早口に言う。
「会話することでお互いを知る……っと、何だっけか。とか、そんなのが面白いんだとか、言う男がいてですね。まあ、乗っかってみるのも悪くないかと、ですね、はあ」
音としては聞き取れたが、内容が分からず、紗奈は首を傾げた。
羽澄がそれをちらと見る。
「えー、だからですね……」
前髪を数回かき上げ、左右を見回して、とせわしなく動いた後に、
「て、撤回、します」
絞り出すように言った。
紗奈は、依然として手を口に当てたまま、きょとんと瞬いた。
(てっ、かい……? 『撤回』? 何を撤回? どういうことだろう……)
思考が状況に追いつかない。
羽澄が、右の手のひらをこちらに向け、
「あー、だから……、話して、ください」
首をひねるような、頭を下げるような動きをした。
瞬間。
目の前で風船が割れたかのような衝撃を受け、紗奈は目を瞑った。
瞬きを何度かする。
意識して呼吸する。
羽澄はそこに立っている。
(夢とかじゃ……ない)
ここに至ってやっと、現実の出来事であると感じた。
ゆっくりと手を下ろして、呼吸をして、喉から音のある声を出そうとする。
「は」
掠れた、変な音が出た。慌てて咳払いをすると、
「はい……」
普通の声に戻った。
(話していいって。私が? 羽澄君と? 何を話すの? どうしよう……)
急に全身の血管の脈動が内側から叩くように響いた。耳から首、背中にかけてがぼうっと熱くなる。
緊張で羽澄の顔を見られない。膝に乗せたリュックの上で、所在なさげに手を組んだりしていると、
「さっき、の」
彼の低くて少し掠れのある声に、思わず震えた。
「ど、どうでした? 昨日、聞きたいって言ってた……」
「え?」
顔を上げたが、羽澄はあらぬ方向を見ていて、目が合うことはなかった。
「えっと……。ごめんなさい、よく分かりません……」
分からないことが申し訳なくて、消え入りそうな声で答える。
「あ、あの、さっき流したのが、昨日作ってた曲で……。あ、世界史の時……」
羽澄が少し困っているように見えて、紗奈は一生懸命に考えた。
「さっきって……スマホで流してた音? のこと? あれ、よく聞こえなくて……」
羽澄は乾いた笑みを浮かべた。
「あ、あー。聞こえなかった、ですか……」
瞬間、
(残念に思って……る?)
直感が舞い降りて、
「も、もう一回!」
考えずに口から言葉が出た。
羽澄が、ぎこちなく首を巡らせてこちらを見る。心なしか目を見開いているようだ。
紗奈は、意識して唾を飲み込む。全身の震えを押さえるために体に力を入れながら、
「もう一回、聞かせてください」
羽澄の顔を見た。
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