2. 偶然から、突然

1/1
5人が本棚に入れています
本棚に追加
/16ページ

2. 偶然から、突然

 雲が空を覆っていると、明るさが変わらなくて時間の感覚がなくなる。  委員会の用事を終えると、夕方と呼べる時間になっていた。日没を過ぎれば更に暗くなってしまう、と、紗奈は帰り支度をして生徒用玄関へ向かう。  階段を下りながら、 (そういえば羽澄君、スマホ返してもらえたのかな……)  ぼんやりと思い至る。  すると、階段の先、一階の廊下から当の羽澄が現れたので、紗奈は息を呑んだ。  羽澄は目にかかる髪を、鬱陶しげにかき上げながら歩いていた。おかげで前髪は、真ん中から左右に流れる癖がついている。不機嫌そうにも見えるが、目つきが悪いと言われている彼の平常はこんな感じな気もする。  この廊下の奥には職員室がある。きっとそこから出てきたのだろう。  紗奈は、残りの階段をそろりと下りて、羽澄の後ろ姿を見た。彼の行く先には生徒用玄関がある。このまま進んだら、下駄箱で追いついてしまうだろうか。逡巡しながらも廊下を進む。  生徒用玄関は閑散としていた。既に下校時間のピークは過ぎている。遠く、運動場から部活動の生徒の声が聞こえてくる。  クラスの下駄箱の列に着いた時、羽澄は屈んで靴を履いていた。靴ひもを弄っているようだ。立ちすくんで紗奈は、髪の毛束を撫でる。  このまま無言で、自分の靴を取って履けば良い。何も問題はない。何か声をかけるなんて、怖すぎる。  しかし心には、不思議な思いが湧いてきていた。――一瞬だけ見えた黒い瞳。それから旋律。 (あのメロディーのことも……知りたい。聞いてみたい)  怖いという気持ちを飲み込むように、知りたい気持ちがぐんぐんと膨らんでいく。同時に、今ならなんでもできそうな、勇気が自分の中を満たしていく。  羽澄が立ち上がった瞬間、紗奈の心臓がどくんと鳴り、 「羽澄、君!」  いつの間にか声を出していた。震える手で、片方の髪の毛を掴む。  羽澄は振り返ると、一瞬、目を見開いた。が、すぐに元の表情に戻る。黒目が上に偏っている、いわゆる三白眼が、射抜くようにこちらを見ている。微妙に紗奈の顔から視線を外しているようだ。 「こ、こんにちは……」  羽澄は黙している。呼び止められて苛々しているのか、紗奈の次の言葉を待っているのか、判然としない。  紗奈は、懸命に息を吸った。 「携帯、返してもらえた?」  羽澄は少し目線を横にずらした。 「……はあ」  低く、小さい声で返答がある。 「あの……あの曲って、誰の曲?」  羽澄は更に首を巡らして、完全に下駄箱に顔を向けた。 「……はあ」  紗奈は内心、首を傾げた。 (聞き方が悪かったのかな……?)  もっと細かく話をした方がいいのかな、と急いで言いたいことを組み立てる。 「あの、えと、世界史の時に、あれ聞こえた時に、ドラム……だけじゃなくて、なんかメロディーが聞こえて……。なんか、いいなって。もう一回聞いてみたいなって」  謎の手振りをしたり髪を触ったりしながらも、懸命に言葉を紡ぐ。羽澄がこちらを見ていないことが救いだった。 「はあ。……どうも」  羽澄は小さいけれど確かな声で、会釈のように僅かに頭を下げた。 「え、と……」  言葉の意味を考えて、空白の間ができる。次に何を言うべきかと紗奈が自分のつま先を見つめていると、卒然と、砂を蹴る音がした。目を上げると、羽澄が昇降口を出て行くところだった。  紗奈は、少しの間硬直して動けなかった。無意識に息を止めていたようで、苦しくなって大きく息を吐く。 (ちょっと、私、意味不明だった?)  急に大胆な行動に出てしまったところで、それで会話が上手くなるわけでもない。  でもなんだか、胸がふわふわする。 (とりあえず話せた……よね?)  靴を履いて、外に出る。通学用の自転車が停めてある駐輪場へと向かう。  見えた空は変わらずに白く、陽の光を遮って世界を灰色に染めていた。しかし紗奈にはほんの少しだけ、明るくなったように見えた。
/16ページ

最初のコメントを投稿しよう!