3. 朝の『おはよう』

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3. 朝の『おはよう』

 次の日、紗奈はいつもの二つ結びにした髪を触りながら、教室に向かう廊下を歩いていた。  外は昨日と同じような曇り空だが、少し蒸し暑い。そのせいか、なんとなく早くに目が覚め、そのまま学校にきてしまった。  昨夜冷静になって考えたところ、やはり突然話しかけたのはいけなかったと反省した。何回も何回も、思い出しては首から上がかあっと熱くなってしまう。きっと自然なタイミングというものがあって、それが来なければ話しかけてはいけないのだ。  うんうん、と考えながら教室に入り、顔を上げて俄に身を竦める。 (羽澄君、もう来てる……)  羽澄は椅子を後ろに引いて悠々と足を伸ばし、イヤホンをつけていた。  紗奈は顔を背けて自分の席までたどり着き、窓の外に目線を固定して紺色のリュックを下ろした。手探りで椅子を引いて座ったのでガタンッと大きな音が響き、思わず身を竦める。  さすがに見られてるかもと、リュックで壁を作るようにして、その端からそっと隣を覗く。全く姿勢の変わらない羽澄に、紗奈はこっそりと胸をなで下ろした。 (もしかして、今、『おはよう』って言えるかも……)  不意に浮かんだ考えに、自分で動揺する。 (昨日失敗したばっかなのに……!) (でも、これは『自然なタイミング』じゃない?)  彼の横顔を見ながら、最初の音――『お』を発声するイメージを何度も繰り返す。  よし、と口を開け、声を出そうとした時、 「はよー、コウ」  後ろの戸から、間延びした別の声が響いて、慌ててリュックに顔を埋めた。 「……んあぁ、はよーっす」  確かに羽澄が反応したのを聞いて、顔を伏せたまま目を見開いた。 (誰だろう……、羽澄君がこんな風に話すのって。クラスの人にいたかな……?)  どうしても興味を抑えられずに、ゆっくりと顔を右に向けてみた。  男子にしては小柄な体に、すっきりと短い髪。崩さずきちんと着ている制服、丸みを帯びた眼鏡を見て、昨年同じクラスだった本田だと思い出した。 (本田君って、羽澄君と仲良かったんだ……)  本田とは特に接点もなかったので、ほとんど印象に残っていない。唯一、音楽の時に弾いたキーボードがとても上手かった記憶がある。 「……これ、ちょっとドラムうるさくない?」  本田は、羽澄のイヤホンをつけていた。 「悪ぃ。小さくする」 「……あー、いいじゃん」 「流石に長さ的にもうちょい長くないと」  羽澄の声がいつもより明るくて、ほっとするような、少し悲しいような、複雑な気持ちになる。  それでも、彼がどんなことを楽しいと思っているのか知りたくて、リュックにもたれて寝ているような格好をしながら、二人の会話に耳を澄ませる。 「そういえば昨日、B組で携帯没収された奴いたって?」 「それ俺」 「ははっ、マジ? 何時間目?」 「三時間目。世界史」 「あー、そしたらなんか音鳴ってたのって、コウの携帯かぁ」 「そっちまで聞こえた?」 「隣だからなぁ。なんで音鳴ったん?」 「イヤホン抜けた」  あはは、と本田の少し高い声が聞こえる。 「もう、ブルートゥースのイヤホン買おうよ」 「無理。金ない」 「なんか買ったの?」 「あー、この間……――」  不意に周りの音が大きくなって、羽澄の声が聞こえなくなった。はっと顔を上げると、他の生徒がだいぶ登校してきている。  羽澄と本田はまだ話していたが、女子の高い声や、賑やかな集団の声などが邪魔をして、もうこちらにまで届いてこない。 (仕方ないか……)  一つ息を吐いて、紗奈はリュックの中身を机に出し始めた。  横目に隣を確認すると、彼が楽しそうに本田と笑いあっている。 (いいなぁ……)  もっとちゃんと、羽澄と話をしてみたい――胸の中に小さな、けれど確実な願いが蕾のように膨らんだ。
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