ある狗の話

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自分と灰音さんなら、戦闘能力は格段に灰音さんが上。 俺がふざけた二つ名を引き受けることで、灰音さんの存在が薄くなるなら、それはそれでいいだろう。 「だからといって、わざわざ東風が前に出ることもないからな」 甲騎の掛布を直しながら、鬱金が言う。 「そんな面倒なことしませんよぅ」 「どうだかな。お前はいまいち信用ならねえ」 「やだな、隊長冷たい」 「己の所業を反省しろ」 かいがいしい鬱金なんていうのは、宿舎ではまず見られない。 自分を後回しにするこの人を、甘やかしたくてしょうがない奴らが、わさわさといるのだ。 やっぱりな、と俺は顔に出さないように気を付けながら、観察をする。 紅蓮に飼われ、甲騎に捕らわれ、自らの手足とするはずの俺たちにさえ手を差し伸べ。 鬱金はどんどん追い込まれていく。 それでもいいと、そう思っているんだろう。 なあ、あんたはどこに向かっているんだ? 「水をとってくる」と、水差しを持って部屋を出ていく鬱金を見送った。 些細な用事ひとつ、自分の手でしないと落ち着かないか? 「東風」 寝台の上で身を起こし、甲騎が俺を手招いた。 「なんですか?」 「兄上を頼む」 数歩近づいただけ。 寝台から落ちそうなほどに身を乗り出した甲騎に、腕を掴まれた。 ざわっと、背中を悪寒が走る。 首筋をかきむしりたくなる。 細いこの手を、力任せに振りほどきたくなる。 「は、なしてくださいっ」 「東風……私はここから動けない。だから、兄上を……」 「や、あの……わかったんで、はなして……」 相手は病人。 相手は病人。 呪文のように唱えて、衝動に耐える。 線の細い人だと思ったら、なんだこの力は。 鬱金のことを想って、振り絞ったのか。 俺が動いたらこの体は寝台から落ちてしまう。 けれど手を伸ばして助けることもできない。 振り払わないのが精いっぱいだ。 鬱金を想う気持ちが、熱になって、掴まれた腕から伝わってくる。 「兄上は生き急ぎすぎている。それが心配なんだ。だから、どうか…!」 人の身体は暖かい。 想いがこもればなおさらに。 そして、だからこそ、恐ろしい。 「甲騎。それ、人慣れしてないから、やめたげて」 静かな鬱金の声がした。 「兄上」 「大丈夫。お前が心配するようなことはない」 「でも」 「東風を放してやってくれないか? これは人に慣れていないんだ」 「東風は野生動物ですか?」 「似たようなもんだ。今、俺も手なずけている途中なんだよ」 苦笑いで鬱金が甲騎に告げる。 そっと引きはがさたから、後ろに下がって、鬱金に場所をあけた。 「隊長……マジで失礼ですよね」 「お前ほどじゃないよ」 そうだな。 俺は人から与えられたものに、同じ熱量を返せない。 甲騎に暇を告げる鬱金を眺めながら、ため息をついた。 王宮や軍本部に来るのは、疲れる。 人が多すぎて。 宿舎に帰る道々、鬱金がどうしようもないなというように、俺の顔をのぞき込んで笑った。 「お前、甲騎もダメなんだな……誰か、いるといいんだけどなあ」 「なにがです?」 「お前の飼い主」 「あんた、ホントに失礼ですよね」
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