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教室
ざわつく教室の中、野田奏太は静かに席についていた。学ランのボタンを首元まで留め、誰とも話さず、次の授業の教科書を出し待っている彼ははたから見れば優等生に見えるだろう。しかし、奏太はそんなものを目指していない。ルールを守ることで、自分の存在を消したいだけだ。
「ハンバーガー食いてぇ」
誰かのひときわ大きな声が教室を響かせた。鈴井だ。長身で軸のぶれない身体。派手な色に髪を染めた彼とクラスの男子の中心にいた。
奏太は息を潜めて自分の気配を消そうとしたが、無駄だった。彼の爬虫類のような目がこちらを捉えると、教室の端にいる奏太に向かって叫んだ。
「おい、野田ァ、ちょっと買いに行ってきてくれね? 十人分」
取り巻きたちがにやにやと笑っている。鈴井がこちらに来ると彼らも金魚のフンのようについてきた。彼が奏太の前で身を屈めると、銀色のネックレスに通された指輪が揺れた。
その銀色の鎖の先に見えた彼の鎖骨にドキッとしてしまい、奏太は目を伏せた。
奏太はゲイだ。
鈴井に好意を抱いてなどいないが、不意に男の色香を感じると本能的に胸が高鳴ってしまう。そんな自分に嫌で、奏太は唇を噛んだ。
「おい、こっち見ろよ」
鈴井は凄むが、目を合わせる勇気がない奏太は、目の前で揺れる指輪を見つめる。小さな青い石が埋められた指輪は美しい。しかしその持ち主の心は醜悪だ。
「なあ、いいだろ、お前、金持ちなんだからよ」
確かに奏太の家は裕福だ。
実際、ハンバーガーを十人分買ったところで、痛くないほどの小遣いももらっている。しかし、金の問題ではない。
次の授業まであと五分程度しかない。学校の近くのハンバーガーショップに行って帰ってくるにはあまりに短すぎる。
奏太はか細い声でかろうじて反論した。
「……もうすぐ授業だし」
「走って行けば間に合うだろ」
「ほら、行けよ」
誰かが奏太の椅子を蹴った。奏太は驚きと恐怖に立ち上がると、鞄から財布を取り出して、一目散に駆け出した。教室を出る時、鈴井の笑い声が聞こえてきた。
「あいつ、マジで行きやがった」
(こんなの、大したことない)
こんな風に黙って従い、心を開かなければ、自分が同性愛者だとバレることなどない。
自分の趣向を笑われるより、暗いやつだと苛められた方がはるかにマシだ。奏太はそう自分に言い聞かせながら、上着のポケットに手を伸ばした。しかし、手に取ろうとした物はそこになかった。
「あ……、携帯……」
慌てて出てきたせいで、スマホを机の中に置いてきてしまった。彼にとってスマホは一般高校生と同じ、いやそれ以上に大切なものであった。あれがないと生活できない。かといって、手ぶらで教室に戻る勇気も持ち合わせていなかった奏太は諦めた気持ちでハンバーガーショップへと向かったのだった。
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