明日は平穏な予知夢がいい

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パンを咥えた犬が真っ直ぐに走る。それを飼い主が何か叫びながら追いかける。 その映像がぼんやり消えると、次はサッカーの試合へと場面は移り変わる。赤いユニフォームの選手から青いユニフォームの選手がボールを取り上げる。そのまま華麗なドリブルで次々とディフェンスを抜き去った青いユニフォームの選手はシュートを決めた。両手を挙げて喜ぶその憎たらしい顔がこちらを振り返って…… ピピピピピピピピピ 突如、鳴り響いた爆音が浮かんでいた映像を一瞬で掻き消す。重い瞼を渋々上げて、私はその音源を叩き消した。 「……うう」 身体が重く、全然寝た気がしない。でも頭は冴えている。私はベッドから這い出ると、勉強机に置いてある小さな手帳型ノートを手に取る。更に引き出しからボールペンを取り出すと、無造作にペンを走らせた。 パンを咥えた犬、走る飼い主。サッカーの試合、青チームの選手がシュート。 早く書かなければ。忘れないうちに早く。 私は必死に書き残す事に集中する。 だが、集中のし過ぎだろうか。後ろから近付く邪悪な気配に全く気付かない。 「振り返った弟の顔が憎たらしく……」 背後から聞こえた低い声に心臓が飛び上がりそうになる。驚いて息を飲むと、慌ててノートを閉じた。 「何で隠すんだよ。俺にも見せろっていつも言ってるだろ」 そろりと振り返ると、そこには案の定、弟が立っていた。ヨレヨレのパジャマ姿に救いようのないレベルの寝癖。朝だというのに清潔感の欠片もない。 「ほら、貸せよ」 愚弟は私の許可も取らずに勝手にノートを手に取った。どうせ毎日の事だからと見逃してはいるが、この横暴な性格はなんとかならないものか。 呆れる私を他所に弟はペラペラとページを捲った。 「今日の予知夢も当たるかどうか確認してやるよ」 「……勝手にすれば?」 ニヤニヤ笑う弟を置いて私は部屋を後にした。 いつ頃からだったか、覚えてすらいない。 しかし、物心ついた頃には私の見る夢はおかしなものばかりだったと記憶している。怖くもなければ楽しくもない。妙に現実味を帯びた、ただの日常を切り取っただけのような夢。それをいくつも見る場合もあれば、一つだけで終わる場合もある。これが予知夢かもしれないと気付いたのは、小学三年の頃。あの時は自分の秘めたる能力に飛び上がるほど喜んだんだっけ。 ただ、一つだけ問題がある。起床して暫くすると夢の内容を忘れてしまう事だ。だから朝起きると何よりも早く夢の内容を書き記す。これが小学生の頃から現在に至るまでの私の習慣だ。 因みに私の予知夢はこれまで外れた事がない。つまり、百発百中なのだ。 弟はノートをじっくり見ている。そして大して面白くなさそうに「ふーん」と呟くと、冷めた目付きでこちらを振り返った。 「まーた在り来たりな内容だな」 「そんな事ないわよ」 「だって犬が逃げるのも俺がシュートを決めるのも珍しい事じゃねーし」 弟はノートを机の上に雑に放ると、フンと鼻で笑った。相変わらず憎たらしい性格をしている。 「災害の予知くらい出来れば褒めてやるのになぁ」 冷ややかな視線を送り続ける弟を、私は睨み返す。 「何事も練習が必要なのよ。こうやって回数を重ねる事でいつか人の役に立てる予知夢が見られるようになるわ」 「練習なぁ。寝て夢見てその内容を書くだけなんだから、楽なもんだよな」 半笑いでそう吐き捨てると、弟はさっさと部屋を出て行った。 本当にいちいち癪に障る。あーあ、アイツにノートを見られたりさえしなければ、こんな不快な気分にならなかったのに。 中学時代の自分の失態を思い浮かべ、私は溜め息をついた。 とはいえ確かに弟の言うとおり、私が出来る予知はこの程度のもので、災害や事件など、みんなが本当に知りたがる出来事を予知した事は一度もない。 しかし、私はまだ17歳の高校生。まだまだ伸び代はある筈だ。 人の役に立つ予知をする。それが私の夢なのだ。 その日は唐突にやって来た。 朝、目が覚めた私は暫く放心した後、事の重大さに気付き、顔を青くして部屋を出た。フラフラと覚束ない足取りで向かったのは、弟の部屋だった。 「何だよ朝っぱらから。てか入るならノックしろよ」 弟はまだ布団の中だった。私が入って来たのを確認すると、鬱陶しそうに顔を歪めてまた布団を被った。 私はそれを無理やりひっぺ剥がした。 「何すんだよ!」 「大変なの。早く起きて」 「今何時だと思ってんだよ!」 言われて時計に目をやる。するとそこには普段起きる時間より一時間近く早い時刻が表示されていた。 「あ……」 「分かっただろ?頼むから寝かせろ」 弟はまた布団を被ろうとした。 「ちょっと待ってよ」 「待たない。おやすみ」 「話だけでいいから聞いてよ!」 「あーっ!うるせえな!じゃあさっさと言えよ!」 ヤケクソのように叫んだ弟の耳に、私もヤケクソのように言い放った。 「今日、この街に隕石が落ちるよ」 しんと静まり返る部屋。暫くしてもそもそと布団から顔を出した弟からは、さっきまでの威勢の良さが消えていた。 「……マジ?」 半分笑ってはいるが、その表情には困惑と焦りが伺える。 「うん……」 またしても静まり返る部屋の中。突然の事に中々頭が回らなかった。 ━━━━目を開けるとそこは宇宙だった。 ふわふわと無重力に身を任せていると、突如とてつもない力で私の体は後ろへ吸い寄せられる。振り返ると目の前には地球のような惑星が迫っている。やがて大気圏に突入した私の体は燃え、遠くに日本列島のような陸地が見えた。 ここで場面は見慣れた街の上空へと転換する。普段と変わらず日常を過ごす人達。私の体は猛スピードでそこへ落下していく。 ふと真下を見る。そこには、どこかへ駆けて行く私の姿があった。 「どう思う……?」 一通り夢の内容を話すと、私は弟が反応するのを待った。 「そりゃ、隕石だろうな」 「……だよね」 二人して再び黙り込む。突然こんな未来を突きつけられても、どうすればいいのか分からない。いくら考えても考えても「どうしよう」という言葉が頭をぐるぐる回るだけで何も浮かばない。冷静になんてなれない。 しかし、弟は違うらしい。 「その隕石ってどのくらいのサイズだったか分かるか?」 弟は至って普段通りだった。いや、普段通りを装っているだけなのかもしれない。でも、私には随分頼もしく見えた。 「それは分からない、けど凄い勢いだった」 そうだ。あの勢いでこの街に突っ込んで来るのだ。例え小さなサイズのものでも、受ける損害は相当なものだろう。私は勿論、家族も友達もこの家も、街中が粉々に吹き飛んでしまう。 「ど……どうしよ……」 チラリと弟の方を見る。弟は目を瞑り、腕を組んでじっと考え込んでいるようだった。何か策を練っているらしい。 暫くすると弟はクワッと目を開き、こう言った。 「知らせるしかない」 そう言うと、弟は勇ましく立ち上がった。 「親、隣、近所、友達!とにかく大勢の人に知らせて避難を促す!」 さぁ行くぞと言わんばかりの 弟の迫力に押されてポカンとしてしまった私だったが、直ぐに正気を取り戻した。生き急ぐ弟の腕を掴むと、必死にこちらへ引っ張った。 「ちょっと待ってよ!」 「何だよ!」 「映画じゃないんだから!そんな話誰も信じないって」 「じゃあそれ以外に方法あるのかよ!」 「分かんないけど!それじゃ恥かくだけだよ!」 私たちの意見の対立は収まりそうにない。一体なんで普段は姉の私に対して減らず口ばかり叩く弟が、急に私を全面信用してこんな暑苦しい行動に出たのか。 その答えは直ぐに分かった。 「折角姉貴の力が役に立ちそうなのに!何もしないままでいいのかよ!」 この言葉を聞いた時、目が覚めたような気がした。 弟は私の力を疑うどころか、期待してくれていたのだ。いつかこの力が人を救えるほど大きなものになると。だから素直に私の言葉を信じ、いつもならあり得ない大胆な行動に出ようとしたのだ。 「……普段からそのくらいの可愛げがあればいいのに」 そう言うと弟は途端に焦ったように「違う!」なんて叫び出した。分かりやすい奴だ。 「でも、確かにアンタの言う通りだね」 私は弟と同じく、勇ましく立ち上がった。 「予言者がこんなじゃ駄目だよね」 まさか苦手な筈の弟に気付かされるなんて。 あんなに人の役に立ちたいと願っていたのだ。今、行動に移さなくてどうする。 弟は焦った表情のままで何か言いたげに私を睨んだ。いつものように暴言でも吐こうとしたのだろう。しかし、直ぐに思い直したようだ。少し俯くと、今度は恥ずかしそうに私から目を逸らした。 「や、やるって言うんならそれでいいんだよ……」 つかつかと歩き出した弟を私は微笑ましげに後ろから見つめた。愚弟の細やかな成長に思わず感慨深くなってしまったのだ。 自分達が置かれている危機的状況をすっかり忘れて。 夕刻。すっかり西へ傾いてしまった太陽を背に、私達は肩を落として歩いていた。 「ぜんっぜん駄目じゃん……!」 「どうすりゃいいんだコレ……」 結果は惨敗だった。 あの後、直ぐに親に隕石の事を訴えたが、冷たく鼻であしらわれた。それでも説得を試みたのだが、早く学校へ行けと叱られ、私達は渋々家を出たのだ。 しかし、私達だって簡単には諦めない。次に友達にチャットアプリで一斉にこの危機を伝えた。これで取り敢えず噂にはなるだろうと期待を込めて。だがその期待も虚しく、友達には悪質なスパムだと勘違いされて敢えなくアカウントをブロックされた。 しかし、私達はまだまだ諦めない。学校に着くと職員室へ向かい、一から十まで隕石による危機を事細かに説明した。すると悲しい事に追い出された。 私達は学校をボイコットすると、最寄り駅の前で通り過ぎる人々に訴えかけた。その結果は、もう想像するに難くないものだった。 私達は途方に暮れた。だって誰も聞く耳を持たないから。 「……やっぱり、最初に私が言った通りだったね」 私は歩く足をピタリと止めた。そして不服そうに振り向く弟を他所に近くのベンチに腰かけた。 「諦めるのかよ」 「諦めるよ。だって疲れたもん」 アンタはそうじゃないの?そう目で訴えかけると弟は決まりが悪そうに視線を逸らした。 「何で……そう思うんだよ」 「もう時間がないからだよ」 私はカラッと晴れた青い空を指差した。 「私が見た夢では空が晴れてた。隕石が落ちる時、空はまだ明るいって事だよ」 そう言われて弟はやっと気付いたらしい。慌ててスマホを取り出し、時間を確認している。 「もう六時を越えてる。じきに日も傾いてくるよ」 弟は私の言葉に何も言い返せないようだった。悔しそうに顔を歪めて俯くばかりで、私の方をちっとも見ない。 一方で私はというと、弟とは違い、酷く落ち着き払っていた。 きっと、自分が助からない事に薄々気付いていたからだろう。 「ここからは私一人でやるから、アンタだけでも逃げて」 弟が目を見開く。混乱しているであろう彼を慰めるように、私は精一杯の笑顔を作った。 「アンタはよく頑張った。だから、もういい」 「良くなんかねーよ!逃げるなら姉貴も……」 「私と一緒にいたらアンタも死ぬよ」 だって隕石は私の頭に落ちるんだから。冷たくそう言い放った。 暫しの沈黙。それを掻き消すかのような蝉の声が私達の鼓膜を揺らす。 弟は迷っているようだった。さっきからじっと俯いたまま、目をあちらこちらへ泳がせている。 死にたくはない。でもこのまま逃げるのは良心が許さない。そんなところだろう。 でもね、弟よ。迷っている時間など私達にはもうないのだ。 「じゃあね」 私は思いっきり弟の体を押すと、一目散に走り出した。 「お、おい!」 後ろから弟の呼び声が聞こえる。が、振り向いたりなんてしない。そんな事をすれば折角の決意が揺らいでしまう。 「出来るだけ遠くに逃げるのよ!分かったわね!?」 聞こえているかは分からない。でも、叫ばずにはいられない。 「今ならきっと間に合うからあああ!!」 流れる涙もそのままに、私は駆けて行く。 どんな状況であっても皆に危険を知らせに行く。そう、これが予言者の役割であり、責任。君が教えてくれた事だ。私はそれを遂行しようと思う。 だけど、これ以上君を巻き込みたくはない。死ぬ気で走って、逃げ伸びて、私の分まで逞しく生きて。 それじゃあ、さようなら。 私は空を見上げた。何の変哲もないただの青空を。大丈夫、隕石はまだ降って来ない。今ならまだ間に合う。絶対に━━━━ 「━━━━え?」 その時だった。上空を一羽のカラスが飛び去ったその瞬間、何かが落ちて来たのだ。 一瞬の事なのに随分と長く感じた気がする。徐々にこちらへ迫るそれが一体何なのか、気付いた時には手遅れだった。 ベチョッ 右肩にドロリと何かがまとわりつく感覚。途端に鼻につく不快な匂い。 恐る恐るそれを手に掬う。そこに付着していたのは、白くて、粘性をもっていて、それでいて臭くて…… 「キャアアアアアアア!!」 閑静な住宅街にけたたましく響いたのは、私の悲鳴だった。 隕石というものは、意外としょっちゅう落ちて来るらしい。ただ、その殆どが小さくて大気圏にいる間に燃え尽きて消えてしまうのだとか。だから地表に辿り着く事もないらしい。 「姉貴が見たのは、多分そんな隕石の映像だったんだと思う」 弟は落ち着いた口調で私に説明した。インテリぶって格好つけているようだが、その視線は手元のスマホに一直線。ネットの記事をそのまま読んでいるのが透けて見える。 だが、そんな事なんてどうでもいい。そのくらい私達は落ち込んでいるのだ。 カラスのフンにパニックになっていた私の元へいち早くやって来たのはやはり弟だった。あの悲鳴が聞こえたらしい。弟は半泣きの私を回収すると、すぐさま家へ連れて帰った。そしていつまでも取り乱していた私を叱咤し、風呂に入るよう促した。最早どちらが年上なのか分からなってくる。情けない限りだ。 その後は二人揃って学校を無断でサボった事を親にしこたま叱られた。学校から連絡があったらしい。私達は米つきバッタのようにペコペコと頭を下げて謝りまくった。 そして、そうこうしている内に外はとっくに暗くなっていたという訳だ。 「……ええと、だからつまり?」 弟の話は私には少し難しかったようだ。さっきから何度も同じ事を聞き返している気がする。 「だーかーらー!お前が最初に見た宇宙から地球へ落下する映像あっただろ?アレが隕石の映像。で、その後のは正真正銘、カラスのフンの映像だったって事!」 あぁ、そうだったのか。と納得すると同時に、部屋には重苦しい沈黙が漂う。 あの時間は何だったのだろう。人目も憚らず必死で奔走したあの時間は。意味もなくあんなに焦って、馬鹿みたいだ。これから私達は学校をサボり、大声で嘘を吹聴しまくった奴らとして扱われる事だろう。想像するだけでおぞましい。 私はチラリと弟を睨んだ。すると、弟もこちらを睨んでいるではないか。 「……何よ」 「いや?別に?」 きっと私達は互いに思っているのだろう。こうなったのはお前のせいだ、と。 しかし、不思議な事だ。 最悪だと思っているのは確かなのに、心のどこかで悪くなかったなと思っている自分もいるのだ。 客観的に見れば、間違いなく意味のない時間だっただろう。だけど、自分にとってこの思い出が必要になる時が必ず来る。そんな気がしてならないのだ。 予言者の予感なのだから、きっと間違いないだろう。 弟はきっとこんな事は思っていない。朝から大袈裟に騒いだ私を恨んでいるのだろう。 私はそんな弟をフフンと笑ってみせた。 「何だよ」 怪訝な表情でこちらを睨む弟に、私ははっきりと宣言した。 「私、諦めないから」 「……は?」 弟はより一層眉を寄せて、私を睨みつける。しかし、私はそんな事は意に介さず堂々と言い放つ。 「これからも予知を続けるから」 弟と私のにらめっこは数分続いた。鬱陶しそうに顔をしかめる弟に対して、私は笑みを浮かべつつ目力を込めて彼を睨んだ。 やがて弟は深く溜め息をつくと、 「どうぞご勝手に」 と捨て台詞を吐き、静かに部屋を出ていった。 一人残った私は自分の頬をパチンと軽く叩いた。 今日こそは人の役に立つ夢を見るぞ。心の中でそう叫んで。
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