小さな宝箱

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 初めはきょとんとしていたアベルだったが、彼もこの状況に苛立ってきたようだ。顔つきがだんだん険しくなり、忌々く不機嫌な顔でベンチに座っている。  あおいがゲームを切り上げて逃げようかと思案し始めた時、あおいの腕を赤シャツが掴んだ。あおいがアベルに目で助けを求めると、アベルは赤シャツを射抜くような目で睨みつけて静かに怒っていた。そこへ、鼻ピアスがさっと移動し、立ち上がろうとしたアベル目の前に立ち塞がる。 「ねえねえ、ポニーテールの君さ。そんなに怖い顔しなくてもいいじゃん。せっかくかわいいんだから」 「俺は男だ。いい加減にしろ」  アベルは鼻ピアスを押しのけて立ち上がり、低く唸るように言った。そして鼻ピアスの胸ぐらを掴んで、今にも切りかかりそうなほどの殺気をぶつけている。鼻ピアスの方がアベルよりも背が高いので、引きずられそうな格好だ。  鼻ピアスは必死の形相でもがいているが、アベルは上手く押さえ込んでいる。鼻ピアスは全く抵抗できない。  赤シャツは唖然として、わたしの腕をそっと放した。更にアベルが赤シャツにもひと睨みすると、彼は一瞬で青ざめてしまった。冷や汗をかきながら足をもつれさせて、鼻ピアスと共に一目散に逃げて行く。  殺気立ったアベルは、手のひらサイズだった時とは比べものにならないくらいの迫力と凄みを纏っていた。あおいですら、そばに居るだけで腰も抜かしそうだった。  アベルそんなあおいの様子に気付くと、「しまった」というような顔をした。 「あおい、ごめん」 「何で謝るの? 」 「いや、驚かせてしまったようだから……」  アベルは肩を落とし、下を向いてしゅんとしている。先ほどまでの殺気は嘘のように消え去って、すっかりしおれて落ち込んでいた。あおいは首をブンブンと横に振る。 「そんなことないわ。助けてくれてありがとう。アベルと一緒で良かったわ」  そう言ってにっこり笑うと、アベルは「そうか」と、ほっとしたように微笑んだ。  ボウリング場を後にし、近くの食堂で食事をした。帰宅する頃にはすっかり暗くなっていて、夜空に丸い月が浮かんでいる。  あおい達はいつの間にか手を繋いでいた。あおいにはアベルの体温が心地よく、ごく自然に馴染んだ。それはアベルも同じで、互いがそのことに気付いてからもずっと手を繋いだまま、二人並んで帰路についた。  玄関に入るなり、アベルはあおいを呼んだ。それは慈しむような、とても優しい声だった。彼は陽だまりのように穏やかな、けれどひどく神妙な顔つきであおいを見ている。まるで運命と取り組むかのような、真剣な表情だった。 「アベル? どうしたの? 」  あおいの返事に、アベルは押し黙っている。すると彼が身に着けている指輪の一つを外し、あおいにぎゅっと握らせた。  それは艶のある金色の細身の指輪で、外側の全面に唐草模様に似た美しい彫刻が施してある。よく見ると、指輪の内側に小さな白い石が一粒はめ込まれていた。 「あの、これ…… 」  あおいが戸惑ってアベルの顔を見ようすると、次の瞬間には彼に抱きしめられていた。あおいはそれを理解するのに数秒かかった。そしてわかった瞬間からは、血が逆流しそうなほどの緊張に襲われる。 「俺には返す物が何もないから……君は、あの根付けの石をむーんすとんと言ったか。イアサントにもよく似た石があって、守り石として身に付けるんだ。その指輪にも同じ石が付いている」  アベルはあおいを抱きしめたまま話し続ける。あおいの耳元にかかる彼の息がこそばゆい。けれど、ひどく心地よかった。 「今日は初めての事ばかりで楽しかった。根付の礼だ。この指輪は君が持っていてくれ」  抱き合ったまま、アベルはあおいの顔を覗き込む。あおいは彼の顔が目の前にあるのが照れくさくて、どこを見ていいのかわからない。おもわず目を泳がせながら、ちらりと彼の顔を伺う。 「ありがとう……ムーンストーン、ね。そんなの気にしなくても、いいのに」  いや、とアベルは軽く首を横に振った。 「今までありがとう。君と出会って、俺が守ろうとしていた物の正体が分かった気がするんだ。幸せがどんなものかもわからずに、ただがむしゃらなだけだったから」  抱き合ったまま、アベルはあおいの頬を自身の手のひらで撫でた。あおいが思わず彼の目を見ると、アベルは幸せそうに笑っていた。けれど、あおいには彼の優しい微笑みが却って苦しかった。あおいはぎゅっと胸を締め付けられるような痛みに襲われる。 「けれど、俺はそろそろ帰らないといけないらしい」 「……なんで分かるの」 「呼ばれているんだ」  静かに、はっきりとアベルは言った。悟ったような、まっすぐな目をしている。 「そんなの、急すぎるわ」 「俺だって嫌だ。でも、俺はこの世界の人間ではない。俺たちはもともと、相容れない者同士なんだ」  あおいいつの間にかは泣いていた。涙が頬を伝って、アベルの肩を濡らしている。彼の赤茶けた髪が揺れて、あおいの頬に張り付いた。 「きっと、これが今生の別れになるだろう。だから、今だけはこのままで居させてくれ」  そう言って、アベルはあおいを抱く力をより一層強めた。  どのくらいそうしていただろう。数秒だったかもしれないし、数分だったかもしれない。暖かくて離れがたくて、大事な時間だった。  やがてどちらからともなくそっと離れると、いつの間にかアベルの体が透け始めていた。  つい先ほどまでアベルが着ていた筈のパーカーは、いつの間にか廊下に置かれていた。そればかりか脱いで立てかけてあったはずのサーベルや甲冑を、アベルは既に身に纏っている。頬のテープも消えてなくなり、傷以外は宝箱から現れた時と同じ姿になっていた。  アベルの周りの空気がきらりと輝いた。更にホタルが飛び交うような光も舞い始め、どんどん幻想的な雰囲気に変わっていく。その間にも彼はどんどん透けていき、あおいにはもう触ることもできなくなっていた。  やがて微かに銃や刃物がぶつかるような音が聞こえ始める。遠くに悲鳴や怒号も聞こえ、それはあまりにも生々しい。あおいはぶるりと震え上がった。  あおいは恐ろしくなってアベルを見ると、彼は「大丈夫」と言ってふわりと笑った。けれどその瞬間、アベルは消えてしまった。音も悲鳴も、もう何も聞こえない。  あおいはしばらくの間、その場から動くことができなかった。長い夢をみていたかのような気持ちで、ぼんやりとアベルに貰った指輪を見つめる。上がり框に腰掛けて、ただじっと眺め続けた。  やっとの思いで部屋に上ると、宝箱がこたつの上にちょこんと乗っている。中を覗いても空っぽで、もう何も出てくる気配はない。  もはや別の物だったのではないかと思うほど、すっかり何の変哲もない小箱に変わったようにすら見えた。  あおいは鞄から2人で撮ったプリントシールを取り出した。並んで笑っていたのがつい数時間前の事なのに、ずっと遠い昔のようだ。「胸にぽっかり穴が空いたみたい」というのはきっとこの事をいうのだろうと、あおいはため息をついた。アベルは今もどこかで戦争している。そう思うとやりきれなかった。  翌日、あおいは宝箱を買ったアンティークショップのことを思い出した。そういえばアベルが現れて以来、ずっと忘れていた事に気づく。あおいは、あの店に行けば何か手がかりが見つかるかもしれないと思い至った。  一縷の望みを懸けて、あおいはバイト帰りに店へ向かった。しかし、アンティークショップだった筈の店はなく、変わりにケーキ屋が建っていた。奥まった路地も見当たらず、ケーキ屋は大通りに面して建っている。  あおいが店主に聞くと「アンティークショップなんて知らないし、そもそもここで10年前からケーキ屋をしている」と言っていた。  完
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