弱冷房車

1/1
14人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
 改札を急いで通り抜けた瞬間、終電車の発車音が鳴り始めた。  間の悪いことに、エスカレーターには「点検中」の札が、あざ笑うかのように揺れている。頭上で鳴り続けている発車音を聞きながら、俺は必死に階段を駆け上った。頼む、まだ鳴りやまないでくれ!あと3秒、いや2秒!運動不足の脚を鞭打ちながら、一段抜きで飛び続けた甲斐あって、何とか閉まりかけたドアの隙間に飛び込むことが出来た。  走り出した車両の揺れに抗いながら荒い呼吸を整える暇も無く、たちまち汗が全身から吹き出し始めた。蒸し暑いこの季節、全力疾走で階段を駆け上ったことの当然の結果と言えるだろう。たまらん。しかもこの車両はどうやら弱冷房に設定しているらしい。全然涼味が感じられず、むしっとする車内の空気が発汗する俺の全身を包んでまとわり続けている。終電車特有の混雑もあって人いきれも物凄い。額から滴る汗が足下にポタポタ落ちる。下着はとっくに水浸しのようになり、上着にも内側から汗沁みが浮かび始めている。俺の隣に立った女が、滝のように発汗する俺の様子に眉を顰めている。「こっちだって汗かきたくてかいてるんじゃねえよ!」と叫びたいのを我慢して、俺は隣の車両へと移動を始めた。他の車両なら少し冷房が効いてるかもしれない。  重い引き戸を開けながら隣の車両に移ってみたが、あまり状況は変わらない。相変わらず蒸し暑い空気が俺を包んで放してくれない。汗は相変わらずだらだら流れ続けている。やめてくれ。なんとかしてくれ。暑くて死にそうだ。ただ、乗客の数が少し減って密度が薄くなったような気がする。さっきの車両よりは、雰囲気だけでもましに思えた。  その次の車両はさらに人が少ないようにも見える。この際なんでもいい。とにかく、少しでも暑苦しくない所に行きたい。重いドアを開けて、俺はさらに隣の車両に移動した。  相変わらず冷房の効きは弱い。むしむしする空気に塞がれた毛穴が苦しそうにあえいでいる。くそ、電力をケチってやがる。それでもまた少しばかり人がへったせいで、雰囲気の方はほんの少しばかり涼しくなったような気もする。俺はさらに後ろの方へと車両の移動を続けた。  そして、何両目かのドアを開けた瞬間、ひんやりとした心地よい空気がいきなり俺の全身を包んだ。思わず歓声をあげそうになる。この車両はちゃんと空調が効いている!なんてすばらしいんだ!やれば出来るじゃないか。今までのは何だったんだろう。たまたま今までの車両の設定があまりにも弱冷房にしすぎていたんだろう。でも、夏は、このぐらいの方がまともというべきだ。たちまち俺の全身から、乾燥室にでも入ったみたいに汗が引いていく。  乗客も、もはや殆どまばらで、数えるほどしかいない。俺は安堵のため息をついてシートにゆっくりと腰を下ろした。がらあきの車内で妙な解放感に浸りながら、床に思い切り脚を伸ばしてみる。  まったく、隣の車両とは天国と地獄ほどの違いだ。それにしても、なんでみんなこっちに来ないんだろう?ふと一両前の車両の方を見やった俺の目に、妙な光景が映った。  俺は運転台の背面を見ているのである。  先頭車両同士が接続された電車の運転台の背後の壁が俺の目に映っているのだ。  そんなばかな。あり得ないことだ。俺はずっと車両間の引き戸を開けながら普通に車両を移動してきただけだ。もしそういう編成の電車だったとしても、どうやって、俺はさっきの電車の車掌室とこちらの運転台を通り抜けて今ここに座っているというのだ。  立ち上がって恐る恐る運転台の方へと歩き始める。運転席には当然のごとく、誰の姿も見えない。こっちの車両は引っ張られているだけなのだ。目を凝らしてみるとさらに向こうの方にさっきの電車の車掌室が見える。無表情な40絡みの車掌が棒のように突っ立っている。  あれ?そもそもなんで真ん中の連結部分に車掌が乗ってるんだ?  と思った瞬間、その車掌の姿が見る見るうちに遠ざかり始めた。向こうの車両の最後尾の正面も小さくなっていく。連結が外れたということか?  まずいぞ、これは事故じゃないか。このままじゃこっちの車両は線路に置き去りにされてしまう。  思わず俺は誰も乗っていないこっちの運転席の窓を後ろからバンバン叩いていた。 「ちょっと!連結が外れちゃったんじゃないの!?どうなるんだよ!?」  怒鳴ってみてから、改めてそこに誰も乗ってないことに気付いた俺は、もうどうしていいのかわからなくて、思わず後ろを振り向いた。  ついさっきまでがらあきだった車両が、超満員の乗客でひしめいていた。 だが、みな一様に異様な姿をした者ばかりだった。裂けた腹から飛び出た内臓を引きずる者。首の無いもの。割れた頭蓋骨から脳味噌をこぼしている者。その一人が俺に向って言った。 「電車内ではお静かに」  その瞬間、乗客全員の笑い声が車内に響き渡った。一層ひんやりとした空気が俺の首筋に触れた。 [了]
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!