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アパートに帰るという圭人が心配で、一希も付き添って電車に揺られてきた。 初めて会った圭人の彼氏は、想像よりもずっと駄目な男だった。 アパートに着いたのはちょうどお昼頃。 彼氏はまだバイトの時間ではないので家にいるだろうとチャイムを鳴らしたら、中でバタバタと音がしている割になかなか出てこない。早く出ろよと一希がイライラしてると、圭人が突然表情を変えて、持っている自分の鍵でドアを開けた。 靴を脱ぐ間ももどかしく、ダイニングを抜けて奥の部屋の扉を開けると、中にいたのは圭人の恋人だけではなかった。 パンツ1枚で慌ててスウェットを履こうとしている男と、妙に丈の短いワンピースを着て、乱れた髪を直している女。そんな2人を呆然と眺めている圭人の背中が震えている。 誰も言葉を発しない中、身支度を整えた女が申し訳なさそうに一希達の方へ歩み寄ってきた。 「もしかしてあの人と付き合ってるの? 誤解しないでね〜。あたし浮気相手じゃなくて、ただのデリヘルだから」 女はそう言いながら、数枚の紙幣を見せながら2人の横を通り抜け、部屋を出て行った。直後に圭人が声を発した。 「…何考えてんだよ」 責められた男は不貞腐れたような表情で、ベッドの上で胡座をかいた。尖らせた唇の横には、圭人に殴られた時にできたらしい小さな傷がある。 「だって、昨夜お前が途中で出てったから、最後までできなかったし」 信じられない事を言い放つ男は、画像で見るよりずっと幼い印象だった。さらに男は、圭人の後ろに立つ一希を上目遣いで睨み付けてきた。 「お前だって、何だよその男。もう新しい男見つけたのか?」 「ああ、そうだよ。家賃も生活費も払わねえのに、デリヘルに金使ってるようなクズと付き合ってられるか」 圭人は意外なほどしっかりした声でそう言い放ち、壁に備え付けられているクローゼットの扉を開けて、奥の方から通帳と印鑑を引っ張り出した。 「お、おい。出て行くつもりか?」 慌てて恋人の腕に縋る男の手を、圭人は勢いよく振り払った。 「汚ねえ手で触るんじゃねえよ。この部屋はてめえの名義になってるからな。てめえで何とかしろよ」 「な、ま、待てよ。こんな事で…」 「こんな事だあ?」 今にもキレそうな圭人を見て、男は青ざめている。散々甘やかしていたようなので、キレた圭人を見るのは初めてなのかもしれない。 「おい、お前」 怒りのせいか、言葉を詰まらせている圭人に代わって一希が声をかけると、男は大袈裟な程ビクッと驚いた。 「あんたもう成人してんだろ? なのに未成年に水商売させて家賃払わせて、挙げ句の果てにデリヘルって。自分が同じことされたらって考えたことあるか?」 話しながら近付いていくと、男は不安そうに一希と圭人を交互に見比べる。何とか抑えている一希の怒りを感じ取っているのか、圭人には助けを求めるような目線を送っている。だが当然、圭人は素知らぬ顔でその目線を受け流した。 「まあ、そうやって考えられる奴なら、もうちょいマシなセックスができるか」 続けた一希の言葉で、男の顔が真っ赤になる。プライドを傷付ける事に成功して、一希は踵を返した。 「行くぞ」 「ああ。俺の荷物は勝手に処分してくれていいから。じゃあな」 圭人はダイニングのテーブルに鍵を置き、一希に続いて玄関を出た。 「…大丈夫か?」 「ああ。なんかスッキリしてる」 そう言って廊下を歩き出す圭人の表情は明るかった。もしかしたら後で思い出して悲しむ事もあるかもしれないが、とりあえずあの男と別れた事に一希もホッとした。 その後、圭人の勤め先のゲイバーに2人揃って顔を出した。 暫く一希の家に泊まりに来る事になったので、圭人はクビになっても仕方ないという覚悟で長期休暇を願い出たのだ。 バーのママさんはとてもいい人で、快く休暇を受け入れてくれて、前に一希も会ったことがある男も含め他の従業員達も、圭人の体調を心配してくれていた。 一希が住む町に帰った頃には、もう電車も授業を終えた学生達でごった返していた。今日は深夜バイトが入っているはずの名城とは何の約束もしていないが、圭人が会ってみたいと言うので、事の顛末を報告しに行く事になった。 「あ、帰ってるな」 アパートの入り口にある集合ポストを確認すると、出るときに入れたはずの鍵が無くなっていたので、そのまま階段を上がって名城の部屋へ向かう。 自分がセックスで骨抜きにされた相手を親友に紹介することに抵抗はあるが、名城にも圭人の事を色々と相談していたので紹介するのが礼儀なのかもしれない。 そう自分に言い聞かせながら階段を上りきると、向こうの方から「有、早くしろよ!」という女の声が聞こえてきた。 一希は咄嗟に圭人の手を引いて、さらに上の階へと続く階段を上って身を潜めた。 「どうしたんだよ」 「有って、名城さんの名前」 「え」 状況を理解した圭人も、一希と同じように息を詰める。2人は出掛けるところのようで、急かすように名城の名前を呼ぶ女の声は、なかなか部屋の前から動かない。 「腹減ってんだから、早くしろって」 「相変わらずせっかちだな。大体、来るなら事前に連絡入れろよ」 「どうせお前の用事なんて、バイトか女くらいだろ」 「悪かったな」 どうやら相当気心の知れている相手らしい。遠慮のない会話を繰り広げながら近付いてきた声は、階段を下りて遠ざかっていく。 完全に声が聞こえなくなってから、圭人が静かに声をかけてきた。 「…別に隠れることなかったんじゃねえの?」 「え」 「彼女かどうかもわかんねえし」 「ああ…」 「ま、とりあえず今日は諦めてお前んちに行くか」 あえて明るく振る舞ってくれる圭人に続いて階段を下りるが、つい無言になって考え込んでしまう。 人を寄せ付けない名城が気兼ねなく過ごせるのは自分だけだと、どこかで思い込んでいた。 まだ知り合って数日なのにと、自分の思い上がりが恥ずかしくなる。 校内では女をとっかえひっかえしている以外でつるんでいる人間は見た事もないが、校外にはいるのかもしれない。中学時代の名城を知らない一希には、名城がどんな風に仲間や後輩達に接していたのかもわからないのだ。 ゆっくり階段を下りていた一希達が一階に着くと、1人の男が名城の部屋のポストを開いていた。 「あー、あったっす。じゃあ、先に部屋に入らせてもらってるんで。はい、失礼しまーす」 携帯の通話を切りながら振り向いた男は、一希と同じ制服を着ていた。思わず顔を確認するようにじっと見ると、それに気付いた相手は一希を見て一瞬で顔を顰めた。その顔に見覚えはなかった。転入したばかりで、その上クラスメイトの顔さえ覚える気のない一希は、ただでさえ見知った顔が少ない。 黙って通り過ぎようとしたが、意外にも向こうから声をかけてきた。 「なあ、お前。今年からうちに転入してきた奴だよな?」 「…そうだけど」 「有先輩とどういう関係?」 「え…」 すぐに答えられなかったのは、セフレとしか言い様のない関係が不本意だったからでもあり、人にわざわざ公表するには後ろめたい関係だからでもあり、しかしそれ以上に「有先輩」という呼び方が一希の胸を騒がせたせいだった。 「有先輩の女関係の揉め事に割り込んだって噂もあるけど」 「あ、ああ」 「ふーん」 ジロジロと見定められている気分で落ち着かない。いつもだったら睨み返すところだが、名城と仲が良いのかもしれないと思うと、なぜか目を逸らしてしまう。 「あのさ、余計なお世話かもしれないけど、有先輩を独占するのはちょっと遠慮してくんねえかな。ただでさえバイトが忙しくて彼女と会ってねえみたいだし」 「…彼女?」 「そ。今、2人で飯食いに行ってるけど、久々にここに泊まるらしいから俺もちょっとだけ話したらすぐ帰るし、お前も今日は空気読んでやってほしいわけ」 わけ知り顔の男の態度に優越感が見え隠れしていて、胃の辺りがザワザワしてくる。名城と知り合ってから覚えた、嫉妬という感情だ。 「…特定の恋人は作らないって、名城さんは言ってたけど」 「あー、有先輩まだそんなこと言ってんだ。あかりさんが許してるからって。確かに何もしなくても女が寄ってくるからな、あの人。でも結局、元サヤに納まるんだよ、中学の頃からずっと」 一希が対抗して言い返した事にイライラしているようだ。自分の方が名城のことをわかっているような言い方に、一希の方も、嫉妬を超えて怒りに感情が変わってしまいそうだ。 「そういうの聞いてないってことは、そこまで深い付き合いでもないんだな。中学の頃の話とか聞いてない? 凄かったんだぜ、この辺じゃ敵無しって感じで…」 「おいおい、昔話はいいからさ」 割り込んできたのは圭人だった。もう少し遅かったら、男を黙らせる為に一希の拳が飛ぶところだった。 「こいつの話は何か聞いてないのか?仲良しの有先輩から」 「…なんだよ、こいつの話って」 一希の肩に腕を置いて問いかける圭人を、男が不愉快そうに睨み返す。どうやら相当な負けず嫌いのようだ。 「それは簡単に話せるような事じゃないからさ。本人に聞いてみろよ。教えてくれるかどうかは保証できないけどな」 「はあ? 何だよ。こいつの事なんだろ?」 「いや?こいつのっていうか、2人の事だから」 相変わらず圭人は人の神経を逆撫でする言い方がうまい。昔から、ちょっとした小競り合いで済みそうなケンカも、圭人のこの物言いが度々騒ぎを大きくした。口下手な一希はそれでスカッとすることも多いが、後始末が面倒になる事も多い。 今も、悔しそうに顔を顰めている男をどうしたらいいのか一希にはわからない。どちらにしろ今日は撤退するしかなさそうだ。 先程の女が本当に名城の部屋に泊まるのか確かめたい気持ちはあったが、知ったら知ったでみっともない事になりそうだった。嫉妬に狂って何をしでかすか、自分でもわらない。 「….別に大した話じゃねえよ。とりあえず今日は帰るし…」 「一希?」 背後から声をかけられて振り向くと、名城と、その横には見たことのない女が並んでいた。 前に名城が連れていた、見るからに馬鹿な女達とは明らかに違う。上下黒のスウェットという出で立ちがだらしなく見えないのは、艶のある長い黒髪と美しく整った顔立ちのせいだろう。 制服から部屋着に着替えている名城と並んでいると、どう見ても同棲中のカップルだ。しかも女が履いているのは、いつも玄関先に置かれていた、名城愛用のサンダルだった。何て形容したらいいかわからない感情が胸を焼く。 「早くないっすか?」 「有が財布忘れたっつうから、取りに戻ってきた」 女が発する「有」という呼び名を聞くだけで頭が真っ白になり、無言で立ち尽くしている一希を、名城が不思議そうに見ている。 「どうした? また向こうに行ってきたんだろ? 何かあったのか? とりあえず、ケンカしてきた様子はねえな」 圭人の恋人に会いに行ってくるというのは、名城の部屋を出る時にメッセージを送ってあった。俯いたままの一希に怪我が無いか確かめようとしたのか、顎を掴まれそうになって反射的にその手を叩き落とした。女と一緒にいるところを見られても変わらない名城の態度で、自分達の関係を自覚する。 結局、身体だけの関係しかない自分は何の言い訳もしてもらえないのだ。名城の態度には、後ろめたささえ欠片も感じられなかった。 突然の一希の拒絶に、名城だけでなくその場にいる全員が驚いていた。 「圭人の件は片がついたから。その報告。じゃあな」 それだけ告げて、名城の返事も待たずに一希は歩き出した。圭人も無言で続いて来てくれた。 名城には伝わってないだろうが、一希はもう今までのようには会わないつもりの別れの言葉だった。
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