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地面がぐにゃりとたわむ。一歩踏み出すごとに胃液がせり上がりそうになるのをなんとか堪えるが、これ以上動くと出る。朝食のライ麦パンが出てしまう。
「大丈夫か~坊ちゃん?ヒポグリフで酔うやつなんて初めて見たぞ」
パチルは、昨日乗ったときは酔わなかったよと言いたかったが、口を開くと本格的にまずそうなので止めた。
メザリアから中間拠点である第二駐屯地に向かう際、一人ではヒポグリフに乗れなかったパチルはキーロの後ろに乗せてもらうことにしたのだが、これがもう間違いだった。キーロは凄まじく制御が荒かったのだ。
快適に移動することよりも、飛ぶこと自体を楽しむタイプらしく、風の流れに身を任せては、意味のない旋回や宙返りを繰り返した。ちなみにヒポグリフは非常に楽しそうだった。
帰りは絶対ルウの後ろに乗ろう、とパチルは今から決めていた。
パチル達は今、マイアン王国の南西部、カナル山脈の麓にあるメザリア第二駐屯地にいた。
メザリアは、協定関係にある国に駐屯地を置いて、護衛任務中の物資の補給や馬の交代、地上からの依頼の受付などの総合的な活動拠点としている。駐屯地は主に人里から離れた森の中や山に点在していたが、カナル山脈はザルド帝国との国境でもあるため、ザルド側とマイアン側双方の山越えルートごとに複数の駐屯地が設置されていた。
「どうして直接コーズ高原に行かないの?」
だんだん持ち直してきたパチルが、飛行中にキーロから預かっていたクロスボウを返しながら問う。
「ヒポグリフは肉食だから、羊の護衛にゃあ連れて行けねえだろ。一応躾けてあるとはいえ、万が一依頼主と揉め事になると厄介だから、一旦駐屯地に寄って馬に乗り換えるのさ。こいつらも普通の長期任務だと、餌は自分で獲るし水場も勝手に探すから楽なんだけどなぁ」
鷹の翼に馬の体、こんなに凄い生き物なのに何故王国で飼われていないのだろうとパチルは疑問に思っていたのだが、普及しないのにもそれなりに理由があるらしい。
メザリア第二駐屯地は馬小屋がついた大きな古い屋敷で、豪雪地帯特有の勾配のついた屋根をしていた。パチルが保護された第一駐屯地とはまた違う造りをしている。駐屯地には必ず銀等以上の護衛士二人と、三人以上の衛士が交代で一ヶ月駐在することになっているそうで、キーロ曰く、暇過ぎてつまらないから一番やりたくない任務であるらしい。
キーロが屋敷の扉をノッカーで叩くと、あまり待つこともなく扉が内側に開いた。扉を開けてくれた女性の顔を見て、パチルはあっと声を上げそうになった。そこにいたのが、昨日第一駐屯地で母と自分を迎え入れてくれた女性護衛士だったからだ。
「クリステーヌ姐さん!?」
「キーロにルウ!久しぶりね~」
クリステーヌ(キーロは年上の女性は誰でも姐さんと呼ぶようだ)はルウとキーロの知り合いだったらしい。
クリステーヌはキーロと再会の抱擁を交わすと、まるで仲のいい姉弟がダンスでも踊っているかのように、キーロに持ち上げられてその場でくるくると回転した。クリステーヌの女性護衛士用スカートが夢のように翻り、パチルは慌てて目を逸らした。
クリスティーヌは小さい子供にするようにキーロの頭を撫でると、今度はルウに両腕を広げた。
「ほら、次はルウの番よ。いらっしゃい」
「いえ、私は……」
「ルウってば、もう私とハグしてくれないの?さみしいわ……」
一度は断ろうとしたルウだったが、うるうるの上目遣いで見つめてくるクリステーヌには敵わないらしい。しぶしぶといった様子でクリステーヌを抱きしめると、満面の笑みを浮かべた彼女からヨシヨシと頭を撫でられていた。
「どうしたんすか姐さん。今は第一の駐在任務中のはずでしょう?」
「キーロもルウも訓練生の監督は初めてだって言うから、今回だけ付いていくように頭領から今朝言われたのよ。それに、この子のことも心配だったし」
クリスティーヌはパチルに右手を差し出した。
「私はクリスティーヌ。昨日は力になれなくてごめんなさい」
「パチルです。いいえ、僕が逃げられたのは皆さんのおかげです。感謝しています」
手を握り返すと、グスンと鼻を鳴らしたクリスティーヌがパチルをぎゅっと抱きしめた。初めて母親以外の女性に抱きつかれたことに驚いて逃げようとしたパチルだったが、背中を優しく叩くクリスティーヌの手があまりにも穏やかだったので、結局大人しくされるがままになっていた。
「今、頭領が貴方のお母さんを助ける方法を探しているわ。しばらく辛いと思うけれど、私たちは貴方の味方よ」
「母さんを……?」
メザリアは他国の政治的争いに干渉してはならないのだと昨日散々聞かされていたので、パチルは耳を疑った。もしかしたらイサは、パチルを訓練生として迎え入れてくれた時のように、契約の抜け穴を探してくれているのかもしれない。
「さあ、じゃあそろそろ出発しましょうか。積もる話は仕事の後よ」
「あの~、ところで姐さん。エリック兄さんは今日は……?」
キーロがそう尋ねたとき、クリスティーヌの背後の影がゆらり、と動いた。
いや、影だと思っていたものは、真っ黒なマントを着た人間だった。フードを目深に被っていたが、パチルの位置からは顔全体を覆うような白いお面を着けているのが見えた。お面には、泣いているような、笑っているような、何とも奇妙な顔が描かれていて、耳の横あたりに色鮮やかな南国の鳥の羽根がくっ付いている。
「あはは~、やっぱ兄さんも一緒なんですね……」
カクリ、と仮面男の首が傾いた。突然首が折れたかのような不気味な動きに、パチルは鳥肌が立つのを感じた。
「いえ!滅相もゴザイマセン。兄さんがいれば百人力っす」
仮面の男──エリックは一言も喋っていないのだが、キーロには彼の言わんとすることが伝わっているらしく、引きつった笑いを浮かべている。
エリックはゆっくりと首を元の位置に戻すと、今度はパチルの方に面を向けた。
「は、はじめまして。パチルといいます。よろしくお願いします」
「…………」
男は相変わらず黙ったままだったが、コクリと一度だけ頷くと、一人で先に馬小屋の方まで行ってしまった。すれ違いざまにルウの肩をぽんと叩いたのは挨拶のつもりだったのだろうか?
「ごめんなさいね。エリックは私のパートナーなんだけど、彼ってばものすごくシャイなのよ。ちょっと無口だけど、仲良くしてあげてね」
クリスティーヌが申し訳なさそうにしていたが、シャイな人はあんな派手なお面を被らないだろうとパチルは内心突っ込みたかった。
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