第3章 屋上庭園の魔術師

4/4
前へ
/76ページ
次へ
 マイアン王国の宮殿。その最奥に位置する王の寝室で、王妃ソルフェは未だ目を覚まさぬ夫の手を握っていた。天蓋付きのベッドに横たわるダン国王の顔は青白く、頬は骸骨のように痩せこけ、かすかに聞こえる呼吸音だけが彼が生きていることを示していた。  背後では、王弟であるカザリが宮廷騎士団長代理のミリアムにねちねちと嫌味を飛ばしている。 「それで?パチル・ゴルウェルの所在は未だ掴めていない、と。宮廷騎士団は子供相手に隠れんぼでもしているつもりなのかな?」  カザリの前で膝をついたミリアムが、深々と頭を垂れる。 「申し訳ございません。現在、総員を上げて捜索にあたっております」 「ふん。まあいいよ。国内全域に手配書を配ったから、そのうち目撃者が現れるだろう」 「お言葉ですが、カザリ王弟殿下。未成年者の指名手配書の配布は、更生の機会を奪うとして、本来は法律で禁じられているはずです。パチル・ゴルウェルはまだ13歳、更生施設に入れれば社会復帰の余地はあります。どうか、ご再考を」 「はぁ……、君達が早く捕まえてくれれば手配書なんて必要無かったのに、今度は私が法を侵していると責めるのかい」 「いえ、決してその様な……!」 「とにかく早く捕まえてよね。議会のお偉方もお怒りなんだから」  口調は砕けたものだったが、ミリムに向けるカザリの目は冷たい。カザリは再び大きくため息をつくと、もう下がっていいよと手を振った。  ミリアムが退出すると、カザリは打って変わって優しげな笑みを浮かべてソルフェのそばに歩み寄り、絹糸のような美しい金髪を一房すくい取る。  いくら義弟とはいえ近すぎる距離に、ソルフェは顔をしかめた。 「どうかしたのかい、ソルフェ」  カザリは、自分より一回りも年下のソルフェのことを昔から敬称を付けずに呼んでいた。それは決して、兄嫁であるソルフェを軽視しているからではなく、異国から嫁いできた彼女にもフレンドリーに接しようとするカザリなりの優しさなのだと、昔のソルフェは考えていた。  しかし、今は違う。  馴れ馴れしく肩を抱いてくるカザリの手を、ソルフェは極力失礼のないように振り払った。 「……いいえ、なんでもありませんわ」 「騎士団長の息子のことを気にしているのかい?君は本当に優しい人だね。でも、その優しさの対象を誤ってはいけないよ。全ては私たちの可愛い王女様のためなのだから」  私たちの、という言葉は気に食わなかったが、今は王女のためを第一に考えないといけないのは本当だった。  窓のから庭に視線をやると、侍女たちとお人形遊びに興じるウィルへルミナの姿が見える。フリルとレースのドレスに身を包んだ無垢な天使。命に代えても守りたい、愛しい愛しい娘。彼女の人生を守るためなら、ソルフェは何だって犠牲にするつもりだった。 「アラーナ……」  口をついて出たのは、その犠牲になった友人の名前だ。  麗しのアラーナ。ソルフェが知る誰よりも勇敢で、清い志を持った騎士。そして、故郷を離れ一人ぼっちだったソルフェを、ずっと側で支えてくれた大切な友人。  本当はずっと分かっていたのだ。夫と彼女の間には、自分が踏み込めないような特別な関係があることを。  だから、夫とアラーナに隠し子がいると知った時も、二人の仲を引き裂いてしまった自分への罰なのだと思った。不貞なんかじゃない。パチルが生まれたのは、ソルフェと結婚する前だったのだから。  二人の間に生まれたパチルを次の王にすることが、自分にできるせめてもの償いだと考えたソルフェは、宮廷法官のサジェにアラーナ達を呼ぶよう命じると、自分は一人王の寝室に残り、静かに涙を流していた。  そこに現れたのが、王弟であるカザリだった。  カザリはソルフェの涙をそっと拭うと、優しい口調で訊ねた。 「兄さんが何か言ったんだね。もしかして隠し子のことかな?」 「……ご存知だったのですか?」 「ああ、本当にいたんだ。カマかけたつもりだったんだけど。となると相手は騎士団長さんかな?」  途端、今まで優しげだったカザリの表情がにちゃり、と粘着質に歪んだ。急変した義弟の様子に怖気ずくソルフェに、カザリは恐ろしい未来予想図を語って聞かせたのだ。  もし平民の血を引くパチルが王になれば、ただでさえ平民びいきの王政に不満を持っていた貴族たちが反乱を起こす。  反乱はやがて大きくなり、革命と名を変え、王家に襲いかかる。  王族は断頭台に上がらされ、その首は広場で晒し者にされるのだ。  まだ幼い王女も、もちろん例外ではない。  その言葉は、ソルフェの忌まわしい記憶を呼び覚ました。  今は亡きソルフェの祖国は、王家への反発から貴族庶民が結託した革命がきっかけで国政が混乱。その機に乗じて、火事場泥棒のように攻め込んできたザルド帝国によって滅ぼされたのだ。  革命のわずか半年前にマイアン王国へ嫁いだソルフェは無事だったが、両親と弟は激しい拷問の末処刑された。  特に、まだ小さかった弟は、言葉にするのもおぞましい暴力と陵辱によって命を落とした。 「王国にはさ、きちんと王政ができる、正しい血統の王様が必要なんだよ」  カザリの声が悪魔の囁きであることはわかっていた。 娘を弟と同じ目に遭わせたくはない。  けれど、革命が起こる可能性を完全に否定することはできなかった。娘はまだ幼く、摂政となるはずの自分には国政を動かすだけの求心力がない。  ソルフェの頭の中で、天秤がグラグラと揺らぐ。  愛しい王女、大好きな友人、夫が作り上げた法律、夫と親友の血を引く男の子、自分が失うであろう信頼……。   「大丈夫だよソルフェ。言う通りにすれば、お姫様も君も、僕が守ってあげよう」  差し出されたカザリの手を掴むとき、ソルフェは悪魔に魂を売ることを選んだのだ。
/76ページ

最初のコメントを投稿しよう!

146人が本棚に入れています
本棚に追加