2.転機

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2.転機

会議を終えた(あらた)は、自分の部署に戻りながら胸ポケットのスマホを取りだした。会議の終盤にバイブが着信を知らせていたからだ。確認した発信者は意外な人物で、新は行き先を休憩コーナーに変えた。 「社長、会議で返信が遅れてすいません。どうされました?」 『ふむ、私の気が変わらないうちに折り返せたのなら、お前も運があるな。新、お前、今から出られるか?』 まだ着信してから10分も経ってないじゃないかと思いつつ、この後のスケジュールが調整可能かを頭の中で確認する。この人がわざわざこんな連絡を寄越すのにはそれなりの理由があるはずだ。 「問題ありません。内線じゃないってことは、社長は今、外なんですね?」 神楽坂にいると言った社長は、新宿にあるホテルの茶寮の個室で待ち合わせだと言うと電話を切った。 *** 「珍しいところで待ち合わせですね」 「ああ、昼から食わされたんだ。お前、何か腹の足しになるものがいるなら好きに頼め」 神楽坂でビジネスランチだったというわけか。 「いや、ちゃんと昼は食いました。ところで飯も食わないのに個室へ呼び出しとは、社内に漏れたらまずい話なんですか、社長。それとも(みつる)がまたなんかしでかしました?それでお母さんがキーキー言ってるとか?」 (みつる)(あらた)の年の離れた弟だ。大学生活を謳歌し過ぎて時々羽目を外す。 「(みつる)は相変わらずだが、そうじゃない」 美しい光沢を持つ黒檀の座卓の向かいに座る父親は苦笑いをした。 新の父親である結城(ゆうき)秀一郎は結城グループの中核を担う結城電産の代表取締役社長だ。新は大学卒業後、結城電産に入社し、いくつかの部署を経験した後、アメリカの子会社へ2年間出向し、半年前に戻ってきた。社長の息子だからと言って役職が用意されているわけではなく、平社員からのスタートで、今はまだ課長代理だ。 「仕事の話ではあるが、ここでは社長と呼ぶ必要はない。なにしろ親の私情でお前を特別扱いする話でもあるからな。ところで、お前。今の部署はどうだ?」 「まだ半年ですが、優秀な人材が多くて励みになります。上司も俺をいい意味でも悪い意味でも特別扱いすることは無いのでやりやすいです」 会社では雲の上の人だし、新は社会人になった時点で一人暮らしを始めたので、そう頻繁に父親と話す機会があるわけではない。だが、父親とは昔から仲が良かった。 結城家は祖父、父、新と3代続けて私立中高一貫校の海聖学園から東大へと進んでいる。だが母親は、新が生まれた時から、自身が卒業した小学校から大学までエスカレーター式の良家の子女が集まる名門校へ入れることを熱望していた。しかし秀一郎は庶民感覚を身につけることは大切だと地元の公立小学校へ通わせた。ならば中学からでもと母親はなおも熱心に勧めたが、父親が自分の中高時代の思い出を楽しそうに語るのを聞いて育った新は自分も海聖に行くのだと言って譲らなかった。 実際、海聖学園での6年間は楽しく充実したものだった。ただ一つの辛い記憶を除いては。 ひとしきり新の近況を聞いた秀一郎は、本題を切り出した。 「実はな、先程ある会社からホワイトナイトの打診を受けた」 ホワイトナイト、白馬の騎士。敵対的買収を仕掛けられた対象会社を、買収者に対抗して、友好的に買収または合併する会社のことだ。つまり敵対的買収を仕掛けられピンチに陥った会社の経営陣が、別の友好的な第三者に買収などを働き掛ける企業防衛策である。 「お家騒動ですか?それともファンド?」 「アメリカのファンドだ。狙われているのはマトバ産業と言う建機油圧フィルタのメーカーだ。社員数は単体で150名、連結でも500に届かない小さな会社だが一部上場、建機油圧フィルタの世界シェアは70パーセントを超えている」 「7割?それは凄いですね。そこそこ儲けて社内に利益を留保し過ぎてファンドに狙われたクチですか。でもなんでうちにこんな話がきたんです?取引なんてありますか?」 「社長が海聖の同窓生なんだ。深い親交が続いていたわけではないが、向こうも切羽詰まっているんだろう。まだファンドに乗り込まれただけだが、M&Aを呑まなければ敵対的TOBを仕掛けると言われ、パニックを起こしている。上場はしているといっても中身は同族会社のまんまで企業防衛策が不十分な所へ、このところの市場の冷え込みのせいで株価が低迷している。TOBを仕掛けられたらひとたまりもないというのが彼らの現時点での判断なんだろう」 「藁をもすがる気持ちは分かりますが、ただ同窓のよしみっていうだけで?四葉会じゃあるまいし」 四葉会とは、母親の母校のOBらが作る強固な同窓会組織で、最古にして最大の学閥だ。財界、医学界、法曹界等、あらゆる上流階級で四葉会の人脈が幅を利かせている。母親もその一員であるし、新も学生の頃から知ってはいたが、社会に出てさらにそれを実際に見聞きする機会が増えた。海聖OBにも強い同窓生意識はあるが、年中そこらここらで会合を開いている四葉会とは全く別物だ。 「まあな。シェアがダントツのトップだっただけに、マトバの規模を上回り資金力のある同業他社が見つけられなかったのかもしれない。それに、経団連関係の勉強会で私が日本の産業の空洞化を憂慮し、モノづくりの重要性を説いていたのを聞き、志を同じくすると思われたようだ」 「ふうん。で?お父さんはホワイトナイトを引き受けるつもりなんですか?」 父は茶を一口含むと、長い息を吐いた。 「金額的にはしれているとしても、私の一存では決められない。うちも同族色が強いとはいえ、株主の不利益になることはできないからな。ただ、会社を背負うものとして私にも思うところがある。ファンドの目的は安く買い叩いた企業を高く売って差額の利益を追求することだけだ。だが、会社と言うのはただ金を稼ぐだけのツールではない。働く社員とその家族の生活を支え、技術の革新を追求し、日本経済を支える産業基盤を担うものでもあるのだ。同じモノづくりをしてきた者として、先人たちが血の滲むような努力をして積み上げてきたものをマネーゲームの駒のように扱われるのは……一言で言うと気に入らない」 マトバ産業が結城電産をホワイトナイトとして選んだのはあながち的外れではないのかもしれない。敵対的買収から身を守るためとはいえ、ホワイトナイトを請うということは、その企業の傘下に入り子会社になるということだ。どんな企業に買われるかでその後は大きく変わってくる。 「お前もアメリカから帰ってきて、日本の優秀な人材が海外に流出していることを憂いていただろう。世界シェアの7割を握っていたということは、それだけの技術力を持っているということだ。それが今回の件で流出する可能性もある」 新は頷いた。アメリカにいた頃、日本での報酬に満足できない優秀なエンジニアが引き抜かれ海外で活躍しているのを見てきた。 「だが、感情論だけで済む話ではない。昨日、マトバから接触を受けた時点で証券会社に調べさせた」 卓の上に置かれていたファイルを秀一郎が寄越す。 「マトバの財務諸表だ。自己資本が厚く健全な内容だ。だが利益剰余金があり過ぎだ。そこを狙われたのだろう。もっと設備投資に回すか配当に回すべきだった。しかし、それはうちが買った場合の旨味でもある。また建機油圧フィルターの技術がうちの機械部門に役立つ可能性もある。場合によっては結城ケミカルの方への貢献もあるかも知れない。もちろん、いい事ばかりではない。証券会社によるとガバナンスに問題ありとのことだ。先程会った社長は会長の操り人形なのか、求心力があるようには感じなかった。これが最大の障壁かもしれん」 「なるほど。それで、お父さんが俺をここに呼んだ理由は?」 「既に情報収集の指示は出している。明日の朝、社内で上層部にマトバの申し出を説明する。断るのか、第三者割当増資を受け入れるのか、ファンドが敵対的TOBを仕掛けてきた場合うちがカウンターTOBを掛けるのか、まだ分からん。だが、受けるとなった場合はトップはこっちの人間に()げ替える。それが条件の一つだ」 父親の意図が見えて、新はゴクリと喉を鳴らした。 「お前、やってみるか?古い体質の伏魔殿かもしれんが、伸び代がまだまだある可能性もある。成功すれば、お前がレースに一歩先んじることにもなる」 レースとは結城グループの創業者であり、未だ絶対的な権力を握っている新の祖父、結城宗善(ゆうきそうぜん)が一族に打ち出している方針だ。無能な2代目3代目は会社を潰す、一族の中で能力を認めたものを跡継ぎにすると公言し、自分の子や孫、兄弟の子や孫までグループ企業内でしのぎを削らせているのだ。 「血筋だけではなく能力のあるものが跡を継ぐという考え方には賛成だ。私も自分の後釜に息子と言うだけでお前を据えたいとは考えていない。だが、親父のように煽って競わせるやり方は弊害も生んでいる。くだらない足の引っ張り合いには反吐が出るし、レースの結果だけを生きがいにしているお前の母親にもほとほと呆れている。だがな、あの週刊誌の件は私も腹に据えかねているんだ」 先月とあるゴシップ誌に新をスキャンダラスに取り上げた記事が出た。目元にはかろうじて白線が引いてあったが、見る人が見ればわかる。内容は出身校や経歴などの個人情報は垂れ流したうえで、金に飽かせてあまたの美女を食い荒らし放蕩を続ける御曹司というでっち上げもいい酷いものだった。使われた写真も大学時代のサークル仲間十数名で集まったときのものを上手く二人だけ切り取って使われていて、一緒に映った友人もいい迷惑だっただろう。 新自身もあまりに低俗な内容に腹は立ったが、一番キレたのは母親だった。新を結城グループのトップに立たせることを至上命題としている彼女にとって耐え難いものだったらしく、調査会社を使って記事の出元を調べさせた。その結果、その記事を書くように依頼したのは新の従兄だと分かったのだ。母親の怒りは凄まじく、訴訟を起こすと息巻き、こちらが宥める側に回らなければならないほどだった。「くだらん」とその隣で冷静な顔をしていた父親も実は怒っていたのだと今初めて知った。 「だからお前に半日のアドバンテージをやろう。その間にやるかどうか考えろ。やるならそれなりの根回しをしてやる」
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