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3.懐かしい名前
「お疲れさまでした。渋滞のせいで帰社がすっかり遅くなってしまいましたね」
時刻は既に午後8時半をまわっている。主となったばかりでまだ馴染みのない社長室のデスクに向かった新に、秘書の高杉が労いの言葉を掛けた。
初日である昨日。まず最初に社員へ向けた社長就任挨拶を行った。本社の社員は一堂に集め、支部や海外拠点は中継で繋いだ。
人前で話すのは取り立てて好きではないが、苦手でもない。第一印象というのはとても大切だ。堅苦しい型通りの挨拶では聴衆が早々に興味をなくすし、調子が良すぎても反感を買う。心して臨んだスピーチでは、狙ったところで笑いを取りつつ、新たなスタートを印象付けられたのではないかと思う。それでも見渡した社員の表情からは、突然外部からやってきたトップと新体制に対する興味と警戒心が窺えた。外資による容赦ないリストラを避けられたことにはホッとしているものの、大手の傘下に入り、この先どうなるのか不安なのだろう。
引き続き行った役員会議では、それに加えてあまりに若い新社長に「どうせ親会社が送りこんだお飾り社長だろう」「お手並み拝見」「与しやすい相手か、否か」という役員たちの思惑が見て取れた。
――まあ自分の息子のような年齢なのだ。仕方がないだろう。
そんなことは新の中ではすべて想定内、織り込み済みだ。
その後は、主だった取引先への挨拶周りで高杉と共に出ずっぱりだった。
「お前の拘束時間も長くなって悪いな。しばらくはこんな調子が続くと思うが勘弁してくれ」
「ふふ、分かってますよ。スケジュール組むのはこっちなんですから。それに、初動が大切という社長の考えも良く分かっています。ですから心置きなく馬車馬のように働いてください、社長」
「へいへい。お前の給料がちゃんと出せるように、せいぜい頑張るよ」
高杉は、この機に他社から引き抜いてきた大学時代の後輩だ。ゆくゆくは責任のある仕事を任せることになるだろうが、当面は社長秘書という肩書きで動いてもらうことになっている。前任の女性にも引き続き社長秘書をつとめてもらうが、アウェーとまでは言わずとも勝手のわからぬ新天地へ乗り込むにあたって腹心の部下が欲しかった。
今回の人事では、「その歳で社長とは、さすが創業家一族」と、結城電産の同僚達から皮肉や羨望を含んだ声も聞こえてきた。だが、新自身は青年社長を気取るつもりもなければ、そんなに呑気に構えてもいない。むしろ結城電産にいたころよりハードで泥臭い仕事が待っていると思っている。
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