第一章 アンコール

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「…………か。アルドリド殿下!」  目を開けると、男の暑苦しい顔が目の前にあった。  火の粉の爆ぜる音、川のせせらぎ。耐えがたいほどの目眩と嘔気にうずくまっていたはずのアルドリドは平らな岩に腰掛けている。 「葡萄酒をお持ちしたのですが……王子殿下、お疲れですか?」  ハインライン王国軍第三騎士団の長である若き青年ジャスティンが、アルドリドの顔をのぞき込んでいる。  アルドリドをあれほど苛んだ痛みも苦しみも、まるで嘘だったかのように消え去っていた。 「ああ、いや……だいじょうぶだ。心配をかけてすまない」  さらに顔を近づけようとするジャスティンをさりげなく手で押しとどめ、アルドリドは酒杯を受け取った。なみなみと注がれた赤色が杯の中でかすかに揺れる。  周囲に視線を巡らせると、夜の暗がりの中で兵士たちが篝火を囲んで楽しげに騒いでいる。  アルドリドは悟った。ここは妖精の棲まう森エルフェイムだ。アルドリド率いるハインライン軍は今、森の中の開けた場所で野営をしているさなかなのだ。  また、戻ってきてしまったのだ――アルドリドは嘆息した。 「決戦はいよいよ明朝……憎き魔王を打ち倒す日がようやく来たのですね」  アルドリドは視線を上げた。ジャスティンの目にうっすらと涙が浮かんでいる。 「どれだけこの日を待ちわびたことか……。殿下が雪辱を遂げられれば、亡くなられた両陛下や国民たち、散っていった戦友も浮かばれるでしょう」  アルドリドは杯を傾け、一息に飲み干した。濃厚で甘い葡萄の香りが鼻腔を抜け、舌先を痺れさせる。 「………………そうだな……」  いや、そうではない。アルドリドは空になった酒杯を脇へ置き、おのれの手をじっと見つめた。 「一度は煮え湯を飲まされましたが、もはや妖精どもなど恐るるに足りません。聖剣アトロフォスがある限り、殿下の勝利は約束されたも同然です」  あのとき、この手は確かに魔王にとどめを刺した。 「魔王を討伐した暁には、きっとエルシー殿も女神クローティアの声を聞くことができるように……」 「ジャスティン」  おのれの手のひらを凝視したまま、アルドリドはつぶやいた。 「はっ……申し訳ありません! 失言でした」  がちゃ、と金属音が響く。居住まいを正したらしいジャスティンの顔を見ることができず、アルドリドは声を絞り出した。 「………………魔王は、……魔王フィービーは、まだ生きていると思うか?」  胸が逸る。  これまでともに戦ってきたジャスティンは、アルドリドの言葉を信じるだろうか。 「あのときも、今も……その前も! わたしは確かにこの手で、あの男を……」 「アルドリド殿下」  いやに優しげな声が頭上へ落ちる。  アルドリドが視線を上げると、ジャスティンは呆れたように苦笑していた。 「殿下……、やはりお疲れなのではありませんか? 僭越ながら、もうお休みになったほうがよろしいかと思います」  かっとしてアルドリドは立ち上がった。 「ジャスティン! わたしは……!」 「魔王の居城へ立ち入ることができるのは、殿下しかいらっしゃらないのですから」  アルドリドはさらに言い募ろうと口を開いたが、思い直して胸を押さえた。 「…………そう、だな……そうしよう。わたしは先に休ませてもらうとしよう……」  アルドリドはおぼつかない足取りで歩き始める。その後をジャスティンが続く。  明日の決戦に沸いているのか、兵士たちの笑う声は明るい。ジャスティンが顔をしかめた。 「あいつら、すでに勝った気でいるのか……申し訳ありません殿下、よく注意しておきますので」 「いや、いいんだ。……明日に備えて士気を高めるのも必要だろう」  ジャスティンが天幕まで送るというのをそれとなく断り、アルドリドは外套の胸元でかき合わせた。 「殿下!」  おのれを呼ぶ兵士の声にアルドリドは足を止めた。 「殿下は我々の……いえ、ハインラインに生きるすべての民の希望です!」  アルドリドは思わず目を閉じる。 「我々は魔王の居城に入ることはできませんが、出来うる限りの援護をさせていただきます!」  アルドリドは目を開け、こわごわと振り向いた。  篝火に赤く照らされる若い兵士の顔には喜びが満ちあふれている。アルドリドの勝利を信じ切って、欠片ほども疑っていないのだろう。  ハインラインに生きるすべての人間の希望を担う王子にふさわしい笑みを浮かべ、アルドリドはやわらかく言った。 「ありがとう。わたしが背後を気にせず戦えるのは、他でもないきみたちのおかげだ。どうか明日もわたしに力を貸してほしい」 「はい! 殿下!」  これ以上は耐えられない。アルドリドは片手を上げ、踵を返した。  兵士たちがおのれを賛美する声と、それを諫めるジャスティンの声を背後に、アルドリドは足早に立ち去った。
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