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木立や天幕の隙間を埋めるように星が瞬いている。アルドリドは自身の天幕へは向かわず、川縁に腰を下ろした。
兵士たちのあげる笑い声が、春先の冷たい夜風に乗って流れてくる。距離はそれほど離れていないというのに、今のアルドリドにはどこか遠い世界のことのように感じられる。
篝火を囲む彼らは、勝利と希望に満ちた明日が来ることを信じ切っているのだろうか。アルドリドは膝を抱えた。
はじめは、夢ではないかと思ったのだ。
魔王フィービーとの戦いはもう三度も繰り返されている。
魔王を聖剣で貫くたびに時は戻り、アルドリドが気がついたときにはもう、その手から勝利は失われている。
一度目は第三騎士団長ジャスティンとの合流を果たした当日。二度目はハインラインの王都ヒューストーンが陥落した翌日。そして今回は魔王との決戦の前夜だ。
月明かりを反射して輝く川面に情けない顔が映っている。アルドリドは水面に拳を叩きつけた。
「あと何回あいつを倒せばいいんだ……!」
水面が激しく波打つと、月のきらめきが砕かれたように光る。
生命の創造主たる女神クローティアが地上を去る際にハインライン王家へ授けたという聖遺物、聖剣アトロフォス。強大な力を持つ魔王を唯一打ち倒すことのできるという聖剣は、確かに魔王を一度ならず破った。
だが、その勝利の先へ進むことができないのなら、なんの意味も為さないではないか。
アルドリドは唇を噛んだ。
なぜ時間が戻るのか。なぜアルドリド以外の者はそのことに気がついていないのか。わからないからこそ苛立ちが募る。
やがて波紋が収まる。川がもとの静けさを取り戻したとき、水面によく見知った少女の顔が映っていることにアルドリドは気がついた。
「エルシー。もう寝たほうがいい」
アルドリドは振り返らずにその名を呼んだ。
「アルドリドこそ」
エルシーが隣へ腰を下ろす気配がした。
「あのねアルドリド、明日のことなんだけど」
「…………魔王との戦いのことか?」
アルドリドは細く息を吐き出し、ようやくエルシーへ振り返った。
やわらかい桃色の髪、大きな金色の目、そして天使であることを示す二対の白い羽。そのすべてが、夜闇を照らす光明のようだった。
「……あたしも……魔王のいるところまで一緒についていけたらよかったんだけど。ごめんね」
「そんなことか。気にするな」
魔王の居城たるエルフェイム城は、この森の奥にある湖の中にある。青い水を湛える湖に佇む白亜の城は外観こそ壮麗だが、聖剣を持つアルドリドでしか立ち入ることができないほどの禍々しい闇に満ちているのである。
けど、とエルシーが目を伏せる。
「あたし……あたしは、聖剣アトロフォスの守護天使なのに……女神様の声を聞くこともできないし……」
聖剣アトロフォスを守護するために女神から遣わされた天使であるエルシーは本来、女神クローティアへ祈りを捧げ、女神の声を王家に伝えなければならないのだという。
だが、エルシーは一度たりとも女神の声を聞いたことがない。どれほど祈りを捧げても、女神は沈黙したまま十五年の歳月が過ぎ――そして、王都陥落の日を迎えたのだ。
口さがない者たちは、王都陥落の原因はエルシーにあるとささやいている。天使たるエルシーの力不足こそが聖剣の威光を失わせ、妖精を増長させ、ついには魔王と呼ばれる存在を生み出すに至ったのだと。
それでも、とアルドリドはエルシーの肩をそっと叩いた。
「神託を受けられなくてもエルシーはぼくの姉妹のようなものだ。誰がなんと言おうと、きみはぼくの大切な人だ」
両親を失ったアルドリドにとって、生まれたときからともに過ごしたエルシーは、唯一残された家族にも等しい。
「ぼくは勝ってみせる。信じて待っていてほしい」
思いを言葉にすれば、胸の底から力が湧き上がってくる。アルドリドはさらに口を開いた。
「エルシー、きみがいてくれたから、ぼくはここまで戦えたんだ」
エルシーの瞳はいまだ不安げに揺らいでいたが、それでも小さく頷いた。
「…………うん。ねえ、アルドリド……」
エルシーは言葉を探すように視線をさまよわせたが、やがてアルドリドを見つめて微笑みを浮かべた。
「………………ううん、なんでもない。あたし、アルドリドが勝つって信じてるからね」
「もちろんだ。ぼくを信じてここまでついてきてくれたみんなや、志半ばで倒れた者たちに報いるためにも、ぼくは必ず魔王を倒す」
アルドリドはおのれへ言い聞かせるように強く言い切った。
魔王が何度も復活するのなら、何度だって倒せば良い。やがて魔王が力尽き、ハインラインの未来が明るい光に満ちるその日まで。
そう、今回こそ魔王を倒し、ハインライン王国に平和を取り戻す。それこそがアルドリドに課せられた使命なのだ。
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