堕落

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堕落

「自分ではない何者かになりたい。」  そう思うことは誰にだって一度はあることだろう。自分ではない何かに、人は憧れ、妄信する。そのもの自体が完璧でなくても構わないのだ。ただ目の前にいる惨めで汚らわしい自分を捨て去ることさえできれば、他のことはどうだって構いやしないのだ。  かつての自分と同じように願って、同じように堕ちてくる新入りの姿に、俺は何の感慨もこめずにため息を一つ漏らした。そういう輩が堕ちてくることはここではそう珍しくもない。むしろ、この数十年、数百年、少なくとも俺がここに堕ちてきて見ている限りでは、同朋は数えてもきりがないというものだ。だとすればいっそ、こうした変身願望に憑りつかれる人間を生み続ける地上の理の方が、破綻しているといったって問題はないだろうとさえ。思えてくるのだ、こんな場所にいれば、あの日を思い出させるような、哀れな墜落を目にしていれば。  俺はいつここに堕ちてきたのか、正確にはまったくと言っていいほど覚えていない。どのように堕ちてきたのかも、記憶の壺をひっくり返したって出てはこない。気が付いたらここに居て、「ああ、そうか、俺は堕ちてきたのだな」とそれだけを理解していた。ここにいるのは、皆何かになりたいが為に己自身を捨てた者たちだ。けれども自分が何であって、どう変わりたかったのかを知っているものは少ない。というのも、ここの層までたどり着く過程で、皆が皆、なりたかったその姿に変身を遂げているからだ。  だから俺自身も、自分がどういう人間であって、今は何であり、結局どうなりたかったのかを知っているわけではない。俺は堕ちてきて俺になった。この結果だけしか、俺にはわからない。そういうわけで、特にすることもないこの場所で、俺は同朋たちの墜落と変身を見届ける役目を自分自身に与えることにした。特になにかきっかけがあるわけではない。思いつきと興味本位だ。理由として挙げられそうなものを強いて言うのなら、もし変身前の姿に興味を持つ者が現れたとき、俺が教えてやれるようにと、そう思った、それだけのことだ。  人はここを地獄と呼ぶらしい。誰かが言っていた。誰だったのか、名前を思い出すことができない。普通の人間の姿をしている者だった。普通過ぎて、何の特徴も感じられない者だった。二つの腕と、二つの脚、それぞれの手足には五本ずつの指。目と耳と鼻と口。髪の毛もちゃんと生えた、普通の人間。そんな姿をしていた。ああ、そうか、だから俺は奴のことをヒトと呼んでいるのだと、たった今思い出した。そして奴の名前を思い出すとき、必ずこのくだりを繰り返すのだということも、たった今思い出した。  ヒトと出会ったのは、まだ俺が堕ちて間もない頃の話だ。というより、堕ちている途中に見つけたというのが正しいだろうか。堕ちている最中に少し薄目を開けたとき、突き刺さる風の束の中にちらりとその影を見た。堕ちてから右も左もわからずにさまよっている時に、出会ったのがヒトである。一目見て、奴が堕落の最中に見出した影であることに俺は気がついた。 奴は、俺がまだ俺ではなかった頃に見たその影と全く変わらぬ姿をしていた。ただ一つ異なることがあるとすれば、それは俺の心だろうか。随分とわかりにくい表現だ。もっと、詳しく、ことを明らかにしていくならば、もう少し言葉を変えなければならない。堕ちていく途中、俺が見たヒトの姿も、やはり二本ずつの手足に、五本指に普通の顔の人間だった。けれども、たとえばその肌はまるでガラスでできているかのように光に透けて見えたし、髪は柔らかく、吸い込まれそうなほど鮮やかな色をしていたと思う。瞳は宝石のような輝きを秘めていて、頬はほんのりと朱く、唇は紅かった。男なのか、女なのか、子供なのか大人なのかまではわからない。だけれど、おそらく青少年と思われるほっそりとした手足まで見てしまえば、そんなことは些末なことだと思われた。とどのつまり、ヒトが堕ちている時に、そして俺が生まれようとしている時に、俺はその姿を一度見ただけで、心の底から恋をしてしまったらしかった。それほどにヒトは魅惑的な姿をしていた。 しかし再会したヒトに対して、俺の心はピクリとも動かなかった。惹かれることもなければ、浮かれることもなかった。肌はその透明度を失っていたし、輝きも鮮やかさも、これっぽっちも残ってはいなかった。目にうつるその姿は少しも変わっていないというのに、彼はその身に色彩を残したままに、モノクロな存在になっていた。 「ねえ、僕はどんな姿をしている?」  そう訊かれたので、人間の姿そのままであることを告げた。俺は、まだその時は生まれたばかりで、変身のことを少しも知らなかったのではあるけれど、ヒトとの出会いから、きっと何かを察していたのかもしれない。だから、ヒトが人であるのは当たり前のはずなのに、人間そのままの姿だと、告げたのだろうと今ならわかる。 「人間?…人間ねえ。僕は一体どんな人間に見える?」  俺の答えにふうむと少し考えこんでから、再びヒトが訊いてきた。どんなっていうのは、どう答えるべきなのか、わからないのでとりあえず、俺は今のヒトの姿を頭のてっぺんから足の先まで、細かく形容してやろうとした。そうしてじゃあもう一度しっかり見てやろうと思って、ヒトの姿を三秒眺めて、手足が一対、人間の顔、ただそれだけを口にした。形容するのもうんざりするほど、目の前のヒトは表現のしにくい姿だった。姿は変わらない。けれども、さっき見た俺の頭の中のヒトの姿で説明するには、今のヒトはあまりにもありきたりでつまらなくて没個性で、何といってもどうでもよかった。だから、雑に、最低限の人間らしい姿を説明するだけにとどめた。俺の中では、それだけでもう食傷になってしまいそうだった。さっきまでは、あんなに心惹かれていた姿だというのに。 「…手と足と、顔と髪。それだけ?もっと何か、ないのかい?」  あまりにも説明が足りていないからか、ヒトは戸惑ったように質問を重ねた。俺は会って早々に矢継ぎ早に質問を重ねられたので、いい加減に腹が立ってきていた。 「その言い方、まるで自分が綺麗だとか美しいだとか、そんな言葉がもらえると思っているみたいじゃないか。お前は男とも女ともわからない、老いているかも若いかもわからない人の形をしたただの生き物だ。」  失礼な言葉だと我ながらに思った。けれどもその焦りとは裏腹に、俺の言葉を聞いたヒトは満足そうに笑った。クスクスもコロコロも、にっこりも、どの表現にも当てはまらないつまらない笑い方だった。それがなんとも不気味で、けれどももうどうでもいいやと思ってしまうような笑い方だった。ただ、ヒトの笑顔が教えてくれたのは、ヒトから消えた色彩は、俺がうっかり落としてしまったものではないということだった。この失望や苛立ちは、俺のせいではないということだった。 「ああ、地獄に来たんだ。来た。来た。来られた。堕ちたんだ。」  ひとしきり笑ったあと、すんとすまし顔になったヒトは、低くも高くもない声でそう呟いた。俺に聞かせているつもりはない、本当の独り言のようだった。独り言にしては大きな声だった気もするし、ヒトはすまし顔をしているはずなのに、その表情からは恍惚とも興奮とも思われる感情が零れていた。その奇妙な表情よりも、俺には言葉の方が気になって仕方がなかった。 「地獄?ここは、地獄なのか?」  俺の質問に、今度こそヒトはすんとした顔をした。ただでさえ読み取りづらい表情から、感情が消えていた。あるいは冷ややかで暗い気持ちが、その顔つきからはうかがわれた。 「なんだい、君。君はここがどこだか知らずに堕ちてきたのかい?」  突き刺さるような冷たい視線が、チクチクとして腹立たしかった。俺は唸るように、知っている筈がないことを告げた。 「そんな姿をして、君、ここが地獄だと知らないなんて。」  皮肉な話だね、そう言って、ヒトはまた、さっきよりも一層大きな声で笑った。 「ここはね、地獄。罪を犯した人間が堕ちるんだよ。堕ちることで、罪を落とすことができるんだ。」  ヒトはニンマリと不愉快な笑みを浮かべて言った。造型は悪くないから、無性に腹立たしいだけで、醜くはなかった。決して美しいとも思えなかったけれども。 「僕は、見た目のせいで多くの人の心を誑かした。望もうと、望まずと。そうしてとうとう人を殺した。だからここに堕ちてきて、美しさを落としたわけだ。」  そこまで聞いて、なるほどと思った。奴は何も変わっていない。そして俺に変化があったわけでもない。奴の姿は変わっていないのに、奴が色褪せたその理由は、奴が美しさを手放したからなのだ。そして同時に、堕ちてくるまでの俺が、初めて惚れたそのものは、ヒトが地獄に堕ちてでも切り離したかった美しさという概念なのだと気がついた。そうしてどうにもそのことが恥ずかしくなって、それからもう、ヒトと会うのはこれきりにしようと思った。  ヒトは美しくありたくはなかったのだ。けれども俺は、奴が美しさを捨てるその刹那、その美しさをヒトに抱いてしまったのだ。俺が、そう思ったことがヒトにバレてしまえば、ヒトが地獄に堕ちた理由がなくなってしまう。奴は、また美しさを背負うことになる。  ああ、そうだ。だから俺はその後ひとしきりヒトの話を聴いてから、ヒトの前から姿を消したのだ。ヒトは自分語りを一通りしたあとに、気の抜けるように眠りについてしまったから、その隙に俺はヒトから逃げたのだ。 理由もきっかけもないと思っていたわりには、しっかりとした理由があるじゃないかと、俺はまたため息を一つこぼしてみた。今度は、ちゃんと意味のこもったため息だ。後悔と罪悪感と、それから未練。なんともジメジメとした感情のこもったため息だった。ヒトの寝顔が心なしか安らかなような、あどけないような、かわいらしいような、そんな気がしたのは、それが奴の最後の姿であり、俺の心がここ数百年ですっかり美しさに蝕まれているからかもしれない。 結局ヒトは、俺がどんな姿をしているのか、ヒントの欠片も教えてはくれなかった。困ることはないのだ、黒い手は自分でも見えるし、黒い脚も自分でわかる。顔以外の全てが黒いことまでは、わかっているのだ。だけども頭でそのピースをつなぎ合わせようとすると、どうにもうまくつながらない。知っている限りの生き物を頭に浮かべてみたけれども、どうにもこうにも問題は解決しなかった。  一日も終わるだろうか、それともこれが一日の始まりなのだろうか、夕暮れとも明け方ともわからない赤光に世界が包まれた時、その光とはまた違う、もっと透き通っていて鋭くて、冷たくて、恐ろしい、そんな光がひび割れた地面から溢れてきた。意味も事情も分からないから、光のない場所を探して逃げようとするけれども、そんな場所はどこにもない。オレンジの光をかき消すように青白い光が照り出し、世界は真っ逆さまに、まるで俺の足元に天の川が流れているかのような錯覚を覚えるほど、光は、強く、強く、輝いた。 「あ。」  見上げていたはずの空から、何かがゆっくり堕ちてきて、獰猛な光は迷わずその獲物に襲い掛かった。全ての光が、その塵のような何かに集った。俺の心を蝕んでいたものも余らず飛びだしていったから、これこそがヒトが抱え込んでいた美しさというものの全てなのだろう。だとしたら、美しさを拾い上げる、あれは、何を捨てるつもりなのだろう。俺は目を細めて眩しい光の中にいる同胞らしきものを見た。同胞は、なかなか堕ちてはこなかった。横には夕日、足元は闇、空には月、そんな風に光同士がぶつかりあって、同胞を堕とすことを皆が皆忘れてしまっていた。二本ずつの手足と、髪と、人間らしい顔。新入りの姿は、今確認できる限りでは、それだけだ。あれほどの美しさに包まれているのに心の一つも踊らないのは、ここからでは遠すぎるからということだろうか。しかし、それにしては。光は毒々しいほどに輝きを放っている。  確かに、こんなものを抱えていたのでは、ろくな人生は生きられたものじゃない。そんな風に俺がヒトのことに想いを寄せているその時、ポトリと俺の頬に何かが落ちてきた。頬を拭って手を見遣ると、鈍色の液体のようなものだとわかった。鈍色で、少しきらきらとしている。ここは地獄だ、水銀か何かだろうか。そう考えている間にも、液体は空から降ってくる。  ポトリ、パタリ、ピチョリ、ペチョリ、パタパタざあざあ。  雨だった。水銀かもしれないし、色も鈍色で美しくはない。むしろ鬱陶しくて重々しい類のものではあるけれど、それでもいい。雨なんてものはこの数百年、俺が堕ちてきてこの方、一粒だって落ちてきたことはない。だというのに、今この時に、新入りよりも先に雨の方が落ちてきた。地獄の乾いた地面に慈雨のごとく鈍色が降り注ぐ。  俺は雨を手で避けながら、もう一度空を見上げた。墨汁のように青い光と鈍色が交じりあって、それは月明かりに照らされた雨雲のようだった。よくよく目を凝らすと、その雨に濡れながら、ふわりふわりと新入りは緩やかに堕ちてきた。俺たちの堕落に比べたら、なんとも悠長で、なんとも幻想的なものだなあと、呆れかえってみたらまたため息が零れてしまった。  ため息が抜けたその後は、衝動に襲われた。雨のきらきらのせいかもしれない。あいつはきっと、いつしかヒトが捨て去った美しさの欠片なのだ。そいつが空に還って、雨になって降り注いでいるのだ。今になって、あのヒトに魅入られた瞬間のような引力が、俺を走らせていた。二足では足りない。四足にした。まだ速さが足りない。速さを求めて、無我夢中で駆けていた。目指すのは、新入りの所だ。着地点は、大体目星が付く。そこに向かって駆けだしていた。  この雨を、ヒトはどう思うだろうか。この世界のどこかにいるだろう奴のことを、そっと想った。駆ける速さのせいで吹き寄せてくる風が堕落のときを思い起こさせるからかもしれない。けれどももう、美しさを捨て去ったヒトには興味はない。が、情はあるから、せめても、この雨が降りやむまで、どこか屋根のあるところにいてほしいと思った。何ならば、この光景を見てほしくもないと願った。一粒たりとも奴に返ってくれるなよと、雨粒を呪った。  思い当たった場所に着いた時には、新入りはもう目を醒ましてその場に佇んでいた。二本の手足、肌の色、髪、瞳、鼻、口、耳…。それは人の姿をしていた。ヒトとは違う造型だけれど、人間には変わりなかった。空中のヒトに比べれば美しいわけでもなく、けれども決して地上のヒトのようにどうでもいいとも思わなかった。その少女は心地悪そうに眉根を顰め、俺を見つめていた。 「ここは、どこですか?」  少女は呟くような声で訊いた。俺に訊いているはずなのに、そのわりには震えていて、聞き取りづらかった。 「ここは、地獄だ。お前は人を殺した。だからここに罪を落としに堕ちてきた。俺はお前と同じようにずっと昔に堕ちた者だ。」  俺は、淡々と答えた。ようやく役目の時が来たと思った。 「…私はどんな姿ですか?」  少女は訝しげに尋ねるので、日焼けした箒のような茶色の髪のことや、やけに青白い肌に染みついたそばかすのことを伝えてやった。 「そうですか。」  まだ少女は不安そうだった。それは、ここが地獄だとわかったからでも、自分が堕ちて姿を変えたからでも、人を殺したからでもないようだった。ヒトのように、いくらか生前の記憶を持って堕ちてきたようだった。 「…あなたは一体何なのですか?」  少女の冷たい視線は、いつかのヒトに向けられたものと同じだった。 「俺は…」  わからなかった。ヒトやこの少女のようには思い出せなかったし、手を見てもただ黒いばかりだった。その手に透けて、地面の煌めきに目がいった。地面に水たまりができていた。 「俺は…」  知りたくて、水たまりを覗き込んだ。二本の手足、髪、人間の顔、俺に俺を教えてくれる何かが。 「俺は」  水たまりには、何もうつらなかった。闇夜のような暗がりのせいかもしれない、影のような俺だから、きっとこの水たまりにはうつらないのだ。そう、俺は。  少女の顔を見上げた、顔の有る少女の顔を。そばかすのある痩せた少女の瞳には、顔のない俺への哀れみが向けられていた。 「そう、貴方は自分を愛せなかったのね。」  少女の暖かい腕が雨に濡れた俺の身体を包み込んで、俺はその心地よさに、そのまま眠りについていた。
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