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~故郷~
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わたしがこのケヤキ並木の下で子犬を拾ったのは、小学校の──2年生か3年生くらいだったろうか。
白くて、耳がペタンとしていて、なんだかいつも眠そうな目をしていたのを覚えてる。
『トウフ』っていう名前まで考えてたのに、結局お母さんのお許しがなくって飼えなかったんだ。
左に広がるトウモロコシ畑。
道路に面したプレハブ小屋では、わたしが中学生くらいまで、お婆ちゃんが茹でたトウモロコシを売っていた。
学校の帰り道。飛ばす自転車を、甘くていい香りが追いかけてきて、ついついハンドルがあの小屋に向いちゃって。
お婆ちゃんのトウモロコシ、美味しかったなぁ。
あ、ほら、心臓破りの坂が見えてきた。
毎年の高校のマラソン大会じゃあ、みんなあの坂で苦戦してたけど、よく見るとたいした傾斜でもないし、心臓破りだなんて大袈裟だよね。
まぁ、ちょっとくらいそれっぽい障害があったほうが、しんどいだけのマラソンもドラマチックになるんだろう。
でもわたしはあの坂、なんかちょっと好きなんだ。
歩道にズラッと植えられたツツジも、ちょうどその時期見頃なんだけど、
それよりも何よりも、ゼェゼェ言いながら坂をてっぺんまで登りきったあと。
眼下に見下ろす屋根屋根の向こうにさ。
雄大な海が、小さな町を両手で抱き包むように迫り上がってて、景色の調合が途端に青で覆いつくされるの。
坂を一気に駆け下りていくのは、なんだか真っ青な光の中に自分が吸い込まれていくみたいで、訳もなく心がはしゃいじゃう。
そう言えば、マラソン大会に参加できるのも今年で最後だよね。
来年の今頃、クラスのみんなは、どこでどんなことしてるのかな?
いい大人になっていくわたしは、もう二度と海をめがけて全力疾走するようなことがないのかも。
そして、肌に染みついたこの潮の匂いを、遠い場所の記憶として毎日を送ってくんだろうか。
そう思ったらなんだか急に切なくなって、わたしはふと立ち止まった。
満面に煌めきをたたえた海を背景に、すっかり色褪せた町の看板がある。
『ようこそ 人魚伝承の地 須羽浜(すわはま)町へ』
そう書かれた看板の上には、立体的に作られた人魚が横座りしており、ウインクしながら右手を上げていた。
いったいいつからあるんだろうか。
わたしが小さい頃から、雨の日も風の日も、この人魚はずっとここで誰彼構わず愛想を振りまいている。
塗装があちこち剥がれた彼女を見上げて、わたしは1人、唇を尖らせてみた。
「ようこそって言われてもね、わたしはもうすぐ、あなたともお別れなのよ」
だから何?と言うように、人魚は相も変わらない笑顔のまま、変わっていかざるを得ないわたしを見下ろしていた。
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