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お母さんは夕方まで仕事だって言ってたから、とりあえずわたしは“もう1つの家”に向かうことにする。
防砂林の奥の堤防沿いを進んでいけば、広い砂浜を見下ろすオレンジ色の屋根。
わたしももういい大人なんだし、いい加減一階のスポーツショップから普通に階段を上がるべきなんだろう。
だけどやっぱり、小さい頃からの慣習というのはいくつになっても消えないもので、わたしは木漏れ日模様の外部階段を上がっていった。
外部階段を上るカンカンと言う音で、昔から熊オジサンは、誰が来たのかすぐわかる。
わたしが喫茶店の扉を開くと、予想通りのオジサンが、その真ん前で腕組みしながら待ち構えていたんだ。
「なんだ悠海、大都会で揉まれてちったぁ垢抜けたかと思ってたのに、相変わらずこっからの登場か。
変わんねぇなぁ、おめぇも」
「ただいま、熊オジサン。
熊オジサンも変わんないよ。
おでこが随分広くなった以外はね」
「チッ、言ってくれるぜ。
なんだ、東京の仕事、辞めてきたんだって?
やっぱり須羽浜が恋しくなったのか?」
「まぁ、それは否定しないけどね。
わたしには合わなかったみたい、あっちのあくせくした生活がね」
「はっはっは、おめぇはそうだろうと思ったぜ。
まぁ、社会勉強させてもらったと思えばいいじゃねぇか。
ちょうど百合ちゃんも1人で寂しそうだったし、おめぇもまだまだ若いんだから、こっちでやり直せばいいさ」
「若くもないよぉ、もう28だもん」
「バヤロウ、そんなもんまだまだヒヨッコだ。
30なったって40なったって、50なったったって、ここの海の輝きが胸にあるうちゃあ、ずっと青春なんだよ」
“ずっと青春”らしい頭の薄くなったオジサンに、わたしはアサリのクリームパスタとレモンスカッシュを頼み、重い荷物を置いて席についた。
シーズン前の喫茶店。
お客はいつも通りわたし1人で、静かな店内をゆっくりとシーリングファンが回っている。
昔のお父さんの写真も、ちゃんと定位置に飾ってあり、お父さんだけがいつまでたっても若かりし日のままだ。
他に誰もいないのをいいことに、歩き疲れたわたしは、靴を脱いで思い切り足を投げ出した。
いい年して行儀が悪いのは承知の上だけど、やっと自分を解放できるみたいで気持ちがいい。
「ったくおめぇは、化粧覚えて洒落た服着たって、結局いつまでたってもガキのままの悠海だなぁ。
ほれ、レモンスカッシュ、ガキには特別にサービスしてやらぁ」
「やったぁ、わたしガキで良かった!」
「やれやれ、本当におめぇは……
……あれ?」
不意に、熊オジサンは窓の外に目を移し、「あいつは……」と呟いた。
そのままポカンと砂浜の方を見ているオジサンに、わたしは「どうかしたの?」って聞いてみた。
しばらく黙って浜辺を見ていた熊オジサンは、ニヤリとほくそ笑んだ顔を、ゆっくりとわたしに向けて答えたんだ。
「見てみろ、面白れぇもんが見れるぜ?」
「面白れぇもんて?」
「まぁ、自分の目で見てみろや。
なんだかこのやり取り、デジャブを感じねぇか?」
テーブルの上のレモンスカッシュが、カランと1つ、涼しげに氷を鳴らす。
平穏だった午後の陽だまりに、突然大きな波が隆起する。
「ええっ!?
まさかっ……」
あんまり慌てて窓を向いたものだから、弾みでひっくり返ったレモンスカッシュが、大きく宙へ舞い上がり、
大人びたつもりのシックなスカートが、盛大な飛沫を上げて台無しになった。
『波打ち際のピューパ』
~おわり~
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