03 落とした定期券

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03 落とした定期券

「タカギ、じゃなくてタカキね。同じアパートなんだ。へえ」 「何だ、知らなかったのか……」 「知らねえよ、誰が住んでんのかなんて、興味ねえもん」  男の名前は確かにコガだった。古い河、と書いて古河。頭の中で勝手に古賀と当てていただけに、修正を余儀なくされる。年齢は二十七、高木のひとつ上。  駅から会社までの短い時間を歩きながら、それだけを知った。  全体に尖った雰囲気がある。とはいっても、特別悪そう、というのでもない。何と言うか、もう少し若ければバンドでもやっていそうな、というか。  男にしては細い身体は、しかし華奢とは言えない。骨ばった手や顔の輪郭はどこまでも男のものだ。風邪を引いている様子はないから、特徴的な掠れ声はどうやら地声のようだと高木は判断した。 「言われれば見たことあるかも知んねえけど」 「下のセブンイレブンでよく会うの、覚えてねえのかよ」 「知らね。棚の弁当とレジのお姉ちゃんしか見えてねぇし。金曜の夕方にすげえ美人がいんのな。知ってたか?」 「それこそ知らねえよ」  初対面、しかもこちらが年下、ということをうっかり忘れていることに気付き、高木は苦笑した。古河があまりにも気負わない態度のせいか、最初に交わした会話があれだったせいか。今更ですます調にしても笑えるだけだ。 「お前、何階?」  古河はひどくあっさりと、高木をお前と呼んだ。 「──あんたんとこの上。二十四階」 「ふうん」  エレベーターホールにはたくさんの人がいる。古河はエレベーターの昇降表示を眺め、戻した視線で同僚でも見つけたのか、人ごみに向けて会釈した。  ぞんざいな口調と無愛想が、仕事用の顔にすり替わる一瞬。高木は何となくその顔に目を奪われ、いつの間にか隣に立っていた課長代理の朝の挨拶に気付くのがかなり遅れた。  エレベーターが一階に辿り着き、皆が一斉にその入口に押し寄せる。古河は人に押されるようにしてエレベーターに歩を進めた。振り返らない背中を黙って見つめ、高木はその場に黙って立っていた。この混んだ箱の中に押し込まれ、最上階である二十四階まで上がるのはご勘弁願いたい。 「またな」  声に顔を上げると、閉まりかけたエレベーターのドアの向こうで、古河が手を上げていた。  するすると音もなくドアは閉じ、昇降表示ランプは二階、三階、そして止まらない中層階の数字のない部分へと動いていく。  ふと足元に目をやると、何かがその場に落ちていた。  つまみあげたそれは、こげ茶色の革の定期入れだった。内側がベージュのコードバン。定期券には古河の名前。 「落し物か?」  耳元でした声に飛び上がり、高木は思わずうわっ、と声を上げた。すっかり忘れ去られていた四十代半ばの課長代理が、そんなにびっくりしなくても、と、可愛くもないのに拗ねて見せた。
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