嘘とか幸せとか嫌いとか

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 久しぶりに会わない?  加奈子さんからのメールが届いたのは、別れてから五年が過ぎてのことだった。 「すいません。待ちましたか?」 「女を待たせるなんて、あなたも随分と偉くなったものね」  固まる僕を見て、加奈子さんは「冗談よ」と小さく笑った。五年経った今でも、僕は彼女に勝てそうにない。  僕と加奈子さんは、近くにあったカフェに入った。僕が席につこうすると、加奈子さんが僕の袖をちょいちょいと引っ張って、窓の向こうを指さした。  ああ、なるほど。  窓の向こうには、木の柵で四角く囲まれた庭があった。そこには白いパラソルが建てられた木のテーブルが三つ置かれていた。  加奈子さんは外が好きな人だ。屋内は客の愚痴だらけで、息が詰まる。人間、キレイなところにいないと腐ってしまうわ。が、デートの時の口ぐせだった。  僕らは店から一番遠い席についた。店員を困らせてやろうなんて算段はまったくない。  芋づる式に思い出された記憶の中に、加奈子さんは花が好き、という記憶があったからだ。だからコスモスが植えられたプランターに一番近い席に座った。 「髪、切ったんですね」 「ああ。そうね」    加奈子さんの髪は、肩までしかなかった。ロングヘアーの彼女しか知らない僕からしたら、少し不思議な感覚だ。  もともと大人びた人が、本当の大人の女性になったことは、ウェーブがかかった毛先よりも、曲がりくねった道を乗り越えた結果なんだろう。 「おかしい?」 「いいえ。すごく似合ってると思います」  そう思うと、加奈子さんとの距離が、物理的だけでなく、心理的にも遠くなったようで、少し寂しかった。   「そう。ありがとう」  でも、そうやって小さく笑う加奈子さんは、加奈子さんでしかなくて、なんだか安心した。  研修中と書かれたワッペンを着けた店員さんが、注文を取りに来てくれた。  言葉づかいがたどたどしく、緊張していることが肌で感じられた。  そんな姿に懐かしさを感じながら、僕はアイスコーヒーを、加奈子さんはミルクティーを頼んだ。 「変わったわね」  加奈子さんが小さく呟いた。  どういうことかわからず、目をぱちくりさせていると、加奈子さんは落ち着いた口調で答えた。 「昔は何をするにも、おどおどしてたじゃない」 「いや。あれはデートだったからで」  僕がそう言うと、加奈子さんは「ふーん」と、形のいい鼻をならした。 「大学の学園祭でウェイターやって、キョドってたのはどこの誰でしょうね?」 「見てたんですか!?」 「彼女ですもの。……あ。違うわ。彼女だったんですもの」    加奈子さんは、してやったりと、ご満悦な笑みを浮かべている。が、大して気にならなかった。  加奈子さんにストーカー癖があったことのことに驚いたからだ。  あべこべな思いでお互いを見ていると、店員さんが注文した飲み物を運んできてくれた。  外で飲むアイスコーヒーは、いつもより苦みがすっきりとしていて、感情もすっきりリセットできた。 「僕なんて何も変わってませんよ。昔も今も子供です。たぶん、これからも……」 「そうかしら? 私からは別人に見えるけど?」 「本当に?」 「見た目がね」 「ですよねー」  僕らは同じタイミングで笑った。まるで一時停止を解除されたようで、それがまた面白かった。  お互い違う笑い方が、五年前の日々に色をつけていく。 「あ。忘れないうちに言うわね」  やっと笑いがおさまってきた加奈子さんが、ひーひーと、目元を拭いながら言った。  息を深く吸って、大きく吐く。  加奈子さんは礼儀正しく頭を下げた。 「ご結婚おめでとうございます」  思いもよらない言葉に、なんだか居たたまれなくなって、僕も頭を下げた。 「あ、ありがとうございます」  ばっと頭を下げただけで、加奈子さんみたいな品の良さはかけらもなかった。  先に顔を上げた加奈子さんが、そんな僕を見て、くすくすっと笑った。 「真面目ね」 「それだけが取り柄なんで」  加奈子さんは「そう」と言って、また笑った。やっぱり僕は子供のままなのかもしれない。 「まさか、あなたに先を越されるなんてね」  加奈子さんは優しげな瞳で僕を見た。  腕を組み、背もたれに体を任せる加奈子さんは、元カノというより、美人のお姉さんって感じだ。 「僕は運が良かっただけですよ。ほら、結婚はタイミングって言いますし」 「つまり私は、運もタイミングも悪い女ってことね」 「いじめないで下さいよ」 「いじめてないわ。ひがんでるだけよ」 「ひどい人だ」  僕らはまた笑った。  アイスコーヒーの最後のひとくちを飲みきって、僕はえんじ色でPUSHと書かれたボタンを押した。ピンポンという音が店内の方から聞こえて、すぐに店員さんが注文を取りに来てくれた。 「なにか頼みますか?」 「じゃあ、このパンケーキを頼もうかしら」  加奈子さんは、メニュー表に指を指して言った。  指先にあったのは、中央にホイップが絞られただけのシンプルなパンケーキだった。都会の子達が食べる、フルーツごてごての、おしゃれなものとは大違いだ。しかし── 「はんぶんこにしましょ」  簡素でも、この人の可愛さで、ちょうど良く感じた。  パンケーキの他に、僕はアイスミルクを頼んだ。苦いもののあとには牛乳でまろやかに中和する。仕事が始めて以来のお気に入りだ。   「加奈子さんは今、お付き合いされてる方はいないんですか?」 「あなたがそれを聞く?」 「仕返しですね」  僕は口の端をにやっとさせて、悪者のポーズをとる。  すると加奈子さんは、また「ふーん」と鼻を鳴らして、僕と同じように口角をあげた。 「付き合ってるってことは、あなた以外の人と身体の関係があるってことだけど、いいかしら?」  その言葉を聞いたとたん、口の中に千度の鉄球をいれられたかのように、顔全体が熱くなる。心の中の童貞は、まだ死んじゃいないらしい。  加奈子さんは、テーブルに肘をついて、ご満悦の表情を浮かべて、言った。 「本当にあなたって正直よね」 「正直は僕の長所なんで。……あっ、でも! 加奈子さんと彼氏さんがしてるのを想像したとか、そういうわけじゃなくて」  童貞である。 「本当に! 本当に違うんで────」 「してない」 「え?」 「あなたと別れてから誰ともSEXはしてないわ」  加奈子さんは表情にも、口調にも、揺らぎなく断言した。  加奈子さんの後ろで、研修中の店員さんが文字通り、げっとした表情で固まっていた。  彼女の手にはアイスミルク。自分の注文のせいで彼女を巻き込んでしまったと考えると、居たたまれない気持ちになった。  店員さんは早口で「アイスミルクです」と言って、グラスをテーブルに置くと、そそくさと店内に戻っていった。  グラスの氷は暖かな日差しに照らされてすぐに、からんと音立てて、ミルクの中に沈んだ。対して僕は固まったままだ。薄皮一枚も溶けそうにない。  そんな様子の僕を見てか、加奈子さんは慌て気味に「ああ。勘違いしないでね」と言った。 「あなたの後にも、何人かとお付き合いはしてたし、そういう雰囲気にもなった。でも、しなかっただけで、モテてなかったわけではないのよ」  そこじゃないんだけどな……。と思ったけど、口にはしなかった。クールなんだけど少しズレている。それが加奈子さんの魅力でもあることを、僕は知っているからだ。  そしてなにより、公共の場で下の話に華を咲かせるのは何かとまずいと感じたからだ。 「その中に、結婚まで考えた方はいなかったんですか?」  何気なく話をもとの方向に切り返すと、加奈子さんは顎に手を置く間もなく「いないわね」と即答した。 「というか結婚したいなんて、考えたこともなかったわ」 「え? でもさっき僻んでるって」  僕がそう言うと、加奈子さんは「あー」と頭を押さえ、渋い顔を浮かべた。そしてゆっくりと、ため息を吐いた。 「……嘘よ。嘘。全部、嘘。僻む理由があるなら逆に聞いてみたいわ」  諦めたように嘘を認める加奈子さんを見て、腹の底で引っ掛かりを感じた。 「なら……」  這い上がってくるそれに、僕は抵抗しなかった。 「五年前の、あの言葉も嘘なんですか?」  一瞬、目を大きく開いたあと、すぐさま加奈子さんは顔を伏せた。   何かがあることは、明らかだった。 「答えてください」 「……記憶力いいのね」 「それも、僕の長所なんで」 「知ってる」  加奈子さんが、僕の目を見て言った。 「ねえ、あの日の言葉がなかったら私たちは、ここにいなかったと思う?」  落ち着いた口調で話す加奈子さんを、僕は理解できなかった。 「いなかったんじゃ、ないですか」 「なら、あの日の言葉がなかったら、あなたは結婚してたと思う?」 「わかりません。でも、結婚していたかもしれません」 「なら、あの日の……」 「待ってください! 僕が話したいのはそんなことじゃないんです!」  加奈子さんは言った。 「あの日の言葉がなかったら私たちは、幸せになれたと思う?」    その言葉を聞いたとたん、喉が締め付けられるような感覚に襲われた。  外への通り道を失った言葉が、腹の中で暴れてる。  無理やりにでも、それを吐き出してしまいたかった。でも無理だった。  眠くなったらあくびが出るのと同じように、自分自身と切り離された無意識が、伝えるべき言葉を塞き止めていた。  だから僕は加奈子さんに、何も言えなかった。 「そんな顔をしないで」  思わず、口元を覆って顔を伏せた。  前髪の隙間から加奈子さんの顔が見えた。   「あなたは他の人を愛した。私は誰も愛せなかった。ただそれだけ。それぞれがそれぞれの選択をしただけなのよ」  優しい笑顔だった。   
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