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僕らはカフェを出たあと、駅まで歩くことにした。
実は、近くにバス乗り場があることは知っていたけど、加奈子さんには教えなかった。
せっかく会えたのに、バスに乗って、あっさりさようならは、あまりに味がない。会えなかった分の話は、二時間程度じゃおさまらないのである。
自己中心的なワガママが言えるのは、年下の特権だ。お姉さんには僕の秘密のワガママに付き合ってもらおう。
駅までの道のり。僕と加奈子さんは色々なことを話した。
仕事先に面白い人がいた。ハリウッドスターに会った。今はこの漫画が流行ってる。明日のお昼はどうしよう。晩御飯はどうしよう。
どれも、どうでもいい話。
でも一般人の僕らにはそれが一番似合ってる。
世界を変えるような秘密より、明日には消えてしまう今日の話の方がずっと価値がある。僕はそう思う。
「ねえ」
加奈子さんが僕の服を引っ張って、指を指した。
「綺麗ですね」
「綺麗ね。本当に」
「着たくなりました?」
「全然」
そう言うと、加奈子さんは僕を置いて歩きだした。楽し気な笑顔を浮かべる彼女の、数歩後ろを僕は歩く。
「ねえ」
「なんですか?」
「私のこと好き?」
「好きですよ」
「そう。私もあなたのことが好きよ」
「知ってます」
「私も知ってた」
「それも嘘ですか?」
「嘘だったら素敵ね」
空を見上げると、夕暮れが終わりそうで、夜が始まりそうだった。何とも中途半端で、はっきりとしていない。何にもなれない空。
でも、そんな何も決まっていない空が、僕は好きだ。名前がないから、見せられる色もある。そう思ったからだ。
◇◇◇◇◇◇
駅のホームで、電車を待っていた。
僕は、駅から家まで近いから、電車に乗る必要はなかった。けれど切符を買って、加奈子さんと改札を抜けた。時間がお金より価値があるのと同じように、加奈子さんとの時間は切符一枚なんかより、何倍も価値がある。
「あっというまだったわね」
「そうですね」
ホームに置かれたプラスチックの椅子に隣同士で座りながら、今日の出来事を思い返す。どこを切り取っても輝いていて、あの頃に戻ったような気分だ。
加奈子さんも同じことを思っているのだろうか。と、少し不安になったが、彼女の表情を見て、それが杞憂であることがわかった。
「知ってる? シンデレラは十二時の鐘が鳴ったら、ただの女の子にもどるのよ」
「知ってますよ。ガラスの靴を持った王子様が彼女を見つけてハッピーエンド。おしまいですよね」
「そう。でも私たちは、十二時を待たないで、ここでおしまい。優雅な鐘じゃなくて、けたたましいベルで、さようなら」
「……」
「悲しくなった?」
「加奈子さん。ポエミーですね。いてっ」
「……」
「いたい。いたい。すいませんって」
ムッとする加奈子さんを見て、悪いけど、かわいいと思った。口に出したら、もっとひどい目にあいそうだから、この一枚はそっと心の奥にしまうことにした。
「そういう空気の読めないところは、全く治ってないわね」
「僕は、まだまだ子供なんで」
「夫、失格ね」
「嫁からもよく言われます。……あ」
駅員の独特なしゃべりのあとに、幼稚園のお遊戯会のようなメロディーが流れてくる。性格の悪い列車が息を吸って、キンキンとうるさい声で鳴いた。楽しい音楽は、クジラに飲み込まれたみたいに、かき消された。
ドアが開く。
「加奈子さん。これ」
立ち上がろうとする加奈子さんに、僕は白いハンカチを手渡した。
「ひどい人ね。だから嫌いなのよ」
「好きに嫌ってください。嫌ってくれて構わないので、今日だけは嘘をつかせてください」
「いいわよ。私も、嘘をつくから」
僕らは唇を重ねた。
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