/3. 少女

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 それなりにキレイ目なアパートが、夕夏の住まいだった。ワンルームに通されたとき、夕夏から感じた違和感の出所がわかった。 「散らかってるかもしれないけど、どうぞ」 「お邪魔します」殺風景な部屋。夕夏には似合わないし、生活感すら最低限。暖房はかけっぱなしになっていたらしい。  散らかっている、なんてとんでもない。むしろ、片付きすぎている。  冷蔵庫から白い小箱が取り出されて卓に置かれる。冷蔵庫の中はほとんど空っぽになっていた。夕夏に促されて、戸棚からコップを二つ取り出す。小箱からはショートケーキが二つ。生クリームにイチゴ。コップにオレンジの炭酸が注がれる。冷えた板張りの床に座った。 「今日は特別」恥ずかしがる私を追い立てるみたいに、夕夏は自分に向けて高らかに歌う。ハッピバースデートゥーミー、ハッピバースデートゥーユウカ。誕生への祝福。ささやかなハッピーバースデー。 「ああ何年ぶり? こうやって誕生会みたいなのするのって」  上品にケーキを頬張った夕夏は幸せそうに嘆息していた。 「ふふふ、美味しい。ケーキはやっぱり格別ね。生きてるって感じがする!」  どうしようか。ケーキを前に思考を巡らせる。どこからどう見てもショートケーキで甘ったるい匂いがしている。砂糖の塊であることは明白で、この後を想像しただけでも肩のあたりから総毛立つ心地がした。  それでも、震えるフォークで柔らかなスポンジを一口サイズに切り分ける。 「ごめんね、私って友だちと誕生会もしたことないし、そもそも友だちの家に遊びに行ったこともないから。プレゼントもチョコレートも持ってない」  不慣れなのは無駄に過ごした十九年ぶんの経験のせい。口に運んだショートケーキは想像以上に甘ったるい。こんな甘いものが世の中にあったんだったっけ。甘い以外の味がしないくらい。 「良いの良いの。こっちが突然招いたんだし。別に気にしやしないって。私だって呼ばれたことないしお互いさまってことで。これも経験よ」  自分の家だからなのか、足を崩して座る夕夏はいつもよりラフだった。女性らしい上品な食べ方も、外食しているときより荒っぽくて遠慮が感じられない。食べることを楽しんでいるみたい。 「彩ちゃんの誕生日はいつなの?」 「一二月二六日。私の方が誕生日早いって意外だよ。夕夏ちゃんの方が歳上なんだって思ってるのに」 「え、何でよ。あー……でも、それもそうか。てか言ってよ、誕生日祝えなかったじゃん」  冗談めかして夕夏は口を尖らせる。 「……ねぇ、本当は違うよね、私を呼んだ理由って」  その仕草がいかにもわざとらしくて。明るく振る舞おうと頑張っている姿が痛々しくて耐えられなかった。  所作が止まる。イチゴを突き刺したフォークをくわえながら、夕夏は下唇を噛んだ。 「戸籍を変えたの」  咀嚼しながら、口元は手で隠される。私の後ろの壁へと視線が流されていた。 「んー、ホントのとこ、私はこのまま消えるつもりだったのよ。引っ越すの、誰も私のことを知らないトコに。今までの私からさようなら。  なんだけど、どうしてもねぇ」 「どこに引っ越すの」 「言わない。それだけは彩ちゃんにも言えない。  でもいつか私が落ち着いたとき、もしかしたら明かしちゃうかもね。あんまり期待できないけど」 「そっか。それで忙しかったんだね」  言わない理由も理解できる。過去を一切合切棄て去るのに、昔なじみなんて必要ない。夕夏は彼女ではない他人に成るのだから、私は彼女にとって邪魔なだけの存在にすぎない。  駅で出迎えられたときの違和感の正体。疲れている、もしくはやつれている。飾り気が普段より薄れている。 「そうそう、足りない分を稼ぐために働きづめ、それが終わったら荷造り。もうメンタルもダダ下がりでさあ。あれよ、フルボッコにされたってヤツ」  根元が黒くなった金髪を弄る。ケーキはもう食べ終えていた。 「彩ちゃんってさ、戸籍変えるんよね」 「うん」 「手術もするんよね」 「来年には。戸籍も来年のうちに」 「遠いね」 「うん」 「S字でやるの?」 「ううん、膣無し」 「そっか。まあ、そうなんだろうなって思ってた」 「どういう意味?」 「私もそうすれば良かったなって」 「……夕夏ちゃんはS字やったの」 「いいや、反転だった。でもあれ、色々痛いし、お金もかかるし、要は身体に穴開けるってことだから。今さらだけどね」  立ち上がると、夕夏は冷蔵庫から缶ビールを幾つか持ってくる。 「飲む?」「……うん」  ただ苦いだけの液体が流れ込んだ。 「前付き合ってた男がいたって話したじゃん」 「東京の?」 「まあ、そっちもそうだけど。別れたのってバレたからなのよね」 「……やっぱり、したらバレるの」 「全然バレない。私の場合はね。自分からカムしたの。そしたらフラれちゃった。別に好きでもなんでもない男だったのにねぇ」  夕夏は缶ビールをあおる。露わになった首筋は男のそれとは到底思えない。本当に、ずるいほど、女らしい。 「私は女として生きる。女だし」 「どこからどう見たって女よ」 「それは彩ちゃんもそうでしょう」 「私は」 「何にも言わなかったら、彩ちゃんが元男とか絶対気づかない。保証する」  たくましい言い切りだった。反論しても惨めなだけ。私だって反論したくない。そうあって欲しい。夕夏は嘘を吐いていない。 「誰かを好きになって恋をして、誰かに好きになられて、セックスして、結婚したい。ただの、そこらへんにいるひとりの女として。こんな日にはチョコレートを贈りたいし贈られたいし、ただの友だちとチョコを交換してみたい。していたかった――馬鹿みたいな、子どもの妄想よ」  二本目の缶が開けられる。私の方はまだ半分以上残っていそうなのに。 「でもそれは無理。だって私は女じゃあない。女に生まれついてなんかない。なのに私は女だよ。ひっどい矛盾」  初めて飲んだアルコールに顔が熱くなる。けれど頭ははっきりしたまま。眠たくもならない。 「そんなこと……」 「良いの、そこはもう良いの。だから私は一生女として生きる。女に成る。  って恥ずかし、こんな宣言しちゃってさ。これからずうっと、死ぬまで嘘を突き通すんだって誰かに約束してみたかっただけ。忘れて」  高らかに笑い飛ばそうとする夕夏の背中には、沈鬱な影がぐにゃりと纏わりついている。言葉に合わせるかのように歪んでいた。女ではない、けれど女だ。 「うちらってさ……こんなこと、言って良いのかわかんないけどさ……どうやっても、生まれつきの女には成れないじゃない。それっぽく近づくことはできるけど、女として、愛する誰かの子どもを産むなんてできないもん。私たちは」  夕夏が口を閉ざすまで、私は相槌を打つこともできなかった。女に成り損なうのは私の方で、夕夏ではないはずだった。 「……夕夏ちゃんでも、そんなふうに……そんなの私みたいな」 「駄目。そっから先は言わないの。言ったらその通りになっちゃうって言われてるでしょ。鏡に向かって毎朝、あなたは可愛いあなたは可愛い、ってちゃんと唱えてる?」  まあね、たまには。曖昧に頷く。  そんなの夢の中でもできやしない。鏡なんて見たくもないのに、見ずにはいられない。そんなときに唱えられる願望なんてありはしなくて、むしろ向こうの方から呪詛が投げつけられるのに。 「女には成り切れない、子どももつくれない、そんな……夕夏ちゃんが私なんかと同じように悩んでるって、意外だけど」  私たちは遺せない。手術をしても子どもは産めない。私はそもそも女ではなくて、どちらかといえば女として生きていく方が気楽で、無理がない。でもそれは、生命に逆らっているのかもしれない。 「そりゃあね。悩んだって仕方ないのに。  もう、戻れない。後悔はしていない。嘘でも見栄でも建前でもない。でも、だからってそこを割り切るのは難しいんじゃないかな」  もちろんそんなこと、ピンクの錠剤を飲んだその時から決めていた。少なくとも私はそれを望んだ。今も望んでいるから、注射も続けている。それは夕夏もそのはずで、だからこそ矛盾した欲動を抱え込んでいる。 「一生ついて回ってくるんだよ、私たちの男って。どれだけ逃げようとしても無駄。影みたいにして、死ぬまでぴったりくっついてくるの。だから、そのことをどれだけ認められるかじゃないかなって……まあ、私はそう思うワケです」  子どもが欲しいなら来世にかけるしかないね。  彼女はそう笑って肩をすくめた。その細くて分厚い肩が、このときだけ、プレパラートみたいに簡単に割れて砕けてしまいそうだった。  私は夕夏みたいに笑えなくて、ワンルームは静まり返った。暖房がやけにうるさく思えた。私たちは動くことを忘れてしまったみたいに、互いから目を逸らしていた。
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