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「泊まっていきなよ、今日はもう」
いっとう低い掠れ声が、静寂にくっきりと刻まれた。
家へ電話して夕夏の家に泊まると告げた瞬間、向こうの側の空気が張り詰めた。母は案の定『駄目。帰ってきなさい』と冷たく言い放った。
「どうして」
『どうしてもこうしてもなかろうが。良いから帰って。向こうの迷惑になるじゃろう』
「迷惑? そんなことない。私から言いだしたんじゃないし」
『なら余計に帰ってきなさい』
「理由訊いてるんだけど」
こんなのなら電話しなきゃ良かった。
『急に泊まるとか聞いとらんけぇ』
「……ねぇ。私、もう二一なんだよ」
『あの子の家なんやろ、あの……同じやて言ってた、あの子の』
「だったら何」
『あんなぁ……』
「何。言ってよ」
沈黙があった。
「言ってよ。駄目なら、理由を、はっきり」
『そんな子のとこに泊まるんわなぁ……ちょっと許可できんって』
「そんな子って何」
『後で話そう、それからやけ』
噛み合わせが悪くなったみたいな、投げやりで話にくそうな口ぶり。深呼吸。引き下がる気はない、けれど。でも、何も言わないまま? そんなの。
「何だよ、それ。今言ってよ。そんな子だから駄目なの? ねえ、言って? 納得させてみてよ」
『はあ、それとこれとは話が違うやろう。駄目て言うとるのに』
「違わねぇよ。じゃあ昔の私が男のままだったらよかったのか? それとも、向こうが?
ふざけんなよ。てめぇ、自分の目の前で何が起こってるのか理解してねえじゃねえか。男だろうと女だろうと関係あるか。ましてトランスしたからって、何で意味不明な価値を付け加えてんだ」
母の気配が小さくなった。話すことはもうない。まくしたてて息があがっている。何でだよ、何でこんなヤツが私を。それ以上は罵倒にしかなりそうもなかった。
そのまま電話を切った。
「……良かったの? お母さんだったんでしょ」
夕夏は少し唖然としているようだった。
「良いの。私は何にも悪いことはしてない。友だちの家に遊びに行って泊まるだけ」
そうね、と夕夏は含みをもたせたまま即答した。
「もうとっくに彩ちゃん二一なんだし、いちいち親がどうこう口出すのがおかしいって。それはそう」
「驚いた? あんな私」
「ん、いや、そうじゃない。ただ、彩ちゃんとお母さんって何だかんだ一緒に住んでるんだし、お金も出して協力してくれてるんだし。だからなって」
「……わかってるよ」
テーブルに肘を置くと肩の力が抜ける。そのまま姿勢がゆるゆると崩れていくのがわかった。
「お金は出してくれる。理解もしようとしてくれてる。正直なところ私は恵まれてるって思うよ、そういう面では。感謝もしてる。けどさ……」
それ以上は言いたくなかった。夕夏からの追求もなかった。
夕食を近くのコンビニで買うことにして外に出た。真冬の冷気にあたりながら歩くうちに、さっきまでの沈んだ空気が拭われていった。さっきまでのあのワンルームは暖房が効きすぎて空気が滞留していたのだろう、きっと。
「ケーキの後に夕ご飯って倒立してるね。私たちらしい」
互いに自分の分のレジ袋を提げて歩く。私がそんな毒を吐けるくらいには、今の夕夏は最高に醜い。街にはろくすっぽ人がいなくて廃墟みたいだ。時折、流れた明かりが夕夏の崩れかけたメイクを露わにする。きっとそれは私も同じ。
私たちが買い出しに行っている間に部屋の空気は軽くなっていた。サンドイッチにグラタン、夕夏はカルボナーラ。最低限の義理になるかも怪しい生チョコ。
「今日は特別ってね」
タガが外れたかのような食べ方だった。決して下品ではなく、ごく当たり前にコンビニ弁当をつついているだけだけれど。
「これって何か月分の脂だろう」
「三ヶ月くらい? 砂糖は一年分かな」
生チョコをためつすがめつしながら、夕夏は言った。
クレンジング、洗顔石鹸、化粧水に乳液。さらには私の持っていない類のジェルにパックに、と持って帰りたいくらい揃っていた。デパスまであった。
交代でシャワーを浴びて髪を乾かした。メイクを落とした私を見ても夕夏は顔色ひとつ変えなかった。夕夏の方はすっぴんでもいつもとさして変わりはなかった。
布団を貸してもらって横になる。底冷えは、着てきたダッフルコートで誤魔化す。
自分の部屋よりも、ひたすらに安らか。何をするでもない。そのまま、肩ひじ張らずにありのままでいられる。私たちに嘘はいらない。見せかけの女は必要ない。
「彩ちゃんは戸籍変えても彩ちゃんのままなの?」
真っ暗な中で尋ねられた。
「うん。彩花。私が女の子だったらこの名前だったんだし、本当の名前とも似てるからわかりやすいかなって」
「それでいいの」
肯定なのか問なのか判然としない平坦な口調だった。
「夕夏ちゃんはどうしてユウカなの?」
「それね、実は偽名。通称名もある意味偽名だけどね。これから使う予定がないって意味では偽名。
もう適当に名乗ってるだけなのよ。親に付けられた名前とは無関係だからって理由で。だからいずれ、ホントの名前に変える。向こうではその名前で生きてくつもり。どっちみち名前は必要だもの。こうして自らを突き動かして彩っている、そんな、ありていに言って蛹みたいな時期だけに使う名前と、その後、本当に使う名前」
「じゃあ新しく使う名前は」
私にそんな思考はない。思考してこなかったからこそ。過去の一切を棄てることは、過去の名前と同じひとではいられないことに結びつくのだろう。
間があった。ただ訊いただけで、教えてくれなくても良かった。
「トウカ」
私の手に暖かいものが触れた。夕夏の手。
「トウカ。透明の花」
「そっか。
……トウカらしいね」
息をしなくて良いくらい、今この瞬間だけは穏やかだ。
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