/3. 少女

6/6
前へ
/18ページ
次へ
「泊まっていきなよ、今日はもう」  いっとう低い掠れ声が、静寂にくっきりと刻まれた。  家へ電話して夕夏の家に泊まると告げた瞬間、向こうの側の空気が張り詰めた。母は案の定『駄目。帰ってきなさい』と冷たく言い放った。 「どうして」 『どうしてもこうしてもなかろうが。良いから帰って。向こうの迷惑になるじゃろう』 「迷惑? そんなことない。私から言いだしたんじゃないし」 『なら余計に帰ってきなさい』 「理由訊いてるんだけど」  こんなのなら電話しなきゃ良かった。 『急に泊まるとか聞いとらんけぇ』 「……ねぇ。私、もう二一なんだよ」 『あの子の家なんやろ、あの……同じやて言ってた、あの子の』 「だったら何」 『あんなぁ……』 「何。言ってよ」  沈黙があった。 「言ってよ。駄目なら、理由を、はっきり」 『そんな子のとこに泊まるんわなぁ……ちょっと許可できんって』 「そんな子って何」 『後で話そう、それからやけ』  噛み合わせが悪くなったみたいな、投げやりで話にくそうな口ぶり。深呼吸。引き下がる気はない、けれど。でも、何も言わないまま? そんなの。 「何だよ、それ。今言ってよ。そんな子だから駄目なの? ねえ、言って? 納得させてみてよ」 『はあ、それとこれとは話が違うやろう。駄目て言うとるのに』 「違わねぇよ。じゃあ昔の私が男のままだったらよかったのか? それとも、向こうが?   ふざけんなよ。てめぇ、自分の目の前で何が起こってるのか理解してねえじゃねえか。男だろうと女だろうと関係あるか。ましてトランスしたからって、何で意味不明な価値を付け加えてんだ」  母の気配が小さくなった。話すことはもうない。まくしたてて息があがっている。何でだよ、何でこんなヤツが私を。それ以上は罵倒にしかなりそうもなかった。  そのまま電話を切った。 「……良かったの? お母さんだったんでしょ」  夕夏は少し唖然としているようだった。 「良いの。私は何にも悪いことはしてない。友だちの家に遊びに行って泊まるだけ」  そうね、と夕夏は含みをもたせたまま即答した。 「もうとっくに彩ちゃん二一なんだし、いちいち親がどうこう口出すのがおかしいって。それはそう」 「驚いた? あんな私」 「ん、いや、そうじゃない。ただ、彩ちゃんとお母さんって何だかんだ一緒に住んでるんだし、お金も出して協力してくれてるんだし。だからなって」 「……わかってるよ」  テーブルに肘を置くと肩の力が抜ける。そのまま姿勢がゆるゆると崩れていくのがわかった。 「お金は出してくれる。理解もしようとしてくれてる。正直なところ私は恵まれてるって思うよ、そういう面では。感謝もしてる。けどさ……」  それ以上は言いたくなかった。夕夏からの追求もなかった。  夕食を近くのコンビニで買うことにして外に出た。真冬の冷気にあたりながら歩くうちに、さっきまでの沈んだ空気が拭われていった。さっきまでのあのワンルームは暖房が効きすぎて空気が滞留していたのだろう、きっと。 「ケーキの後に夕ご飯って倒立してるね。私たちらしい」  互いに自分の分のレジ袋を提げて歩く。私がそんな毒を吐けるくらいには、今の夕夏は最高に醜い。街にはろくすっぽ人がいなくて廃墟みたいだ。時折、流れた明かりが夕夏の崩れかけたメイクを露わにする。きっとそれは私も同じ。  私たちが買い出しに行っている間に部屋の空気は軽くなっていた。サンドイッチにグラタン、夕夏はカルボナーラ。最低限の義理になるかも怪しい生チョコ。 「今日は特別ってね」  タガが外れたかのような食べ方だった。決して下品ではなく、ごく当たり前にコンビニ弁当をつついているだけだけれど。 「これって何か月分の脂だろう」 「三ヶ月くらい? 砂糖は一年分かな」  生チョコをためつすがめつしながら、夕夏は言った。  クレンジング、洗顔石鹸、化粧水に乳液。さらには私の持っていない類のジェルにパックに、と持って帰りたいくらい揃っていた。デパスまであった。  交代でシャワーを浴びて髪を乾かした。メイクを落とした私を見ても夕夏は顔色ひとつ変えなかった。夕夏の方はすっぴんでもいつもとさして変わりはなかった。  布団を貸してもらって横になる。底冷えは、着てきたダッフルコートで誤魔化す。  自分の部屋よりも、ひたすらに安らか。何をするでもない。そのまま、肩ひじ張らずにありのままでいられる。私たちに嘘はいらない。見せかけの女は必要ない。 「彩ちゃんは戸籍変えても彩ちゃんのままなの?」  真っ暗な中で尋ねられた。 「うん。彩花。私が女の子だったらこの名前だったんだし、本当の名前とも似てるからわかりやすいかなって」 「それでいいの」  肯定なのか問なのか判然としない平坦な口調だった。 「夕夏ちゃんはどうしてユウカなの?」 「それね、実は偽名。通称名もある意味偽名だけどね。これから使う予定がないって意味では偽名。  もう適当に名乗ってるだけなのよ。親に付けられた名前とは無関係だからって理由で。だからいずれ、ホントの名前に変える。向こうではその名前で生きてくつもり。どっちみち名前は必要だもの。こうして自らを突き動かして彩っている、そんな、ありていに言って蛹みたいな時期だけに使う名前と、その後、本当に使う名前」 「じゃあ新しく使う名前は」  私にそんな思考はない。思考してこなかったからこそ。過去の一切を棄てることは、過去の名前と同じひとではいられないことに結びつくのだろう。  間があった。ただ訊いただけで、教えてくれなくても良かった。 「トウカ」  私の手に暖かいものが触れた。夕夏の手。 「トウカ。透明の花」 「そっか。  ……トウカらしいね」  息をしなくて良いくらい、今この瞬間だけは穏やかだ。
/18ページ

最初のコメントを投稿しよう!

4人が本棚に入れています
本棚に追加