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私の財布の中身が尽きかけたところで、夕夏とお手洗いに向かった。
どちらへ入るのか、密かに気になっていた。
「ごめん、ちょっと荷物お願いね」
夕夏は私に荷物の大方を預けると、全く自然に、堂々と女性用へと入った。その背中を見つめていた私とは対照的に、当たり前のようにしてそちらへと入ったのだった。
確か、戸籍はまだ変わっていないんじゃなかったっけ。とすれば、私たちはどっちを利用するのが正しいのだろう。
ある意味、夕夏の場合は単純だ。誰が夕夏の戸籍を推測できよう。あの姿の夕夏を、誰が看破できよう。
やはり自然体で戻ってきた夕夏に、今度は私のぶんの荷物を預けた。紙袋を手渡したとき、ずっとその重さに耐えていた左腕が僅かに痙攣した気がした。
「やめときなよ」
手前に位置した女性用お手洗いの前をあっさりと通り過ぎたときに、夕夏の声が後ろからした。
「え?」
意味はわかっている。そんなに鈍感じゃあないし。もし私と夕夏の立場が逆なら、私だって夕夏を止めている。それが、私たちにとっての美徳だから。
心の性とかいうよくわかんないものを大切にする、っていう美徳。
「やめときなよ、そっちは」
この時の夕夏の声音は、これまでより気持ち低かった。
「まだ私には、早いよ」
振り切って、私はそのまま前に進む。追いかけてまで、夕夏は止めにこなかった。
どうして私はこんなに弱いのか。同じ年を生きてきて、どうしてこんなに私と夕夏の間に差がついてしまっているのか。――卑屈さが頭から離れてくれない。
こうやってトランスを初めて以来、このことを知っているひとは私と一緒にトイレに入らない。これまでは当たり前のように一緒に使っていたのに、私の心の内側に触れたことのあるひとたちは、何を言うでもなく気を使って、もしかするとバツの悪い顔になって私が男性用のお手洗いから出てくるのを待っている。
心の性云々を蔑ろにする気があるわけじゃあない。でも、もし誰かに見咎められたら。そう思うと、向こうのトイレは遠かった。
誰もいなかった。人のいないであろう場所とタイミングを見計らって選ぶことに、私は慣れきってしまっている。新しくできたばかりの立派な建物だと男性用お手洗いの入り口が開放的すぎることもないし、洗面台だって広々と造られていることが多い。ここのトイレもそうだった。手を洗った後、トートのなかの小さな鞄から取り出したあぶらとり紙を、厭にみっともなくてかる鼻筋にあてがう。
鏡に映った姿は、誰のものかもわからない。
髪は肩より下、胸のあたりまで伸びている。少しうねったり跳ねたりしていて、特別綺麗でもないし痛んでもいない黒髪だ。面長で大きな眼、肉感的な唇、大きな鼻。母の二十歳くらいの写真と瓜二つの顔だち。その肌理はファンデとコンシーラーで否定されて、色白が強調されている。細く整った形を描く眉。うっすらと光の散ったようなアイシャドウが瞼を彩ってクマを消し、引き伸ばされたアイラインが瞳を強調する。右眼を緩く覆う前髪が、二重の左眼をより大きくする。唇には薄紅色のルージュ。
落ち着いたクリーム色のロングコーディアンにワインレッドのセーターを着て、首元に薄紫のラピスラズリをつけている。ジーンズは細め。
髪のうねりを気にして弄っていると、スーツを着た男のひとがトイレに入ってきた。そのひとは鏡を睨みつけていた私の姿をみとめると、半歩下がってたじろいだ。言葉未満の呻きのような、ああ、だとか、う、え、としゃにむに首を振る。
またかよ。めんどくさい。
「大丈夫ですよ」
とっくに忘れた低い声を出そうとしてみて失敗する。あなたは間違っていない、ここは男子トイレですよ、と伝えたつもりだった。
結局、男は何かに化かされたような顔をすると、踵を返して退散していった。
「――ねぇ、お前。誰」
鏡から問いかけられた。財布の中身を半分以上注ぎこんで作りあげた虚像。子を遺す事を許さない身体。私は高いお金を払って、私に消えない毒を突きさしてもらう。私は不連続で、出来損ないの生命に成ってゆく。
誰だよ。わかりきってる問いと答え。
ささやかな復讐。産まれた事に対する、社会に対する、私に対する、母に対する復讐。後ろ暗さを消すためにポケットからピルケースを取り出した。ホルモン剤とエチゾラムとSSRIが提供する鮮やかな悪夢だけが、こんな私にキレイなセカイをくれる。
吐気は、既に愉しい。愉しんでいないと、本当に吐いてしまうから。
トイレから出た私を夕夏が出迎える。持ってもらっていた荷物を返してもらった。大きな紙袋には、買い占めた私の服とアクセサリとが詰め込まれている。もちろん、女物の。
「だからやめといた方が良いって言ったじゃんか」
眉根を歪めて、いけない事をした子供を咎めるような詰問調。私は何も悪い事をしていないのに身をすくめてしまう。だって、と逡巡する私の背中を夕夏は静かに、力強く押す。
「ほら、今度からはあっちあっち。女の子なんだから」
そんな簡単に言って。良いよね、夕夏は。後は戸籍だけなんでしょ? 呑みこんだ言葉は喉のあたりで引っかかる。あのオジサンのような反応に慣れきっている私は、通報されて警察沙汰になるくらいならと頑なに女子トイレを使わない。夕夏みたいな才能と素養の無い私に、透明な壁が立ちはだかる。
そんな壁を、彼女はいとも簡単に突き破る。誰も彼女を咎めない。女の子なんだから。
この言葉は彼女には許された特権だ。東京の元カレがどうの、とぼやく顔も自然。
女の子なんだから、彼氏がいても当たり前。女に成り損なった私は、男を好いても女を好いても、どっちを好いても叩かれるだけだ。
強がって、私も彼氏がいると答えた。もういなくなってしまった彼氏を思い出す。私は女の子、だから彼氏がいても当たり前。男扱いされていた時には、まるきり、逆の話を強いられていたのに。今は逆だ。
それっぽい話をしてみせるのはさほど難しくない。でも、まるで妄想。妄想だからこそどこかが綻ぶ。私はそれを、ファンデで肌を誤魔化すみたいにして隠していく。強引に括られたLGBTの四つのアルファベットが、優しい顔をして私の恋愛対象を緩く縛り上げる。
じゃあ彩ちゃんは男の子が好きなんだ、と言われた時に、その綻びは妄想から現実へ接近した。
「でも、私はどっちでも良いって言うか……」
夕夏は、ふぅん、じゃあバイなんだ、とそれでも普通に返してくれた。――私の恋愛対象は男の子。それ以外なのだと口にすることは憚られる。ただでさえ私は異端者、障害者なのだから。
でも、夕夏なら。親でも医者でもカウンセラーでもない、同じ異端者なら。喉ぼとけのあたりでつっかえていたものを呑み込んでしまった。
「バイともまた違うかな、パンセク、ううん、もっと……欲の無い、って言ったらどうなんだろう。性嫌悪、みたいな。私って性自認も曖昧だからさ」
ぽつり、失敗だったと気が付いたのは言ってしまった後のこと。む、と彼女は難しい顔をする。私は恋愛対象がどっちでも良いのでは無くて、もっと別の……伝えたい言葉は不自由なまま、私の内から出ていかない。
私は。私は、男なんて。
「性嫌悪って何? いや、そもそもパンセクって何の略だったっけ……ああ、でも友達に同じようなこと言ってた子いたかも。アセクシャルだったかなぁ、恋愛感情が沸かないんだーって」
そんなものかな、と微笑んだ私は、きっととてもぎこちなかったに違いない。何かをまた言おうとして、彼女は口をつぐんだ。良いよ、ごめんね、難しく言っちゃって。せっかくの買い物、暗くてややこしい話はこの華やかさとは似合わない。
私みたいな奴は別だけど。
私たちは薄ピンク色を基調にした、淡い彩りの売り場の集まりの前を歩いていた。さ、と切り替えるようにして夕夏は堂々とその中に入っていく。立ち止まった私を、一寸呆れたような、そんな可愛らしさで手招いた。
「女の子なんだから」その手は自然にそう告げる。彼女の特権をはっきりと口にされるより先に、私は下着売り場へ足を踏み入れる。可愛らしいものは好きだけれど、私には似合わない。そんな孤独な抵抗を正しい優しさが破壊する。イヤホンで麻酔をしているつもりになって、私は空っぽの耳を空っぽの感触で埋め込んだ。
膨らみかけの私の胸にAカップのブラジャーがあてがわれて、その日は別れた。
駅で、夕夏は十九時半の満員電車に詰め込まれた。頭ひとつぶん抜けた夕夏は、くら、と人混みに押されながら、折れてしまいそうな明るい笑顔を浮かべて私を置き去りにする。
手を振るだけでも、私はこんなにもぎこちない。車体に映る、歪んだ姿の私。奥歯を噛み締めた。ブーツの中で無駄に力の込められた足の指が鳴った。そうでもしないと、凡そ女の子らしくない目つきで線路を睨んでしまう。
私も帰ろうと、別のホームへと向かった。夕夏とは真逆の、ずっと田舎へと続く路線で待つひとの姿は少ない。こんな出で立ちをしていて目立たないかと心配していたけれど、こそこそとしていても逆に目立つだけだと知っている。
それでも人目を気にせずにはいられない。変なひとに思われていないだろうか。買った下着が気持ち悪く思われていないだろうか。メイクは、髪は。服でいっぱいになった紙袋の持ち方は。うっかり知り合いに出くわさないだろうか。
バカバカしい妄想。誰が私が下げた紙袋の中身にまで気が付くんだよ。透視されなきゃバレないだろうに。
そうやって見渡していると、ひとつ、思い至った。
ここで電車を待つひとたち。或いは、夕夏と歩いていてすれ違った、今日限りで一生会うことの無いひとたち。そのひとたち全員――男なんて論外、女のひとと比べても、夕夏はひと際美しいのだ。生まれつきなんて関係なくて、夕夏は全き美人でしかない。
化粧をしていない女の子が前を通り過ぎる。その後ろに、くたびれた表情の女性が続く。けれども、彼女たちの誰ひとりとして、夕夏には敵わない。
あまりにも、夕夏は、既に女性として美人なのだ。
なんだよ、それ。そんなの絶対敵わないじゃんか。なんで夕夏はあんな綺麗に生まれて、私はなんでこんななんだよ。
ホームの柱に背を預けた。夜の外気で冴え冴えとした冷たさが、私の背骨をわしづかみにした。
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