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ノートパソコンの液晶画面の向こう側で、小さな女の子がライフルを片手に宙を舞う。女の子は、廃墟になったビル群にワイヤーを続けざまに打ち込んで、縦横無尽に飛び回っていた。
赤色のドレスを着た、あからさまなまでの女の子。幼女と呼称しても差し支えないキャラクタが、荒っぽい動きで巨大な人型エネミー複数体へ的確に銃弾を浴びせてゆく。腕が無力化された、とメッセージが表示される。エネミーの体力を削りきるまで一分もかからない。私のキャラクタはその様をビルの屋上から眺めている。見ていた限りではノーダメージでクリアしていた。元廃人クラスのPVPプレイヤーならではの動き。一騎当千、とはまさにアカネのこと。
キーボードを叩く。『Aya:補給いる?』と右上の小さなウインドウに表示される。『Akane:まだ大丈夫―』即答だった。
『Akane:後ろ沸くから倒しといてー』
『Aya:はーい』
私の操作で、黒っぽいスレンダーな少女が大型のライフルを構える。スコープを覗くと、青白い光のエフェクトと共に、遠くでさっきアカネが倒したものと同種のエネミーが出現した。照準を合わせて発砲する。アカネみたいには無理でも、一体ずつ安全に仕留めるくらいなら幾らでもできる。背後からはアカネが戦っている音が聞こえる。
四発目を当てた時、突然、甲高い異音が突き抜けてきた。ゲームの中の音ではない。パソコンから顔を上げる。油の切れた自転車のブレーキにも似ていたが、こんな夜遅くに通りがかるはずもない。近所の野良猫の喚き声にしては、それらしくもなかった。
画面に視線を戻すと間髪入れずに、階下から金物めいた強烈な衝突音と鈍い低音が響く。五発目が跳弾した。入射角が浅かった。低音の方は唸り声にも似ていて、つまり生物的で、どう考えたって祖父の大声。数年ぶりに聞く。
下で何かあったことは明らかだった。
『Aya:ごめん、ちょっと離席しなきゃ』
凡そ尋常ならざる事態でもない限り、祖父が声をあげることはない。たぶん、甲高い異音の方は、祖母の金切声だ。それも、恐らくは理性がふりきれた声。
『Akane:どしたあの』
戦闘の真っ最中だからだろう、返信にはタイプミスがあった。自分のキャラクタを屋内の物陰へと避難させる。どのみち、アカネならソロでもクリアできる。その間にも祖父の大声が響いていた。階段を降りるに従って、その声がはっきりとしてくる。怒声ではない。しっかりとした、丸みのある声。呼び声のような。
台所に降りると、隣にある祖母の部屋から叫び声があがっている。隣の部屋には戸が引かれていて、床には緋色の欠片……分厚くて、金色でAの文字があしらわれた欠片、割れた、コップ、無残に砕けたマグカップ……。
氷水を一息に飲み干したみたいな気分。テーブルの上を探す。無い。流しにも無い。私のマグカップが割れている。さっきまでその氷水を飲んでいたマグカップが、粉々に割れている。砕けて、砕け散って、散らばっている。
引き戸を開けると、祖母が発狂していた。
「――私ぁ――もう、無理――もう無理、もう――ああぁおかしゅう――なん――!」
金切り声は、ほとんど言葉として機能していない。灯りの点いていない四畳半に敷かれた寝床の、それも隅の方へ頭を沈めるようにして、祖母は身体を丸め泣き喚いていた。表情はわからない。祖母に向けて、祖父は呼びかける。
どうしたんな、なあ、お祖母さんや、どうしたんなあ、しっかりせえ、お祖母さん。うろたえたまま、祖父は祖母の震える肩を、あやすようにさすっていた。
「――おかしゅうなる――おかしゅう――こんな――もう無理――こんな――じゃあ――」
食卓の上には洗い物たち。流しにもまだ残っている。布巾が濡れそぼったまま、床に落ちていた。
そのどこにも、私のマグカップはなかった。床に散らばった残骸は原型をとどめてすらいないけれど、それらが私のマグカップだったものなのだと察するしかなかった。まるで、力いっぱいに叩き付けて踏み砕いたみたい。
尋常ならざる声を聞きつけたのか、母が台所へ入ってきた。
「どうしたの、お祖母ちゃんは。何があったの」
慌て調子で声が上ずっていた。
「私もわかんない。上でゲームしてた」
「え、何これ、割れてるのって文人のコップ?」
「たぶん」
「何なんよもう。さっさと片づけんと踏んだら大事よ。文人、ちょっと掃除機持ってきて」
「でも、これ」
母の興味は既に私から祖母へと移っていた。「お祖母ちゃん? どしたん、はいはい落ち着いて、お祖母ちゃん? なあこれ何があったんよ」つかつかと四畳半に踏み入ると祖父に尋ねていた。
私は回れ右をしている。足が廊下へと向かっていて、掃除機を探す。洗面所の近く、物置と化した廊下の一角に掃除機はあった。がらんごろんと騒々しい音をたてながら、埃の匂いがする古い掃除機を引っ張って台所へと戻る。「ここ置いとくよ」返事はなかった。「ここ、掃除機置いておいたからね」母が後ろ手を私へ振ってみせた。その間にも、祖母は、
「――なんよ――何でなんよ――狂う――もう私ぁ――ああ――」
と喚き通していた。シャウトなんて囁き声レベル。いや、もう、何、これって何。
突如、祖母は立ち上がる。小柄であちこちが痛いはずなのに大きな動きだった。その肩に手を添えていた祖父はのけぞり、姿勢を低くしていた母は引き戸へ背中をぶつけた。
誰これ。
くしゃくしゃに握りつぶされた新聞紙みたいな顔。俯き加減で私の前の空気を押し退けた。台所の勝手口へ、ほとんどタックルのように倒れ込んだ。
「何しとんよ! はよ止めて!」
母の声まで大きくなった。
「もうおれん――こんなイエにやこ、よお――私ぁ出ていく。出ていってやる!」
聞いていられたのはそこまでで。
「何しやがったよ」
勝手口にひっさばる手を掴む。
「てめぇ、私のコップをどうしやがった? え?」
片手が、その首を絞めた。
「文人! やめて!」鬼気迫った声。
「答えろや!」
……怒鳴ったのなんて、いつぶりかしら。地声で。滑稽ね。
腹の底から脳天まで、私の身体に自由はない。私は私を呆けたように見守っている。「文人、やめ……やめ」背後から母が私の両肩を揺さぶった。祖母の首も揺れた。「お祖父ちゃんも何しとる! はよ文人止めて!」途切れ途切れに、祖母の張りつめた絶叫が耳を直撃する。うるさいな、音を出さないでよ。不愉快なんだよ。それだけで。
背中を引く力が強くなって、私の身体はバランスを崩している。首から手が離れた。脳天に固い一撃。振動。食卓の角にぶつかったか。床についた右手に痛み。掌、その中央に小さな緋色の欠片が食い込んでいる。すぐに離れて落下する。
「何で、何で、うちの文人がこんなにならんと駄目なん――何を間違ったん――私ぁ何を間違ったん」
私を見ずに、祖母は言った。泣きながら。
ざけんなよ。
母と祖父の手を振りほどいて、静かに立った。叫びたかった。ざけんなよ。
「違うんよ、それは違うん。何にも悪くないん」
母が何か慌てて言っている。
「何も違わん! 何でなん、何で、文人が……文人が……あんなもん……」
何だ、私がどこを間違えた。狂った不良品かよ。ああそうですか、私のせいであんたの孫は消えちまったんですよね。私のせいで。私のせい、こんなぶっ壊れのせいで。あんなもんで水飲んでたんですもんね、私がこんなせいで。こんな私のせいで。
代わりに、ゆっくり目を閉じた。
「上行く。来ないで」
来るな、の方が文人らしかったかな。台所の壁を伝って廊下に出る。そのまま階段へ辿り着いて上る。
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