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雨が降り続いている。
まるで大きな水槽に閉じ込められているかのようにずっしりと重い雨。
「三井先生!」
ふいに肩を叩かれた。ビクリと体をすくませると心配そうにのぞき込んでくる顔がある。
「は…!」
「どうされましたか?うなされていましたよ」
「…、え?」
荒くなっていた呼吸を整えながら辺りを見回すと自宅の一室で、どうやら机の上に突っ伏したまま寝入ってしまっていたらしい。
ガチガチに固まった背中を伸ばしながら書きかけの小説に視線を送る。人魚伝説について調べていたからあんな夢を見たのか。
「…生きてる?」
あまりの生々しさに不安になり顔や腕を触ってみるが、どこも変わったところはない。
「大丈夫ですか?」
「…」
「三井さん」
そう呼ぶ紀の声色にビクリと体をすくませた。不安そうな顔をしていたのだろう、紀は首をかしげると安心させるように微笑んだ。
と、ふと視線を落とした場所に玉虫色に光る何かが一枚落ちていた。鈍く光るそれを摘み取ると魚の鱗のようなものだ。
見覚えがある、と思ったとたん喉が渇きを覚えた。
「喉が」
「乾きましたか?今お水を持ってきますね」
「…体も」
「…三井先生?」
ドアに手をかけた紀が訝しげに視線をよこす。
「どうされましたか?」
「…水」
水が欲しい。
とにかく大量の。
「…今、持ってきます」
紀がいなくなると書きかけの小説に視線を戻した。さっきまで自分が書いていただろう小説には、主人公の人魚が運命の相手と出会うシーンが書いてある途中だった。
『…彼は波打ち際にひとり立ちすくみ、暗い瞳をこらし、じっと何かを捉えるように探るように視線をよこす』
『波の狭間からうかがっていると彼はわたしを見つけたようだった。破願したかと思うと瞳を輝かせ一歩前へと進みだす。脚が波にぬれていくことも構わないようだった』
「ぼくは、この子を知っている」
霞がかった記憶がゆっくりと晴れていく。
「…この子は、」
「そうですよ。三井先生」
いつの間に戻ってきていたのか、紀は口元だけに笑みを浮かべると三井に近づいて耳元で囁いた。
「これはわたしであなたです」
「あなたで、ぼく…?」
「おかえり、ひお」
「ひお」
「そうですよ、ぼくの愛しい人魚」
「ぼくが」
そうだ。ひおと共に水に沈んでいった。ぼくは。
息が苦しい。ふと部屋に飾られた古い鏡がその姿を映し出した。顔を覆う指先に細く爪が光る。めくれた袖先から見える鱗が玉虫色に反射した。
「…ひお…?」
くつくつくつ、と楽し気な紀の笑い声が耳に届く。水の匂いが充満する。ああ、早く水の中に潜り込みたいと強く思った。
「これからもずっとともに生きましょうね。ぼくの、ひお」
紀がひおの手を取り、唇を寄せた。
「永遠にあなたはぼくのものだ」
窓の外は雨が降り続いている。
まるで外界から切り離されたかのように湿った空気が家中を覆い隠す。
堕ちた赤い椿の花が水面に揺れていた。
fin
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