水に住む家。

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「紀さん…」 「はい」 「もしかして、ぼくは、ずっと昔…あなたに会いましたか?」 「…」  紀は是とも否ともいわず、ただ曖昧に笑みを浮かべたまま三井を見つめていた。  そうだ。会っている、ここで、遠い昔に。  蘇る記憶を遮るようにノイズが走る。これ以上は思い出さないほうがいい。知らないほうがいい。今すぐ逃げたほうがいい。だが脚は動かない。 「この辺りにはこんな話があるんですよ」と紀は微笑みながら話をはじめた。 「昔の話ですが、とある夫婦が海に得体のしれない生き物を見つけた。それは人の姿をしていながら、人ではなかった。もしかしてあれが不老不死の力を手に入れることのできる人魚というものではないのか、そう思い当たった夫婦は人々の制止も聞かず、海に行き、生け捕ろうとした」  低い紀の声が古い建物の中に反響していく。まるであちこちに古い亡霊がいてそれらが囁いているかのように、耳へと届いた。 「ようやく生け捕った人魚はすっかりボロボロになっていた。それでも人魚には変わりないとその肉を口に入れようとして…だけど人魚も黙って食べられるほど弱くもなかった。反対に襲われたその夫婦は二度と戻ってくることはなかった」  だけどね、と紀は三井に視線を向けた。紀の瞳がある場所はぽっかりと穴が開いたような漆黒で、まともにかち合ってしまった三井は思わず後ずさる。 「どうやらその夫婦には子供がいたらしい。人魚にも心があるからね、子供だけは見逃したようです。その子は両親がどんなことをしていたのか、どんな目に遭ったのか分からないままひとりでずっと砂浜で遊んでいました。それはとても無邪気に」  ダメだ、と三井は首を振った。これ以上この話を聞いてはダメだ。せっかく忘れていたのだから。このまま思い出しては、だめだ。  何度も首を振りながら三井は先を問うことをやめることはできなかった。言葉を止めることができない。 「その子供は…」 「さあ、そんな話があるって伝え聞いたものですから…ぼくにはわかりませんけど。でも、人魚に会った人はまた呼び寄せられるように戻ってきてしまうそうですよ。まるで運命だといわんばかりに」  ぼくやあなたのようにね、と紀は口元を上げた。  片隅にある記憶が点滅する。ずっと浜辺で両親を待っていた。夜が来て真っ暗な中波がすぐそばまで打ち寄せてきても、誰も迎えに来てはくれなかった。不安になりながら一人で眺めていた海を思い出す。___遠い昔の出来事…。 「ここでひっそりと生きていければよかったんですよ。ひおと、ぼくと、ただ2人でずっと」  紀は三井の手を掴んだ。力の抜けていた腕はしっかりと紀の手の中にある。 「両親も親戚も友人もみんないなくなって。何年も何十年もすべてが移ろいゆく中で、ひおといることだけは変わらない。それだけなんですよ」  三井さんも同じですよね、と紀は三井の指を撫でていく。途端に腫れていた場所がずきりと痛んだ。 「っ…」 「これ、歯型ですよね。誰かに噛まれた?」 「…わ、かりません」 「家に帰って手当しましょう」  帰りの車の中は2人とも無口なままで促されるまま紀の家へと帰ってきてしまった。家の中に入るとひおのにおいが充満している。
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