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その夜も紀の作る食事をごちそうになり、深夜まで書庫にある蔵書を読ませてもらった。小説のネタはたくさんあった。三井の中から沸き起こるようにストーリーが紡がれていく。
かなり夜も更け、紀が眠りについただろう頃に三井はひっそりとひおのいる部屋へと向かった。廊下が三井の足跡を吸い込んでいく。
「ひお」
扉を開けて声をかけようとすると、水音に交じり誰かがクスクスと囁き笑いあうひそやかな声が耳に届いた。あまりにも親密な声色にギクリと体をこわばらせた。
薄暗い部屋の中、水辺に寄り添うようにして紀とひおが顔を寄せ合っていた。
「やっぱり来ましたね」と声の主である紀が三井に顔を向けた。
「遅かったですね」
「紀さん…」
勝手にひおのもとを訪れた気まずさに視線を逸らすと紀は「こちらへ来ませんか」と三井を誘った。
「ひおも待っていましたよ」
誘われるままに水辺へとよるとひおから青臭いにおいが発せられていることに気がついた。
水を波打たせながら水面へと躍り出て愛らしい顔を三井へと向けてくる。
ひお___三井の両親を奪ったかもしれない人魚。それでも怖いとは思えなかった。不思議なもので気持ちは凪いだように穏やかで、ずっと昔から全部知っていたような気がする。
「お前だったんだね」
濡れた髪を撫でてやると気持ちよさそうに喉を鳴らし目を細めた。
「ひお」
名前を呼ぶと愛おしさが胸の中一杯に広がっていく。人魚は人間を惑わすものかもしれないけど、ひおになら惑わされてもいいとさえ思う。紀もそうなんだろう。
「紀さん、さっきの話…」
「ん?」
「いいえ。なんでも」
もう今更どうでもよかった。今こうしてひおや紀と一緒にいることがすべてだ。それでいいと思った。
「紀さんの知っていること、もっと教えてください」
「ぼくの知っていること?」
「はい。紀さんの著書をたくさん読ませていただきました。どれもひおへの愛情がたくさんで、あなたが本当に人魚を愛していることが伝わってきました。ぼくの小説もどうやらかけそうな気がします。でも、あと一歩なんです…もし、まだ知っている秘密があるなら教えてください」
「そうだね」と紀はひおの頬を撫でた。
薄暗い部屋の中で水中だけが鈍く光り輝いていた。水の輪が広がっている。
「じゃあ、人魚の肉を食べると本当に不老不死になれるのか…三井さんはどう思いますか?」
「…なれると思います」
「どうして?」
「人魚は長く生きると言われています。だから地や肉にもそんな力があるかもしれない」
ひおが水に潜り、気持ちよさそうに体をくねらせ泳いでいる。
それを眺めながら紀は「半分正解」と答えた。
「でも半分間違いです。正確には…なれません。ちゃんと朽ちていきます。でも普通の人よりはずっと長持ちをする。朽ちてきた人はどうするのか…わかりますか?」
クスクスと笑いをひそめた声が続いた。
「人魚から分けてもらうんですよ。血や肉や、いろんなものを…そうすることで再び精が保たれる」
ひおに流れているものが口にしたひとの体を再生させていくということだ。
「でもね、人魚も朽ちていくんですよ。残念ながら。ひおももうすぐ果ててしまう…体の中はもうすっかり腐敗が始まっている。気がついていましたか?家中にただようにおいに…こんなにきれいな子なのにね」
「ひおが…」
この家中に漂っているにおいはひおが腐敗し始めているにおいだというのか。やっと出会えたというのに。
「じゃ、じゃあ…どうすれば…」
せっかく会えたのに終わりだというのか。人魚は不死ではないのか。
「それはね」と紀は眩しそうに三井を見た。
その時だった。
どこからともなく涼やかな歌声が聞こえてきた。まるで母が歌う子守歌のように、祈りを捧げる者たちに救いの手を差し出す聖母の歌声のように清らかで優しい声が部屋の中に響き渡る。
「聞こえますか?」と紀はうっととするように瞳を閉じた。
「ひおが歌っている」
「ええ…」
「あなたを呼んでいる」
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