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「ただいまタオルと温かいお飲み物をお持ちしますので、こちらで少々お待ちください」
「お気遣いなく…」
初対面の時同様に男は音もなく姿を消し、広い部屋にひとり残された三井は小さく息を吐き部屋の中を見回した。調度品はどれもが質がよさそうで綺麗に磨きこまれている。目の前にある重厚さをかんじさせるテーブルのふちにある精巧な飾り彫を指先でたどると、それは吸い付くように三井の指を慰めた。
「すごいな…。やはり学者さんていうのは贅沢で古いものに価値を感じたりするのだろうか」
もう一度室内を見回して、ふう、と息を吐く。
売れない作家もどきである三井の自宅とは大違いだ。乱雑に積み上げられた書籍の中に埋もれるように暮らしている三井にとってこんな贅を尽くした空間はどうにも落ち着かない。
今回三井がここを訪れたわけは、ある伝承を詳しく調べることだった。
『人魚伝説』
もしかしたらどこかでそれを耳にしたことのある人はいるかもしれない。人魚の肉を食べると不老不死になるとか、八百比丘尼なんかの話もある。ただの迷信というにはなんとも魅力的であり、インターネットで調べていた時にこの地方に伝わる伝承を目にしたというわけだ。
研究をしているという紀の居場所を探しコンタクトを取り何度も断られながらやっとのことで会って話してもらえることになったのだ。
10代のころたまたま出した作品が新人賞を受賞し思いがけず作家としてデビューした三井だが、思うような売れゆきではなかった。そしてその後はまもとな小説をかけてはない。
今度こそ…最後のチャンスとして愛してやまない人魚を題材に、これが書きたかったものだと思えるような小説を書いてみたい。そのためにはやはりもっと詳しく人魚を知りたかった。
「お待たせいたしました」
やはり物音ひとつ立てず、男は三井の目の前に立ち、タオルを手渡した。
「ありがとうございます」
受け取り、濡れて色の変わってしまったジャケットをとんとんと叩いた。頭や顔も遠慮なく拭かせてもらう。雨が続いているせいか空気も冷え、濡れたところから風邪をひいてしまいそうだった。
「温かいものもどうぞ」
「何から何まで…すみません」
「いいえ、それにしても」と、壁一面に広がる窓から先ほど玄関先で見ていたと思われる庭に視線を向けた。
「よく降りますね」
「本当に。雨は嫌いじゃないけど、これだけ続けばさすがに気が滅入ってきます」
同じように窓へと視線を向けながら答えると、男はふ、と小さく笑い三井のほうへと視線を向けた。
「改めまして、はじめまして。紀(きの)と申します。わざわざこんな辺鄙なところまでようこそお越し
くださいました」
「こちらこそ、本日はありがとうございます。三井と申します」
名刺を差し出すと受け取り、紀はじっとそれを見つめた。
「作家と言う方にお会いするのは初めてです」
「といいましても、作家とは名ばかりの底辺にいるようなものですけど」
「ふふ。そうなんですか?それでも作家さんには変わりありませんから」
紀ははじめ見たときの印象と違い、とても柔らかく笑った。
「それで、お調べになりたいこととは、何でしょうか。ぼくで役に立てばいいのですけど」
「突然にすみません。メールでお願いしたように次回の小説の参考にしたいと思いまして…人魚について、教えていただきたい」
「人魚、に、ついて」
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