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第六章
朝八時半。
十月とはいえ、まだ秋とは程遠い夏の暑さが残っている。
気温は三十度を超え、ジリジリと肌を焼かれるような太陽の日差しが降り注ぐ中、ジャケットを手に持ちながら表参道から徒歩三分にある職場へと向かった。
M&Bネクサス法律事務所は数名のシニアパートナーが代表を務めるローファームだ。大手企業が名を連ねる高層ビルの二十階から二十五階に看板を掲げ、企業法務などを手がけている。
ふたばは今年の四月から経理部で働いている。
姉と同じ、そして暁史と同じ会社で。
もちろん偶然ではない。わかばのことがあり就職を決めた。内定をもらえなかったことを考えてグループ企業の面接も受けていたが、第一志望である暁史と同じ会社に潜り込めたのは運が良かった。
調べると言っても、一大学生であるふたばにできることは多くなかった。せいぜい、姉から昔得た情報をまとめる程度のことで、暁史の顔すらわからなかった。
きっと同じ会社に就職できていなければ、週に一、二度『night’s』で飲んでいるということしか知り得なかっただろう。
わかばの妹だと言えば暁史に取り次いでもらえる可能性は高かったが、ふたばは自分の目で眞鍋暁史という男を判断したかった。
経理事務として雇われたふたばが直接弁護士たちと顔を合わせることはないが、暁史を含めたシニアパートナーは超のつくやり手だと呼び声が高い。
新人のふたばから見ても、職場環境もよく、給与や待遇もいい。れっきとしたホワイト企業だ。
しかし、暁史の噂は想像以上にひどいものだった。四月から働き始めたふたばが噂を耳にするくらいだから、ふたばの知らない噂も相当あるのだろう。
女性を毎週取っ替え引っ替えしている。という噂から始まり、汚い手を使って被害者を騙し示談に持ち込んでいるという噂もあった。
わかばから聞いていた暁史の話からは、まるで真逆だ。
悪い噂だらけのはずなのに、暁史は一切気にする様子もないようで、相変わらず派手な女性関係を持っているようだ。
実際に会ってみた印象は悪くはなかった。仕事と女性は別なのかもしれないが、少なくとも、取っ替え引っ替えしている女性と揉めたような話は一切聞かない。上手く一度きりの関係を築いているのだろう。
では、どうしてわかばにはそうしなかったのか。別れるにしても、彼なら相手をそう傷つけることなく上手く関係を終わらせられるような気がする。
ふたばは腕時計を見つめると、八時四〇分にビルの自動ドアを通る。
いつもは八時五十分前後にエレベーターに乗っているふたばだが、今日はいつもよりも十分早い。
エレベーターは二階~三十階までのAフロアに六基、三十一階から六十階までのBフロアに六基ある。Aフロアのエレベーターの前に立ち待っていると、時間通りに背の高い男が姿を現した。
ふたばは気がつかないふりをして、手に持ったジャケットを着用する。男に見えるように顔の位置を変えると。驚きに目を見開いた男と目が合った。
(そりゃあ……驚くよね)
暁史と会ったのは金曜の夜だ。あれから三日しか経っていない。さすがに忘れられてはいなかったようだ。
むしろ、一度キスしただけの女のことなどすぐに忘れるような男であったら、こちらも罪悪感はなかったかもしれないのに。
一応、ふたばの思惑通りに事は進んでいる。
計画では、彼の懐に入り込み、妹だとは知られないようにわかばのことを聞く。
その後のことはそれからだ。
ふたばは暁史の視線を感じながらも、自らは気づかないふりをしたまま、顔を前に戻した。暁史との仲を継続させて、少しずつ情報を引き出すしかないだろう。
こうして、接点を増やして彼を油断させるしかない。
ふたばはエレベーターの階数表示に視線を向けたまま、どうしたものかと考えていた。暁史が何か行動を起こしてくれればよし。何もなかったならまた『night’s』で待ち伏せるしかない。
その時、手に何かがトンと触れた。
首を傾げて自身の手を見つめると、すぐ隣へとやってきた暁史が何かを手渡してくる。
「あ……」
わざとらしくないようにふたばは驚いた顔を見せて口元に手を当てた。手のひらに握らされたのは一枚の紙。触り心地からして名刺だろう。
ジャケットのポケットに名刺をしまうと、ちょうど来たエレベーターに乗り込んだ。エレベーターの二十階のボタンを押すと、さらに暁史が驚いた目を向けてくる。
それはそうだろう。金曜日にベッドへと誘った女が同じ会社の人間だなんて彼は思いもしなかっただろうから。
他社に人間もいる混雑するエレベーターの中では、彼が言葉を発することはなかったが、頭の中は疑問だらけであることは手に取るようにわかった。
弁護士である暁史のデスクがあるのは二十五階。
ふたばが働く経理部があるのは二十階だ。アソシエイトでもない限り、弁護士が事務職の面接をすることなどあり得ないから、ふたばと同じ職場であることを彼が知らないのは無理ないことだ。
素知らぬ顔をして二十階で降りると、エレベーターがしまったのを確認してポケットに入れた名刺を取り出した。
(十二時、TEL、090……)
昼休みに電話をしろということだろう。ご丁寧に携帯の番号まで書いてある。名刺にも携帯の番号が書いてあるが、それとは違うから多分プライベートに使用する番号を書いたのだとわかる。
シニアパートナーである彼が人事部に照会をかければ、ふたばの正体などすぐに知れるだろう。彼は調べるだろうか。
(電話をかけなければ調べるかもしれない……それは困る)
暁史にとってふたばは、ほんの少し肌を触れ合わせただけの女性に過ぎない。
「あ、花椿さん、おはよう」
ふたばが振り返ると、後のエレベーターで来たのか同僚の吉野という男性社員が笑顔を向けてふたばの隣に小走りでやってきた。
吉野はふたばと同期入社の社員だ。
三歳上だからか頼り甲斐があり、ふたばをよく気にかけてくれていた。スポーツを継続的にやっていそうな体格のいい男で、肌は浅黒く、髪は短髪だ。
経理部員というより営業にいそうだが、誰に対しても愛想がよく気配り上手で、同僚からの評価も高い──が、ふたばは少し苦手としている。
「吉野さん、おはようございます」
「今日いつもより早くない? お茶当番だっけ? 俺の番だと思ってたけど」
事務職のメンバーにはお茶当番という役目が順番に回ってくる。
言葉通り来客対応のお茶出し係で、全員の机を拭く役目もある。もちろん社内には清掃スタッフもいるが、デスクの上には触れない。
重要書類を破棄するなどのミスを防ぐため、ゴミ箱も自分で回収場所に持っていく決まりになっていた。
いつもより十分ほど早くやってきたふたばに吉野が聞いたのは、そのためだろう。
「いえ、ちょっと早く目が覚めてしまったので散歩でもと思ったんですけど、あまりに暑くて」
「そりゃ十月って言ったって、ここ数年の十月の気温夏並みだからね。駅からの数分ですらジャケット着てられないよ」
「ですね」
「で、冷房の効いた会社に来ちゃおうって?」
「はい、そうです」
ふたばが顔を仰ぐ真似をすると、吉野の細い目が弧を描いた。
「仕方ない。今日。お茶当番の俺が花椿さんのためにコーヒーを淹れてあげよう」
「ありがとうございます」
ふたばが礼を言うと、吉野は「今度何かで返してくれたらいいよ」と言った。
冗談っぽい口調のため軽く流せば済むのだが、吉野のふたばを見る目が妙にねっとりと絡みつくようで、何となく距離を取ってしまう。
「じゃあ、デスク拭きます」
聞こえているのかいないのか、ふたばの言葉には返事をせず給湯室へと入っていった吉野にホッと息をつく。どうやら本当にコーヒーを淹れてくれるつもりらしい。
ふたばは自席に鞄を置いて、デスクに埃取り用のモップをかけていく。書類には手を触れずに閉じられたパソコンの上や、空いている部分だけでいいことになっているため、五分かからずに終わった。
室内にある観葉植物に水をやって席に着くと、デスクの上に淹れたてのホットコーヒーが置かれる。
「デスクありがとう。助かったよ」
オフィスは冷房が強く効いていて身体が冷えるため、ふたばは夏でも常温かホットを飲むようにしている。吉野はそれを知っていたようだ。
「いえ」
隣り合った席で、話をしているとちらほらほかの社員の姿が見え始める。二人きりにはならずに済みそうだと、ふたばは仕事用のパソコンを立ち上げた。
特に朝礼などはない。朝の挨拶をし、各自メールのチェックや、自分のデスクにある請求書を開封し、仕事を始める。
九時五分前には、ほとんど全員が席に着いていた。私語もなく時折鳴る電話の音と、パソコンのキーボードを打つ音だけが室内に響く。
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